9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和5年10月号

  先師平泉澄先生に導かれて

 濵田総一郎 /㈱良知経営 代表取締役社長


  濵田家と平泉先生

本日の寒林祭に際して「先師の思い出」というテーマで話をせよとのご要請をいただきました。私は学問上のことを話す任にはありませんので、平泉先生との出逢いによって自分の人生が導かれてきたことを、先師への感謝を捧げつつお伝えできればと思います。

私が平泉先生と最初にお会いしたのは市来(いちき)中学三年生になったばかりの時だと思います。『寒林年譜』を見ますと、平泉先生が昭和四十四年四月八日から九日にかけて鹿児島へ講演に来ておられるからです。当時七十五歳の先生が鹿児島市に到着されて、市内のホテルへ父・光彦が先生を案内して、会場のエレベーターの前で母と子供六人でお出迎えした時でありました。父が母と子供たちを紹介すると、先生が母に対して「よくぞ六人ものお子さんを立派に育ててくださいました」と感涙の面持ちで言葉をかけてくださったのです。薩摩男児の典型的な気性を持つ父が尊敬してやまない平泉先生から、思いもよらぬ真心こもるお言葉で褒められて、感激した母はそのとき以来、生涯にわたって先生の絶大な信奉者となりました。学問的なことで厳しい指導を受けたことが無かった浅学な私は、初対面のこのような印象が強いためか、先生のお人柄には厳粛さのなかにも情愛こもる感激があり、先生の本質は温かい情の人であり、それゆえに縁ある人々を魅了されて止まなかったのだと思っています。

その後、私が高校二年生になったばかりの四月に、父が家業の焼酎事業の経営をしながら、県議会議員選挙に立候補したことがありました。激戦区での初出馬ということもあり、当選するには極めて厳しい状況だったのですが、いよいよ選挙戦が始まろうとした、まさにそのときでした。出陣式に際して、平泉先生から励ましの檄文と、日の丸に必勝の文字が墨痕鮮やかに書かれたハチマキと、金一封が届いたのです。感激家の父はそれを見るや俄かに奮い立ち、出陣式の壇上で獅子吼(ししく)して選挙戦をスタートしました。魂のみなぎった父の熱誠あふれる第一声を聞いた年配の社員や聴衆が、感激のあまり涙を手でぬぐいながら嗚咽(おえつ)していた姿が、今でも鮮明に瞼に浮かんでまいります。結果として、父は鹿児島県の県議会議員選挙史上、最小の得票差となるわずか四票差で当選したのでした。平泉先生からの激励があのタイミングで届き、それに父が感奮興起したからこそ勝ち得た薄氷の当選でありました。


青々塾生時代
①入塾の頃

私は高校までは勉強をしたことがなく、気の向くまま自由奔放に遊び暮らしていました。大学進学が近づいた私は受かりそうな地方の国立大学に行こうと思い、父に伝えたところ、「大学はどこでも良いから、東京に行って平泉先生の青々塾に入れ」と言われました。私はそれに従い、旧制私立高校が前身の四大学の一つであった武蔵大学に入学すると同時に、東京青々塾に入塾したのでした。この選択が私の人生を一変するものとなったのでした。

上京すると平泉先生は品川にお住まいで、入塾のご挨拶に伺うと孫に接するかのように優しく応対して下さり、入塾を承諾してくださいました。

私が入塾した頃は、平泉先生のご長男の洸先生が塾頭で、近藤啓吾、井星英、井内慶次郎、川野克哉、山口康助という各界でご活躍されている、錚々(そうそう)たる先生方が塾頭代を担っておられました。当時の塾生担当を引き受けて下さった井星先生には、『靖献遺言』や『講孟劄記』などを教本に、毎回実に熱のこもった講義をしていただき、その問答は時に命懸けの真剣さがありました。また、折に触れて近藤先生がご自宅で崎門学の講義、さらに越前の朝倉史跡の視察など泊りがけの合宿で懇(ねんご)ろに教えてくださり、その博覧強記の学識の深さと、学問で練り上げられた荘厳な人格を景仰しつつ、充実の学生時代を過ごすことができました。

その他に講義以外でも、父の親友でもあり郷里鹿児島の先輩であった川野先生には、東京での親代わりとなっていただき、その悠揚迫らざる大人(たいじん)の風格と憂国の気骨に感化されると同時に、父子ともに細やかな気遣いをいただき、言葉に尽くせぬ勝縁をいただきました。村尾次郎先生は、日本人の伝統美学を体から醸し出しておられ、日本学の体現者としての人格にあこがれ、特に酒席においてはその洒脱で愉快なお話と、見識高い論評や含蓄深い人物月旦(げったん)に惚れ惚れしたものでした。

さらに小村和年先輩が運輸省勤務の多忙の中を、よく顔を出してご指導くださり、その人並はずれた真剣な生きざまと憂国の誠に触れて、「志に生きるとはこういうことか」と心から感銘を受け、自分が内面から変わりだし、内なる霊性が開かれていく手応えを覚えたものでした。『正法眼蔵随聞記』に道元禅師が「如来の開示にしたがいて得道するもの多けれども、また阿難によりて悟道する人もありき」と説かれる場面があります。すなわち「師である釈尊の教えによって道を得たものは当然多かったのだが、また弟子の阿難によって悟りを開いたものもたくさんいたのだ」と弟子の懐奘(えじょう)を励まして、自分に変わって説法をさせ、後輩育成のリーダーに任命したのです。小村先輩は私にとっての阿難でありました。

「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。よき人に近づけば覚えざるによき人になるなり」という道元禅師の名言があります。青々塾に入っていなかったら出逢えなかった一流の人たちと、もっとも多感な青年時代に、同じ時間や空間を共有して、多大な薫陶を受け、知らず知らずのうちに道に親しんでいったのです。環境が人をつくると言いますが、若い時にこのような恵まれた環境に身を置けたことは誠に幸運でした。

平泉先生のご講義は別格に格調高いものでした。心のひだにまで染み入ってくるお声を拝聴し、その一挙一動の気品あふれるお姿に接して、日本民族の最高の知性が眼前におわしますと感激し、喜びに震えたものでした。先生のご講義をテープに録音して打聞を作成するのですが、お話された通りに筆記すると、そのままで名文章になるのには驚嘆したものでした。先生のお話が胸を打ち、未だに長く心に残って消えないのは、祖国の歴史に対する深い祈りの如きものがお言葉の背景にあり、それが波動となって伝わるからだと思います。それ故に、聞く者の魂に火をつけ、その精神を生き生きと蘇生させ、感奮興起してやまない活力を与えたのだと思います。


②先生の平泉寺帰山

私が大学二年の昭和四十九年春に、八十歳になられた平泉先生が品川のお宅から引っ越され、ご実家である平泉寺白山へ帰山されることになりました。

お山への移動は五月九日のことでしたが、塾生であったS塾長、A先輩、H氏、私の四人が随行し、東京駅から米原経由で福井に入りました。当日はあいにくの雨のなか地震が起こったため、新幹線が止まる事態となり、出発の予定が立たないまま東京駅まで行きました。東京駅構内は大混雑しており、ホームに入れないようにロープが張ってありました。しばらくすると列車が動く気配がでてきたことを察知した同学の中原好男さんが、駅員に「大切な先生だから」と有無を言わさぬ真剣な態度で訴え、とっさにロープを引き上げて、「先生こちらへ」と新幹線に我々を誘導してくださったのです。おかげで大混乱のなかをスムーズに列車に乗ることが出来て、午前十一時に発車した新幹線を米原で乗り換えて、無事に夕方七時に勝山へ到着することが出来たのでした。先生は新幹線の車中で中原さんの行動を激賞されて、「男児が一旦予定を立てたからには、多少の予期せぬ障害が起ころうと、初志を貫徹する姿勢が大事です。非常のときにあのような大胆で勇気ある行動は見習うべきです。英雄とは常人が不可能と思うことを可能ならしめる人物です」とおっしゃいました。いま眼前で起きた出来事を、生きた教訓として私たちの心に刻んでくださったのです。

その後、平泉先生から塾生あてのお手紙を頂きました。


「拝啓 さはやかな五月晴れ 毎日つづいて風も芳しく楽しいことであります。諸兄いよいよ御元気にて御勉学の段うれしく存じます。さても此度、品川引揚げに当たりましては、書物包装、毎々御手伝ひ下され、殊に九日帰山の日には四名御そろひにて同行協力下され御かげを以て無事山へ帰る事が出来ました。折から思ひもよらぬ地震にて列車も動かず大混乱に陥り、あだかも満洲引揚の如き困難に遭遇しましたが、その際、断然予定を貫き得ましたのは、一つは中原氏の奇略によると共に(あのやうな奇略と大胆は見習ふべきであります)、一方諸兄の協力があつたからで衷心感謝いたします。折角、白山へ御いでになりましたのに、手伝ひばかりで何の御もてなしも出来ず残念でした。また機会がありましたら御いで下さい。小生は荷物の整理で毎日忙しくしてゐますが、山中清澄の気に蘇生した感じで元気です。更に奮つて報国の志を全うしたいと思つてゐます。
 昭和四十九年五月二十日 平泉 澄 (花押)」


当時の平泉先生と塾生の心通い合う、ほのぼのと心温まる師弟交流が思い出されます。平泉先生のお話やそのお人柄には、いつも純粋な感動があり、同じ空間にいるだけで心が高揚し、魂が高められたものでした。


 ③就職のご報告

それから二年ほど経って大学四年の時に、東武鉄道に入社することが内定した私は、同じく就職が決まったH氏と共に、就職のご報告で再び平泉寺を訪れました。先生は二人を歓待してくださり、参道や境内を自ら案内くださいました。その際に春の突風で倒れてしまった杉の大木が横たわっており、神木が倒れてしまったことに対する沈痛な面持ちをされると同時に、私たちに質問されました。「先の嵐で倒れてしまいました。なぜ倒れたか分かりますか」と問われ、私とH氏が無言でいると、「中身が腐っているからです。何もない平時には他の木と同じように立っていても、いざ嵐に遭遇するとこのざまです。非常のときに通用しない。人間も一緒です」と峻厳たるお声で諭されました。私は自分のことを言われているように胸に突き刺さり、大いなる教訓として未だに忘れることが出来ないのです。「中身が腐った人間になってはいけない」というこの時の教えは、未熟だった私にとって、言わば禅の公案のごときもので、生涯のテーマとなったのでした。


帰鹿して家業に従事

私は大学卒業と同時に青々塾を出て東武鉄道に入社したのですが、三年半ほどして父から「家業の濵田酒造の経営が苦境に陥ったので鹿児島へ帰って手伝え」という要請を受けました。

私は東京の住まいを引き上げて郷里に帰る際に「自分の人生は立って半畳、寝て一畳の勝負だ。これからは自分の身体一つ志一つで生きていこう」と決意し、大切にしていた写真や書籍なども大半を捨てて帰省しました。それ以来、『桃李』創刊号等における巻頭言の詩の一節が私の人生の岐路となる幾度もの節目で私を励まし、志を奮い立たせてくれるものとなりました。


「 こまぬきて 傍観するは
すべて是れ 猿に劣らむ」

「 苦難はた 何かあるべき
尊ぶは その志」

「 名にし負う杉 名を裏切りて
曲がりくねらば 誰か柱とせむ
心に操持無く 浮草のただよはば
人間畢竟 何するものぞ」

鹿児島に帰ってからの私は、父の紹介で西郷南洲顕彰館の児玉正志館長を訪ねるようになりました。児玉館長は大川周明博士の弟子であり、東亜経済調査局研究所時代には大川博士の秘書や寮長もされていた経歴の方でありました。師の大川博士が年下である平泉先生をこよなく尊敬されていたので、平泉先生の絶筆となる『首丘の人 大西郷』が出版されたときは大層喜んでくださいました。そのようなご縁もあり、私の結婚式では児玉館長に仲人をお願いした次第でした。

大西郷を書いた本は、日本で最も多いと言われる中で、我が平泉先生の西郷論は流石に、今まで誰も書き得なかった南洲翁の真面目を躍如として伝え、他の作家の洞察と比べて、一味も二味もレベルが違うものであり、私は心打ち震える思いで拝読し、魂を鼓舞されました。なかでも「獄中感有」の詩に触れられた次の解説には心が救われたものでした。

「“たとへ光をめぐらさざるも葵は日に向ひ、若し運を開くなくとも意は誠を推す” 私は此の詩を誦して、此の句に及ぶ毎(ごと)に、おのづから心身の引きしまるを覚える。いはんや末句、“願はくは魂魄を留めて皇城を護らん”といふに至つては、皇国の道義、発揮せられて余蘊(ようん)なく、日本男児の真面目、描出(びょうしゅつ)して明々白々なるを見る。私が敗残の老躯、病中の疲弊(ひへい)をかへりみず、西郷の為に一文を捧げ、その忠魂を慰めむと欲するは、実に此の詩、此の句の感動の忘れむとして忘るる能はざるに依る」

田舎に帰っていくら頑張れど実らず、借金過多の悲哀を感じていた私は、平泉先生の魂に染み入ってくる渾身の名文に触れて、「道に立ち、誓願のみに生きる」ことの大切さに気付いたのでした。「丈夫眼中生死無し、ただ道あるのみ」というごとく、生死一如として道に生きる南洲翁の純忠不動の心を知り、感涙すると共に「何も迷うことはない、道のみに生きればよい」と得心し、心の霧が晴れていったのでした。


起業独立して

濵田酒造の焼酎販路を全国区で築き上げ経営が軌道に乗ったので、私は三十六歳の時に独立して川崎市で起業することにしました。ゼロからの立ち上げでしたが、「人生の本舞台は常に未来にあり」と希望にあふれていました。

私は平泉門下生として恥ずることがないよう、国益に資する事業に育てるという願いを抱いて経営に向き合ってきました。わが社は国民の生活にもっとも密接な「食とエネルギーの課題を解決する事業」を通じて国に貢献したいと願っています。島国である日本は国家安全保障という観点からも、独立国とはいえないほど低すぎる食料とエネルギーの自給率を上げることが急務であり、ウクライナ戦争や米中対立で地政学的リスクの高まった昨今では、わが社の社会的使命は益々重大となってきました。日本の食料自給率はわずか三七%、エネルギー自給率に至っては一二%しかなく、大半を外国から輸入し、多くのお金を国外へ流出し続けているのです。この食料とエネルギーの自給率をアップさせることはわが社の大義であります。その食料と自然エネルギーの成長ポテンシャルは地方にあるのです。地方が元気にならないと、日本の良き伝統文化が廃れてしまい、国家としての健全性や活力を失ってしまいます。衰退しつつある日本の農業など一次産業の振興を図ると共に、無限の地域資源である再生可能エネルギーの普及拡大に力を入れて、地方を元気にしないと日本の未来はありません。私は主力の食品事業に加えて、二〇一〇年にはエネルギー事業へ参入しました。今では太陽光発電、バイオマス発電、バイオガス発電、風力発電、地熱発電など、有望なビッグプロジェクトが全国各地で進んでいます。

三十一年前に創業した㈱良知経営ですが、紆余曲折がありながらも道を求める姿勢を失うことなく、今日まで来れたのは、先師・平泉先生との出逢いに導かれ、その高弟道友のご懇情に勇気づけられ、志の命ずるところに生きてきたからだと感謝するのみです。


先師との道縁に無限の感謝

私も早や今年の一月五日に満六十八歳となり、朱熹の偶成にある「未だ覚めず 池塘(ちとう)春草の夢 階前の梧葉 已(すで)に秋声」という思いを抱く年齢になりました。

改めて自分の半生を振り返ると、何も考えることなく漫然と生きてきた私が、十八歳の時に東京青々塾に入り、平泉先生と出逢ったことから人生が変わり、以来、今日に至るまで愚鈍で遅々としながらも志を高め続けることができたように思います。私は一貫して実業の世界を歩いて来たので、学問を深く講究するということはできませんでしたが、平泉門下生の末席に連なる者として、事業を通じて国家に貢献するという志だけは貫いてきたように思います。

人生とは鉄道の線路のようなもので、節々のポイント(転轍機)で生き方の方向が切り替わっていくのだと思います。その人生の転機となるポイントこそが、運命的な人との出逢いであります。私にとって、その最初のポイントが先師・平泉先生との出逢いであり、その同志先輩たちとの邂逅でありました。その奇跡的なめぐり逢いによって、人生が実り豊かなものに一変したという道縁に、無限の感謝を捧げ、その報恩と次世代への恩送りのために、微力なりとも尽力させていただくことをお誓い申し上げまして、私の拙い話を終わります。