『日本』平成31年3月号

確かな物の見方・考え方を

渡邉規矩郎 / 桃山学院教育大学客員教授


新学期の授業のスタートには、筆者は「物の見方・考え方」を学生と一緒に考え、確認することを習わしとしてきた。物の見方・考え方の物差しが狂っていると、すべてが歪んでしまうからだ。この物の見方・考え方の物差しの基本は、筆者が青年時代、故田中卓博士主宰の国史研究会で学んだ。これを基にしながら、大事な尺度と思われるものとして、十項目をあげてみたい。


心で見ないと肝心なことは見えない

まず第一に、物事の本質・根本を明らかにすること。枝葉末節にはこだわらないこと。

第二に、多面的に、公平・公正に見ていくこと。

第三に、近視眼的、目先のことにこだわらず、長期的な判断をすること。そして心の目で見ること。

「心眼」という言葉があるが、この「心の目」で見るのはなかなか容易なことではない。

かなり以前、NHKテレビで「星の王子さま こころの旅」という番組を見た。『星の王子さま』の作品の冒頭には「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」とあるが、この作品は、子どもの心を忘れてしまった大人に向けたものだともいわれている。番組では、作者サン・テグジュペリが、人間にとって大切なものとは何かを問い続けた「こころの旅」を描いており、たいへん感銘を受けた。特に、作品にもあるが、キツネが王子さまに「こころで見なくちゃ、物事はよく見えないんだよ」、「肝心なことは目には見えないんだよ」と語りかける言葉が最後のところで強調されており共感を覚えた。

これに関連して想起されるのは、明治天皇の次の御製である。

目にみえぬ神のこころにかよふこそ 人の心のまことなりけり

一昔前までは、「お天道様が見て御座る」とか「ご先祖様に顔向けができぬ」などといった言葉が、どこの家庭でも聞かれ、「神みそなわす」という精神でもって、人は心清く生きようとした。人目に触れぬ隠れたところであっても、人の道を踏み外さないように生きようと心がけてきた。目に見えぬ神の心にかようよう、心を磨き、心の誠を尽くすことによって、神様の恵み、お蔭をいただこうとしてきた。

「心の目」のほか、「鳥の目」や「虫の目」、「地域の目」で見ることも必要である。鳥瞰的に眺めることも、虫眼鏡で細かく見ていくことも要る。その中で、小さないのちに大いなる働きを観る目を養うこともできよう。さらに、四方八方、あらゆる角度から眺めることが必要である。「地域の目」ということでは、他所者の目でその地域のことを見てはならないということ。かつて、旧自治省出身の岸昌(さかえ)・大阪府知事(当時)から、自治省には「三惚(ほ)れ」という言葉があると聞いた。地方に出向していく若い役人に、先輩が「地域に惚れろ」、「仕事に惚れろ」、「女房に惚れろ」の三つの言葉を餞別(せんべつ)に贈ったという。


大きな鐘は撞く力で鳴る音が違ってくる

第四は、「生きているか、死んでいるか」、「ニセものか、本物か」という物差しで見ること。

例えば、ギリシャのパルテノンの神殿やエジプトのピラミッドは遺跡であり、本来の機能を失っているのに対し、これに匹敵する伊勢の神宮や仁徳天皇の御陵は、現にそのいのちを保ち祀られている。また、両腕を失ってルーヴル美術館に展示されている美の女神・ミロのビーナスと、法隆寺の夢殿に祀られている木像の救世(ぐぜ)観音菩薩立像を対比してもよい。本物・偽物、真贋については説明するまでもない。

第五に、大きな釣り鐘は、撞(つ)く力によって発する音が違うということ。

このことは、自分の力量によって物の見方・考え方が変わってくるということ。それゆえに、自分自身を高めていかなければならない。レベルの低い自分の目線で物を見たり判断したり評価してはならない。昨今は、高いレベルの人を自分のレベルに引きおろして論じることが、いろんな分野であまりにも多すぎる。何事においても、自分がその高みに上っていかねばならない。また、東洋では「以心伝心」、人の心の中までわかるということが強調されてきた。道元禅師が教える「火を伝えるのは火、水を伝えるのは水」という伝承の厳しさ、難しさを知っておかなければならない。


温故知新・彰往考来・稽古照今

第六に、温故知新(故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る=『論語』)、彰往考来(往時を彰(あきら)かにし来時を考える=『春秋左氏伝』)、稽古照今(古を稽(かんが)え今に照らす=『古事記』)。

過去から現在に至る筋道を知らなくては、現在はわからない。現在がわからないと、これから未来へと進むことができない。過去を確実に理解して、そして、自分の歩んできた道を振り返ることによって、将来を決定しうる。記憶を喪失した人が、記憶を取り戻した時点で初めて前へ進むことができるように、過去を本当に知り得て、はじめて未来への道が開ける。過去の延長線上に未来がある。昔のことをよく学び、現在に生かすことが大切となる。

第七に、先人、現代人、子孫の声を聞くこと。我々は、世の中は今を生きる人だけで構成されていると思いがちだが、それは現代人の不遜・傲慢につながる危険な思い上がりである。世の中は、先人、さらに、やがて生まれてくる子孫たち、この三者で構成されていることを忘れてはならない。

第八に、物事の筋道と眼目を押さえること。

物事のすべてがわかるということは、まず考えられない。物事はすべてにおいてそれぞれ意味がある が、大事な眼目を押さえておかないと、私どもの歩む道もまた非常に不安定になってしまう。


芭蕉は含蓄を重んじ暴露を嫌った

第九に、無数な事実の中から取捨選択すること。

文章表現を例にすると、同一の材料でも、書き手が異なれば判断が異なってくる。物見方・考え方をしっかり身につけないと、白と黒ほどの差が出てくる。すべてを書くことはできない。わずかな表現で、しかも本質まで明らかにすることができた時に、はじめて文章の達人ということができる。

漫画でいえば、極限まで省略しつつ対象を見事に捉える、一本の線がそれを象徴している。

俳聖芭蕉は、含蓄を重んじて暴露を嫌った。去来によると、尾張の俳人の句を聞いて、これを難じて「発句は、かくのごとく、くまぐままで言ひ尽くすものにあらず」と言ったという。また、其角が刊行した句集の中の駄句を見て、「云ひおほせて何かある」と厳烈に批判した。「云ひおほす」とは詳細周到な描写、完全十分なる表現、隅々まで行き届いた説明のこと。芭蕉はそれを忌み嫌い、重んじたのは、余情であり、余韻であり、含蓄であり、象徴であった。

十番目は、事実と真実ということ。

板垣退助は、事実としては、「板垣死すとも自由は死せず」とは言ってはいない。ガリレオも「それでも地球は動く」とは言わなかった。けれども、これらの言葉が真実として伝えられている。

確かな見方・考え方を養うために、本物に、嘘をつかない自然に接したいものだ。