『日本』令和5年10月号
中教審の「令和の日本型学校教育」への疑問
橋本秀雄 /元公立中学校長
今、学校教育は激変と言つてよいほど大きく変はらうとしてゐる。平成三十一年に教師の働き方改革が始まり、中学校の部活動は地域移行が求められ、本年度から三年の間に制度を整へることになつてゐる。教師の勤務時間も月四十五時間以上の残業をしないやう指導され、校内研修の在り方が見直されてゐる。また令和元年十二月にGIGAスクール構想が発表され、翌年から全国の小中高生に一人一台の情報端末が配布され、普段の授業に使用することが求められた。
かうした大きな改革が進むなか、中央教育審議会(中教審)は平成三十一年四月、文部科学大臣から「新しい時代の初等中等教育の在り方について」を諮問され、現在、実施されてゐる学習指導要領をふまへて、二〇二〇年代に実現すべき教育の在り方を検討したのである。その間、コロナ禍もあり、令和三年一月に「令和の日本型学校教育の構築を目指して」といふ答申を出した。その求めるところは「全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学び」の実現であつた。しかし、これらの改革は本当に望ましい方向に向かつて行くのだらうか。
表面的な課題に流れた中教審の答申
中教審が描く新しい時代は、社会の在り方が劇的に変はる時代であり、新型コロナウイルス感染症拡大などで体験したやうな先行き不透明で「予測困難な時代」である。さういふ時代に生きる今の子供たちに必要な資質能力を、答申では次のやうに整理してゐる。
「 いつの時代にも必要な力である自他の生命の尊重、公共の精神、規範意識や他者への思いやり、人間関係を築く力、物事を成し遂げる力、それに豊かな情操や健康な体」
それらを育むのが「令和の日本型学校教育」なのだが、「日本型学校教育」とは明治以来の我が国の学校教育を指してをり、その良さを受け継ぐ意図がある。
明治五年の「学制」公布以来、我が国の学校教育は急速に発展し、戦後も憲法・教育基本法の下で今日に続く学校教育制度が整へられた。その間に行はれてきた学校教育では、教師が子供たちの状況を総合的に把握して、子供たちの知・徳・体を一体として育んできてゐる。そして、全国の子供の一定水準の教育を保証してきた。さうした全人教育の成果を日本型として評価してゐるのである。確かに日本の子供たちは学力面で高い水準にある。五年に一度実施されるOECD(経済協力開発機構)の学習到達度調査でも「数学的理解力」「科学的理解力」はこれまでトップクラスであり、「読解力」も高い学力を維持してきてゐる。また道徳性においても、東日本大震災の時に見せた日本人の秩序だつた思ひやりのある行動など、日本人は礼儀正しく、勤勉で規範意識も高いと評価されてゐる。このやうに日本で行はれてきた全人格的な陶冶や社会性の涵養を目指した教育が、「日本型学校教育」なのである。
次に「令和の」としたのは、来たるべき新しい時代に対応した教育に発展することを目指してゐる。それにはICT(情報通信技術)教育が必要不可欠とされた。
現在、我が国のデジタル化は欧米のみならず台湾や韓国、中国などの近隣諸国にも後れを取つてゐると言はれてゐる。それは先般のコロナ感染症の拡大への対応でも明らかになり、またOECDの学習到達度調査で読解力が低かつたのも生徒が情報端末による情報の収集、処理に慣れてゐないことが一因とされた。政府は我が国のさうした実態に危機感をもち、学校の情報化に関する閣議決定をしてゐる。文部科学省(文科省)はそれを受けてGIGAスクール構想を発表し、中教審もその実現を期待したのである。ICTを活用して学習を個別化し、一人一人の個性にあつた学習を進める「個別最適な学び」と、児童生徒が友達との意見交流を通して理解を深める「協働的な学び」を一体的に実現するのだといふ。
生き方を学ぶことこそが学校教育の本質
答申では従来の日本型学校教育が成果をあげて来た反面、それらは教師の過重労働によるものであり、教員の働き方を変へる必要があるとしてゐる。その改革の俎上に上つたのが部活動で、これは必ずしも教師が担はなければならない業務ではないとされ、部活動を学校から切り離し、地域に移すこととしたのである。しかし、これまで学校教育、とりわけ中学教育で部活動の占める割合は非常に大きかつた。小学生が中学入学時に持つ関心事はどの部活に入るかであつたし、卒業文集の半分は部活動での練習や大会のことであつた。生徒は授業や学級では見せない姿を部活の中で見せ、得意分野で注目を浴びる場であつた。今時の子供にとつて、部活動は唯一の厳しさを味はふ場面ではなかつたか。仲間とともに困難を乗り越える貴重な場なのだ。保護者とつても教師が指導者としてつくことは安心材料であつた。部活動を通して生徒指導が機能し、教育効果を上げてゐた「日本型学校教育」の重要な場であつた。それを学校から切り離して果たして、「日本型学校教育」が受け継がれるのか疑問である。
筆者はこれまで、学習指導要領の改定を何度も経験したが、中学校でのクラブ活動や選択教科の時間増など、効果がなくて消えたり縮小したりした事も少なからずあつた。しかし、文科省や中教審がそれを失敗として認めたことはない。たとへば現在、子供の実態で深刻なのは自殺数や不登校の児童生徒数が依然として増加してゐることである。また、日本の子供たちは世界と比較しても自己肯定感が低いといつた問題もある。日本型教育は学力面や道徳面でよい成果を生んだが、答申ではかうした深刻な問題についての厳しい反省を見たことがない。
今夏、私が関はつてゐる教育研究会で、若い教師による次のやうな実践発表を聞いて、この問題の原因は、中教審や文科省が主導してきた戦後教育にあると改めて思つた。
実践発表の主題は「子どもたちに志を育む教育」であつた。その教師は前年度に崩壊した学級を受け持つたのだが、自身の体験からこの子供たちには目標になる人物が必要だと考へ、毎日の短学活(朝の会や終はりの会)で二宮尊徳や北里柴三郎などの偉人語りをしたといふ。学級の子供たちは、初めて聞く先人の偉業や精神にふれ、次第に自分も志を持つて生きたいと思ふやうになり、学級生活の中で挨拶や掃除、係活動などを積極的にやるやうになつたといふ。情報端末も使はないし、子供同士で協働して見つけ出した訳でもない。学級担任が心をこめて語る偉人の姿に、子供たちは惹かれていつたのである。そして、自分もさうありたいと思ふようになり、荒れた学級だつたのが授業や学級生活に自主的に取り組むやうになり、学級全体が思ひやりのある望ましい集団になつていつたのである。その教師は、学びには「本学」と「末学」があり、生き方を学ぶ「本学」こそ指導すべきだと主張されてゐたが、これまでの学校教育へ根本から反省を迫るものであつた。
現在、学習指導要領や中教審の答申によつて「主体的・対話的な深い学び」や「個別最適な学び」「協働的な学び」が最先端の課題として全国で取り組まれてゐるが、先の深刻な問題の解決には結びつかないと思はれる。培ふべき子供の心の根つこを育てやうとしてゐないからである。
今日のやうな自国や祖先を否定的に扱ふ社会からは、健全な子供は育たない。誇りと自信をもつて生きる意欲と力を育てる真正な「日本型学校教育」の構築を当局に求めたい。