『日本』令和3年5月号
欺瞞の改憲論議― 侵略に目を背ける緊急事態条項の提案 ―
慶野義雄 / 平成国際大学名誉教授
立憲主義と緊急事態条項
武漢肺炎の感染拡大は世界中をパニックに陥し入れた。『改憲』の旗手を名乗る安倍前首相も、憲法に緊急事態条項を創設しておくべきだったと述べる。他方、野党やマスコミ、左翼憲法学者は、緊急事態条項の創設は立憲政治を崩壊させるとして反対する。両論とも肝腎のことを見逃しており、最近の憲法論議の貧困を象徴しているように見えて仕方がない。
立憲国家の憲法こそ、緊急事態対処規定を持つべきことは当然である。古代共和制ローマにおいては、平時においては元老院の下に複数の執政官が行政を行ったが、戦争や内乱などの危機においては一人の独裁官に目的と期限を限って権限を委譲した。目的は具体的に明確化され、期間は三か月、六か月等短期間であった。しかも、できるだけ短期間に目的を達し、権力を元老院(議会)に返納することが独裁官の名誉とされた。マキャベリやルソーもこの独裁官の制度があったからこそ共和制ローマが生き残ったと書いている。独裁が名誉を失墜したのは、共産主義者が自らの専制・強権支配を「プロレタリアート独裁」と名乗ったことによる。本来の独裁官制度が予(あらかじ)め法的手続きを経て準備された立憲国家の安全装置であるのに対し、スターリン、習近平、金正恩等の強権・無法支配は、強権的専制支配自体の永久化を目指すものであり本来の独裁とは真逆のものである。立憲政治は、議会政治、権力分立、法の支配などの政治原理に立脚し、討論と説得の民主主義的手法を重んずる。しかし、こうした手法は決定に時間がかかり、危機対応には効率が悪いという難点がある。そこで、起こりうる危機を予め予測し、対処の方法を決めておく必要がある。もちろん、人間は未来のことをすべて予測できるわけではないから、ある程度の幅をもって対処の仕方を決めておくのである。
失笑話二題
BSフジの番組プライムニュースで、ある中国人学者が、中国の新型コロナ対応に比べいかに日本の対応が悪いかをまくし立てるのを聞き、説教泥棒の落語を思い浮かべた。安倍首相(当時)とその周辺のコロナ感染拡大に便乗した緊急事態条項創設の提案も失笑ものである。武漢肺炎の蔓延は、政権の危機管理の失敗にある。第一に、習近平への行き過ぎた忖度による初動の遅れと不徹底、第二にGoToキャンペーンなどによる人流拡大などがあった。危機対応関連法規の整備、医療備品の備蓄、検査体制など平時からなすべき備えも不十分であった。私権の制限というが現憲法下でも私権は公共の福祉の制約下にある。自らの危機管理能力の不足を棚に上げて責任転嫁するのも見苦しい。たしかに、独立国家の憲法に緊急事態対処規定は必要である。問題は、何のための緊急事態規定なのかである。そして、誤解されてならないのは、憲法に緊急事態条項を設けても恣意的な私権制限を含むオールマイティの権限が政府に与えられるわけではないことである。危機管理の失敗を正当化するような文脈で提案されると、政府は緊急事態条項を恣意的に乱用し、基本的人権が侵害されるのではないかという疑念も生ずるだろう。憲法の緊急事態規定は、むしろ、法治主義を徹底し、立憲政治を強化するためにある。
帝国憲法の非常事態条項
大日本帝国憲法の非常事態規定はよく練られていた。まず、帝国憲法第八条により、「議会閉会中」において、天皇は「公共の安全を保持しその災厄を避くるため」緊急勅令を出すことができる。ただし、緊急勅令は次の議会で承認されなければ効力を失う。第十四条に戒厳の規定がある。戒厳の要件と効力は法律に基づく。臣民の権利義務を定める第二章の第三十一条は、戦時又は国家事変に際して天皇大権の施行を妨げることはないと定める。さらに、第七十条には、第八条の緊急勅令に際しては、勅令により財政処分を行うことができること、その場合は次の国会で承認を得なければならないことを定めた。
注目すべきは、帝国憲法の国家緊急権が行政型であったことである。第八条により天皇(政府)が緊急勅令を発令して何らかの措置を行えるのは議会閉会中だけであり、しかも次の議会で承認を得なければ無効となる。天皇(政府)は「仮立法権」を持つにすぎない。もちろんこの場合も枢密院の審議にかけなければならない。第十四条の戒厳の要件と効力は法律に基づくので立法型ではなく行政型である。
第三十一条の天皇の所謂非常大権については、戦時及び事変に際しては全てにわたり私権制限が可能とする説と第八条の緊急勅令のみに関して私権制限が可能とする学説の対立があった。ただ、帝国憲法の時代を通じて第三十一条が行使されたことは一度もなく、いわば抜かれざる神刀であった。帝国憲法下の国家緊急権は、自ら法を創造する立法型のものではなく、議会の定める法を執行する行政型のものであり、政府が議会からフリーハンドで対策を打てるのは議会の閉会中だけであった。それに対し、コロナ対策では議会にかける機会は何度もあった。むしろ、野党は議会での審議を求めていた。安倍政権やその周辺が、緊急事態条項がないからコロナ対策ができないというのは、無策と無能の言い訳にすぎない。
それ以上に問題なのは、創設すべきとする「非常事態条項」に「大規模自然災害などの非常事態」と妙な形容詞を付けていることである。非常事態に大地震や感染症などを加えてもよいが、最大の緊急事態は軍事的、安全保障上の事態である。例示するなら第一に「戦争、侵略等の」緊急事態というべきであり、「自然災害」を一番にするのでは順番が逆であろう。実際、コロナ騒ぎをしているこの時も中国は尖閣周辺の領海を重装備船舶で連日侵犯、尖閣諸島はいつ奪われてもおかしくない状況である。「自然災害」を第一に例示することにより、戦争や侵略などのより深刻な安保事態から国民の目を塞いでいる。
コロナ便乗組の緊急事態条項と対照的なのは帝国憲法の非常事態規定である。帝国憲法の非常事態規定の中心は第十四条の戒厳である。戒厳の根拠法になるのが戒厳令である。戒厳令は宣告の要件を「戦時または事変」としている。何が緊急事態として最も重大なのかを明確にしながら、同時に政府の恣意的権力行使を抑止するという帝国憲法は、立憲主義の手本である。帝国憲法は、軍事上、安全保障上の事態を緊急事態として真正面から見据えていた。戒厳という言葉自体が軍事的警戒体制を意味する。
ボタンの掛け違い
安倍氏とその周辺で提案されている緊急事態条項の胡散臭さは何に由来するのだろうか。安倍氏は、すでに第九条一項二項をそのままにして自衛隊の保有を明記するという第九条改正案を提案している。しかし、これでは表面上は改正を装っても、実質的には第九条固定化論にすぎない。安倍氏等は、自衛隊明記により、合憲か違憲かという不毛な論争に終止符を打つと息まくが、自衛隊を明記しても、自衛隊は軍隊であるか否かという「不毛な」論争は永遠に続く。改憲論者の中から、自衛隊は、平時は警察官兼消防官であるが、有事には軍隊になるなどという珍奇な議論さえ出てくる。占領下でGHQによって作られた第九条が、戦争を放棄し、戦力の保持を禁ずるのは当然の理である。第九条は戦争や侵略を想定していない。第九条を固定する限り、戦争や侵略事態、あるいはそれらに直結する危機に対処できる緊急事態条項などできる訳がない。最初のボタンの掛け違いにより、後の全てに無理がくるのである。