『日本』令和3年7月号
グローバル時代に伝統文化を学ぶ意義
渡邉 規矩郎 /桃山学院教育大学客員教授
外国人学生に尋ねられた「いただきます」
数年前に務めていた大学の国際教育学科一年の学生たちが、一カ年のニュージーランドキャンパスでの留学生活を終え帰国した報告会で、学生たちが英語を母国語としない三十数か国の学生たちと英語で交流した学生生活が語られました。その中で、諸外国の学生から一番よく尋ねられたのは、食事の前に手を合わせて「いただきます」という作法だったという。他にも、学生たちが披露したお茶やお花に対して問われたのは、その所作よりも茶道や華道を生んだスピリットであり文化的背景。日本語でも説明が難しい問い掛けに対して英語で説明しなくてはならないので、学生たちは十分に答えられなかったそうです。これは当時、「時事教養」と「日本の伝統文化」を担当していた筆者の課題ともなりました。
「いただく」の漢字表記は、「頂く」、「戴く」です。「頂く」は「食べる・飲む」の謙譲語と「もらう」の謙譲語なのに対し、「戴く」には「ありがたく受け取る」という意味もあります。しかし、一般的には「いただく」を漢字表記する場合は「頂く」と表すことが多いようです。
いうまでもなく、食事はいのちを支える、欠くことのできない営みです。食物はすべて天地の恵みによって生まれたものであり、いのちあるものです。食事の始まりと終わりには、天地のはたらきと一つひとつの食材のいのち、そして、食物を作る人たちなどの、私どもの知らないところでお世話してくださった人たちへの感謝の心をこめて食前に「いただきます」、食後に「ごちそうさま」を唱え、おいしく、楽しくありがたく頂きます。さらに、いのちあるものを食べて、わがいのちに替えるのですから、そのいのちを生かしていくように心がけて頂くように教え育てられ、自然な習慣になっています。
ひところ、学校給食の場で「いただきます」「ごちそうさま」と唱えながら手を合わせるのは宗教的な作法として反対する声もありましたが、今はそうしたことはほとんどありません。むしろ若者の方が、食前に「いただきます」と手を合わせて食事する習慣が身についているように見受けられます。
禅宗や神道における食前・食後の唱え
学生時代に静岡県袋井市の禅寺、可睡斎(かすいさい)で体験修行をした経験がありますが、曹洞宗には必ず食事の前に唱える「五観の偈」という偈文(げもん)があり、毎食前に唱えました。福井の永平寺で精進料理を頂いたときにも、この作法の説明があり、それに則って食事をしました。曹洞禅では坐禅だけでなく、日々の行もすべて修行で、特に食事を作ること、食事を頂くことは、とても重要な修行とされています。
「五観の偈」
一、功の多少を計り彼の来処(らいしょ)を量(はか)る。
(食物が食前に運ばれるまで、幾多の人々の労力と神仏の加護によることを想って感謝します)
二、己が徳行の全闕(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず
(私どもの徳行が足らないにもかかわらず、この食物を頂くことを過分に思います)
三、心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす
(食物にむかって貪る心、厭う心を起こしません)
四、正(まさ)に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり
(食物は、天地の生命を宿す良薬と心得て頂きます)
五、成道(じょうどう)の為の故に今この食(じき)を受く
(この食物を今から頂くのは、己の道を成し遂げるためです)
筆者は、中学・高校と金光教が経営する岡山の私学に進みました。信徒ではありませんでしたが、中学に入学すると、昼食時には食前・食後訓を唱和する指導を受け、その言葉は今も覚えています。
【食 前訓】食物はみな、人のいのちのために天地の神の造り与え給うものぞ。何を飲むにも食うにも、ありがたくいただく心を忘れるな。
【食後訓】体の丈夫を願え、体を作れ、何事も体がもとなり。
のちに神職に関係すると、食事の場では本居宣長の『玉鉾百首』にある、食事が出来るのは伊勢の神宮に祀られる天照大神と豊受大神のお蔭だという二首を唱和しました。
【食前感謝】(静座 一拝一拍手)
たなつもの百(もも)の木(き)草(くさ)もあまてらす 日の大神のめぐみえてこそ(いただきます)
【食後感謝】(端座 一拝一拍手)
朝よひに物くふごとに豊受(とようけ)の 神のめぐみを思へ世の人(ごちそうさま)
この食事のときの「いただきます」の言葉の中には様々な意味が集約されています。天からの恵として畏れ多く頭上に捧げて戴くさまを形容する「いただきます」という語は、日本人が生み出した素晴らしい傑作といえましょう。
未来を担う日本人の資質形成に重要な役割
「いただきます」の言葉一つとっても、そこには日本の歴史や伝統文化が凝縮されています。
占領政策に端を発し、戦後教育で軽視されたままだった伝統文化に関する教育は、平成十八年十二月に改正・施行された教育基本法で復活、同法の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」(第二条教育の目標の五)や学校教育法の「我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」(第二章 義務教育第二十一条の三)を受けて、その後の学習指導要領では、伝統や文化に関する教育は、教育内容の重点事項として充実が図られてきています。
この学習指導要領の動向とも関連して、国立教育政策研究所では平成十七年度から全国の学校を対象として「我が国の伝統文化を尊重する教育に関する実践モデル事業」を推進。東京都では同年度から「日本の伝統・文化理解教育推進事業」をはじめ、幼・小・中・高・特別支援学校にモデル校園を指定し、研究事業を進展させ、同十九年度には都立高校の設定教科・科目として「日本の伝統・文化」を設置しています。このような全国や都道府県における「伝統や文化」に関する教育活動だけでなく、各市町村と各学校においても多様に取り組まれています。これらの取り組みの様子は、十七回を重ねた和文化教育全国大会などで実践交流されており、着実に広がりを見せています。
沖縄県伊平屋村(いへやそん)教育委員会は、地域の伝統や文化を継承し、地域活動の活性化をめざした「伝統文化学習の日」を開設して十年目を迎えます。二月に開催された伝統文化学習発表会で、小中学生が成果を発表する舞台演舞や展示作品には、自信と個性があふれており、発表会に訪れた伊平屋島の大人は、島の伝統に触れ、誇りをもって継承していく子供たちに感動した様子でした。
伝統文化学習は、グローバル時代に生きる日本人の資質形成の上に重要な役割を持っています。