『日本』令和3年2月号
日本学術会議の成立過程と科研費問題
髙橋史朗 /麗澤大学大学院特任教授・モラロジー研究所教授
日本学術会議は占領下の昭和二十四年に設立され、翌年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」という声明を出した。その歴史的経緯について考えるには、占領文書を実証的に研究した先行研究を踏まえる必要がある。
先行研究としては、中山茂「占領と日本学術会議」(『日本占領軍 ― その光と影』上巻所収論文、徳間書店)等があり、「日本占領の所産」であった日本学術会議の「実質的な生みの親」は、占領初期に活躍したニューディーラーの、GHQ経済科学局科学技術部のハリー・ケリー次長であったことが占領文書から判明している。
また、占領軍の公的歴史を集大成した『GHQ日本占領史』の第五十一巻『日本の科学技術の再編』(日本図書センター)の中山茂の解説によれば、これは「アメリカ的視点から日本の研究態度を批判的に見、彼らが自分たちの政策意図を以て展開した事業」で、「左翼的学者の組織として最も有名な民主主義科学者協会が代表して後に日本学術会議の中に民科派をつくり、政治的発言を行う」ようになり、「亀山直人一派の路線がケリーのニューディーラー路線に一番近いものであり、後に学術会議形成の主流となる」等と日米合作の成立経緯を分析している。
初代会長の亀山直人が昭和二十八年十一月二十日に吉田首相に宛てた書簡によれば、GHQは日本学術会議の設立に「異常な関心を示し、国家機関とすることを適当と認めた」という。
昭和四十二年にも同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発表し、平成二十九年三月には、この二つの「声明を継承」した「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表し、防衛省の「安全保障技術研究推進制度」は「政府による研究への介入が著しく、問題が多い」として反対したが、これらは学術会議が今も「戦後レジーム」から脱却できていないことを示している。
北大は平成二十八年度、同制度に応募し、微細な泡で船底を蔽(おお)い船の航行の抵抗を減らす液体力学の研究が採択された。この研究を日本学術会議が「軍事研究」と決めつけ、翌年の「軍事的安全保障研究に関する声明」で批判し、学術会議からの事実上の圧力で、北大は平成三十年に同研究を辞退するに至った。これこそあからさまな「学問の自由」への侵害ではないのか。
年間約二千四百億円の科研費を審査する審査委員はすべて日本学術会議の推薦者であり、杉田水脈議員は、慰安婦問題や徴用工問題の研究者が、韓国側と組んで科研費を使って「反日プロパガンダ」を行っていると国会で指摘し、「歴史問題に取り組む外務省や政府の後ろから文科省が弾を撃っているようなものだ」と批判した。
実際に調べてみると、関東学院大の林博史教授は、「対日戦争犯罪裁判の総合的研究」「日本軍『慰安婦』制度と米軍の性売買政策・性暴力の比較研究」等の研究で五千万円以上の科研費を獲得している。科研費の使途を記載した報告書には、米英等で性犯罪に関する公文書の発掘調査に取り組んだことが記されている。
しかし、林教授は発掘した公文書を慰安婦支援団体「全国行動」に提供し、同団体はその資料を基にして、日本軍の関与や強制性を裏付ける「証拠」として日本政府に資料を提出するとともに、ユネスコ「世界の記憶」登録申請資料として活用された。
また、林教授の共同研究者として科研費を獲得した中央大学の吉見義明名誉教授が科研費の使途を記載した報告書によれば、同団体共同代表の梁澄子氏と韓国の挺対協(二〇一八年から「正義連」に改称)代表の尹美香氏(国会議員に転身し、李容洙元慰安婦に告発された)が同行したと記し、慰安婦問題に取り組む韓国の研究者や民間団体との会合も含まれている。
北京で拘束された北大の岩谷将教授の前任者であった法政大学の山口二郎教授には、約六億円が交付されており、その山口教授は安保法制反対デモで安倍首相に対して、「お前は人間じゃねぇ。たたっ切ってやる」と暴言を吐いたと報じられている。
科研費という「虎の尾」を踏んだ杉田議員を告訴した同志社大学の岡野八大教授は、大阪大学の牟田和江教授と共に「ジェンダー平等社会の実現に資する研究」で約一千七百五十万円の科研費を獲得し、実績報告書には、中国における慰安婦支援運動に関する調査や台湾の「慰安婦」博物館の開会式に参加し、現地活動家との交流を図ったことや、慰安婦問題を取り上げたショートムービーを作成したこと等が記載されている。この映像には、挺対協の「水曜デモ」や、尹美香代表が「過去のアジア諸国に対する戦争犯罪を日本が認め、被害者の人権と名誉を回復するために、日本の皆さん、特に若者と一緒に声を上げることができれば素晴らしい」と訴える様子などを収録している。