『日本』令和4年11月号
我が国の財政赤字とマクロ経済政策
今岡日出紀 / 島根県立大学名誉教授
我が国は現在、膨大な財政赤字を抱えています。以前は、財政赤字を国債発行で賄いつつ、基礎的財政収支(公共事業費、社会保障費等の政策のために使われる経費が国債や政府借入に頼ることなく賄えているかどうかを示す指標)の均衡化を目指して、緊縮財政政策を維持してきました。しかし、三年前ごろからコロナウイルス感染症の蔓延を阻止するための無償医療経費の増大、ウイルス感染症対策による商業部門・外食部門の企業及び個人の経済活動に対する政策的制限措置によって発生した損失補償給付金の発生、インバウンドの急激な減少に対する救済給付金の支払いの急増などが、従来からの財政支出の増加に加わり、財政赤字は巨額になってきました。この赤字を補填するために、国債発行額が増加してきました。平成十五年度の国債累積発行残高の五百五十六兆四千億円が、令和二年度には千七十四兆二千億円にまで増加してきました。かくして、令和二年度における国債発行残高の対GDP比は約一・六倍にもなりました。欧米諸国における同様な比率は〇・一五から〇・五ですので、我が国の政府の借金は破格に大きいことになります。
現在、我が国は深刻なデフレに直面しています。このデフレから脱却するために、日本銀行は異次元ともいえる通貨供給増加政策を展開して、消費者物価が年率二%上昇(または期待消費者物価の年率二%上昇)することを目指しています。しかし、この目標はまだ達成されていません。これが実現されるためには、現在の一回限りの補助金とか給付金のバラマキではなく、財政の面からする継続的な経済構造の改革を民間投資が実現するための政策支援が必要です。このための積極的財政政策を実現するための財政支出増に、我が国の財政は耐えることが出来るのでしょうか。この問いに答えるのが本稿の目的です。
赤字国債の発行増が財政破綻を招くと言う諸俗説俗説と考えられる第一の議論は、赤字国債の増大を我々の家計における借金の増大と同列に論じる議論です。「家計が年収の一・六倍もの借金を抱えれば、当然、破産せざるを得ないでしょう。同様に、政府がGDPの一・六倍もの借金をすれば、政府も破産せざるを得ないですよ」と言うのがこの説の主張です。この説を検討してみましょう。家計の借用証書は特定団体以外誰も購入しないでしょう。しかし。政府の借用証書である国債は、国債を債券市場に売り出せば、市井の人々や銀行は自らの金融資産として保有しようとするでしょう。従って、金融資産の市場が十分に大きく、健全である限り、金融資産の市場規模に応じて政府は国債を販売して財政の借金を賄うことが出来ることになります。従って、政府は倒産しません。
先日、日本経済新聞に「風見鶏」と言う囲み記事で、「戦時中の日銀引き受けの赤字国債発行による軍事費調達が戦中時の超インフレーションを引き起こした」と述べていました。さらにこの議論を援用して、現在政府がGDP一%の国防費をGDP二%に引き上げようとしていますが、この財源として日本銀行引き受けの国債発行で得た資金を使えば、この場合にもインフレーションを引き起こすことになるだろう、とも述べています。
この議論で見過ごされている点は、戦時日本における債券市場の規模と市場機構の発展の度合と比較して、現在の日本の債券市場の規模は遥かに大きく、またその市場機構の発達の度合いは遥かに進んだものであると言う点です。従って、現在の日本の国債の市場価格は債券市場の民間債券価格と比肩しうるものです。従って日銀は市場を通じて国債を購入して、これを資産として保有し、その価額に等しい貨幣を資金市場に供給しています。従って、供給貨幣の価値は、国債の価値によって裏打ちされていることになります。しかし、戦時日本の債券市場は小規模で国債を吸収できるほどの容量を持たず、政府が保証するだけの国債の額面価格と利率を担保にして国債を政府から購入することになります。政府が与える担保国債への信認だけを頼りに日銀は国債を購入する訳ですから、貨幣の価値は下がってインフレーションは発生し易くなります。
国債市場の実態ここで、国際市場について概略を説明しておきましょう。政府は財政の赤字を埋めるために、国債を債券市場で売って財政資金を調達しなければなりません。その為には、国債に額面価格、償還期限、額面利率を明記しておく必要があります。政府が国債を売り出すときの、額面利率と額面価額を掛け合わせて得られる額面収益を国債市場価格で除したものが市場利益率になります。市場利益率をその他の債券の利益率と比較しながら、適切な売り出し市場価格を決めていきますが、最終的には債券市場全体の取引の結果として、国債の市場売り出し価格は決まることになります。
金融資産の保有者は、この国債の売り出し価格から決まる国債市場利益率を、他の金融資産の市場利益率と比較しながら、国債とその他の金融資産への需要比率を決めることになります。簡単化して言えば、国内債券市場の規模と、外国金融市場からの我が国国債への重要規模などに応じて、我が国政府は自国の国債発行額を確定することが出来ます。
ちなみに、令和二年度の国債および借入金等の累積保有残高額の所有者別の比率は次の通りです。日本銀行(四二・七%)、市中金融機関(九・二%)、政府関係機関、財政融資資金、国債整理機関の三機関の合計(二・〇%)、その他(四六・〇%)がそれ等です(数字は国債統計年報、財務省より)。
日本銀行は保有国債を資産として、それに見合った貨幣を供給しています。市中金融機関は、家計、企業から預かった預金等を国債等の形で運用しています。その他は、短期的な歳入と歳出の時期的ずれを調整する短期政府証券(財務省証券など)で政府が保有しています。
デフレ下でのマクロ経済政策過去二十年余の間、日本経済は深刻なデフレに悩まされてきました。まず、日本銀行は異次元な積極的に貨幣供給の増大政策を展開しながら、消費者物価の年率二%上昇(あるいは期待消費者価格の年率二%の上昇)を達成することを目標にしてきました。この二%の消費者価格の上昇は、近時の消費者価格の上昇とは性質を異にするものです。一言で言えば、近時の物価上昇はコスト・プッシュ型のインフレーションです。戦争、干ばつ、洪水による穀物価格の上昇、戦争等によるエネルギー価格の上昇、円の対ドル切下げによる諸物価の上昇によるインフレーションであって、外生的要因によるインフレで、やがてこれらの外生要因はインフレ要因として作用しなくなるでしょう。日銀がもとめている消費者物価の上昇はデフレ下で意気阻喪した人々が将来への明るい期待をもたせるようなものであることが期待されています。残念ながら、このような物価上昇はまだ達成されていませんが。
財政政策は、投資増を誘発するタイプのものが望ましいと考えます。製造工業および第三次産業の分野で、その裾野にある中小企業の近代化を進めることによって生産性を引き上げることが出来る投資を促進することが必要であると思います。精密工業、化学材料、自動車部品、医療・薬品産業などの分野の中小企業を近代化するのに必要な人材養成のための人的投資などが有望な分野です。