『日本』令和3年10月号
東京オリンピックと武漢コロナ、そして日本文化
永江太郎 /(一財) 日本学協会理事
去る七月二十三日、第三十二回近代オリンピックが開催された。半世紀以上昔の東京オリンピックの開会式を知つてゐる者の一人としては、オリンピックマーチと渾然一体となつた各国選手団の華やかな入場式や、昭和天皇の開会宣言を懐かしく思ひ出した。
今回の開会式は、コロナ禍の最中といふ事で様々の工夫が見られた一方で、聖火の入場ではスポーツ以外の事に気配りをし過ぎたのではないかと感じたが、これが差別などの問題に敏感な現代の風潮であらうか。
個人的には、かつてのオリンピックの際に、朝霞で開催されたライフル射撃の支援に参加した思ひ出がある。その際には各国の選手や関係者との交流もあつたが、印象に残つたのは、アメリカのライフル協会の突出した大きさで、その政治的影響力と銃社会の片鱗を見た思ひがした。支援隊員の任務は、射撃の成績を確認するための標的の上げ下げや弾痕の表示といふ簡単なものであつたが、選手達からは日本のソルジャーは正確かつ機敏であると非常に好評であつた。
今回の長いやうで短かつたオリンピックは八月八日に閉幕したが、日本人選手の活躍も目覚ましく、大会は傍目(はため)から見ても見事に運営されてゐた。世界の二百五の国と地域から参加した一万一千人のアスリートから称賛され、感謝されたのは当然であらう。
開催前の世論調査では、オリンピックの中止や再延期を求める声が過半数を超えてゐた事を思へば、菅首相や小池都知事が国際的信義を重視して開催を決断し、見事にその責務を果たしたことは高く評価されて良い。IOCが菅首相と小池都知事に、オリンピック功労賞最高の「金賞」を贈つたのは当然であらう。
このやうな成功の陰には、医療スタッフをはじめとするボランティア活動があつた。外出などを極端に抑制されて、日本の風物や文化に触れる機会を持てなかつた筈の海外のオリンピック関係者が、日本および日本人に等しく好意を抱き謝意を述べてゐたのは、これらのボランティアの活躍によるものであらう。さらにボランティアだけでなく、食堂・宿泊・輸送・会場などのあらゆる分野で大会の運営に関はり支へた人々の誠実な努力があつた。このやうな陰徳と言ふべき陰の見えざる尽力、これも日本文化の一面である。
会場を間違へて困惑してゐたジャマイカのアスリートに、女性ボランティアが陸上競技場までのタクシー代を渡したお陰で、出場時間に間に合ひ百十米障害に優勝できたといふ逸話はその一例であらう。
スポーツはアスリートと観客から成り立つてゐる。観客は応援団でもある。その有無は競技会には決定的であり、日本政府も東京都も最後まで有観客に拘つたのも当然である。
それでも、世論調査で開催に否定的な意見が過半数を占める中では、無観客といふ選択もやむを得なかつたのであらう。しかし、開催直前の一日当りのコロナ感染者が、東京都で二千人未満、全国でも五千人程度の時に、反対、反対とマスコミを含めて大騒ぎしてゐたのが、オリンピックが見事に運営され、日本人選手が大活躍して世界から高い評価を受けると、一斉に沈黙して礼賛に変はつた。
閉会式の八月八日の感染者は、東京だけで四千人を超え、全国では一万五千人に迫り、それから一週間を過ぎた終戦の日には、一日当りの感染者が東京だけで五千人を超え、全国では二万人を超えた。感染者の総数は百十三万人に達し、死者の総数も一万五千人を超えたが、続くパラリンピックに反対する声はほとんど出なかつた。
これでコロナ禍を理由とするオリンピック反対の声は、現実を歪めた政治的発言である事が明らかになつたが、これに国民の過半数が賛同したのも事実である。このやうに惑はされやすく洗脳されやすいのは、日本人の弱点で衆愚政治の典型である。改めてオリンピック反対運動を扇動したのは誰なのか。彼らがコロナを口実に反対した目的は何なのか。単に現政権を貶めるだけだつたのであらうか。コロナに負けた東京オリンピックといふ汚名を後世まで残して、日本の評価を失墜させ国益を損なふ事が目的だつたのか。当時の新聞を読み直して再確認してみたい。
かつての日本人には、国家と国民は一体であるといふ感覚があつた。そして「末代までの恥辱」といふ言葉に代表される日本人特有の「恥の文化」があつた。少なくとも敗戦までは「文武両道に秀でた花も実もある武士」といふ言葉が生きてゐた。
今回のオリンピックの中止論争は、今の日本人が見失つてゐる欠陥を気付かせてくれた。徳育を重視し文武両道を理想とした日本の伝統的教育が、戦後教育の中で知育偏重となり、体育・スポーツは軽視され、感性を育てる芸術分野の教育も等閑に付された。本来、われわれ日本人は、一芸に秀でる事を理想とした筈である。近代日本が工業国家として成功したのは、優れた職人を芸術家として遇した文化的背景があつたからである。
一芸に秀でるための努力の姿は、スポーツが一番わかりやすい。陸上もあれば水泳もある、それも短距離もあれば長距離もある。球技もあれば芸術点が決め手になる競技もある。個人戦もあれば団体戦もある。アスリートの一人一人が、一芸に秀でる事を目指して、何年もの努力を積み重ね、その成果を世界に披瀝するのがオリンピックである。それでも国を代表してオリンピックに出場出来た人は幸せである。僅差で出場出来なかつた人もゐる。オリンピックの意義並びにアスリートの人生をかけた夢と努力を理解出来る人々は、簡単に中止などとは言へない筈である。
東京オリンピックは、コロナ問題を克服して見事に運営された。そしてコロナに負けない日本の姿を世界に示したが、これは運営に携はる末端の一人一人にまで、趣旨や責務・役割が徹底され、理解し実行されたからである。「一糸乱れず」は正に日本文化である。
東京オリンピックとパラリンピックが、世界的な評価を高めた一方で、コロナ禍が急速に拡大したのも事実である。それは自粛疲れによる気の緩みから来るものであると、指摘されてゐる。そして昨年は世界の都市が次々とロックダウンする中で、自粛だけでコロナを克服してゐると高く評価された日本が、今年は長期持久には弱いといふ弱点を露呈した。
感染の拡大は自粛の限界を明らかにすると同時に、自粛破りが横行するといふ社会的不公平を生み出した。その結果、ロックダウンや自粛破りへの処罰などの厳しい対応が当然のやうに話題となり、期せずして、個人の行き過ぎた私権優先に修正を迫る絶好の機会が生まれた。これは特別措置法の改正だけでなく、憲法にも波及する問題である。「禍をもつて福となす」、自民党や新内閣には、この機を逃さず速やかに短期の臨時国会を召集して、感染症に限定した憲法の部分改正に踏み切る決断を求めたい。好機一度去つてまた来たらず。日本の命運が掛かつてゐると言へよう。