『日本』令和5年11月号
蒲生君平研究の使命感 ― 荒川久壽男先生の御示唆 ―
阿部邦男 /蒲生君平研究家・博士(文学)
はじめに
筆者は、三重県伊勢市に所在する皇學館大学の卒業です。大学では、多くの先生方の御指導を受けながら、研究の深化を目指しました。特に、大学二年の時の専門講座「日本思想史演習」で荒川久壽男(くすお)先生御担当の講座を選択し、そのまま卒業論文の指導教員にもなって頂き、懇切丁寧なる指導を受ける事ができました。
荒川先生の御示唆で、卒業論文の方向性を明確にし、また先生の御紹介で、地元宇都宮の雨宮義人(あめみやよしと)先生、香川県坂出市の河阿準三(あがじゅんぞう)先生、水戸の名越時正(なごやときまさ)先生の献身的な御後援を受ける事ができ、蒲生君平(がもうくんぺい)研究の使命感を明確に自覚する事ができたといえます。
そこで、本稿では、特に荒川先生の御指導の実際を紹介させて頂きます。
荒川先生との出会い
前述した通り、筆者と荒川先生との出会いは、大学二年の時の「日本思想史演習」で荒川先生御担当の講座を選択した時でした。その講座の第一講時に、受講学生の自己紹介で、
栃木県宇都宮出身の阿部邦男です。宜しくお願いします。
と申しますと、荒川先生から思いがけなくも、阿部君は宇都宮の出身か、卒論のテーマは蒲生君平だね。
と言われました。筆者はすかさず次のように答えました。そのつもりです。『山陵志』の研究をしたいと考えています。宜しくお願いします。
そのようなやり取りがありました。後で知った事ですが、荒川先生の大学の卒論のテーマが、君平との影響関係にあった会沢正志斎の『新論』の研究であり、しかも先生の出身地が茨城県という事で、不思議な御縁を強く感じた次第です。
卒業論文における御指導
荒川先生の御指導を語る上で何といっても忘れてならないことは、卒業論文の作成を控えた昭和五十四年(一九七九)十月。卒論指導学生が、先生が部長を勤められていた出版部の一室に集められ、先生から、
十一月中に卒論の下書きを提出するならば、閲読の上、不足な箇所を指摘させてもらう。
との有り難いお話しがあったことです。そのお話しを承けて、筆者は、論題「蒲生君平の研究 ― 山陵志を中心として ―」のもと、論文構成としての「目次」を設定し、その目次に沿って必死になって下書きの作成に努め、無事十一月中の提出を果たす事ができました。
当時、荒川先生は、名古屋市の丸茂住宅から大学に通われており、提出した筆者の卒論下書きを近鉄の車内で閲読されたようで、提出した日の夜、伊勢青々塾に次のような電話がありました。
その連絡を受け、先生の許を訪れ、返却された卒論下書きの原稿をみて吃驚(びっくり)しました。分析の甘い所にはチェックが朱書きでその旨が指摘され、分析が的確な箇所には「この分析良し」の表示がなされていました。
そして、原稿最後の原稿用紙の裏面に次の文章が認められていたのです。
木章斎主人(または槃得童子(ばんとくどうじ))
冬日兀座(こつざ)して阿部氏の論稿を読む。乃(すなは)ち謂(おも)へらく、凡百(ぼんひゃく)の論を獲(え)るもなほこの一篇を獲るに如かずと。阿部氏や下野(しもつけ)宇都宮の産、夙(つと)にに郷土の先賢蒲生君平大人(うし)を慕ふ事年あり、押て大人の事績は嘗(かつ)て三島吉太郎(きちたろう)氏の苦心にかかる君平全集ありといへどもなほ未だ其の全貌(ぜんぼう)を網羅せるものに非ず。湮晦(いんかい)明らかならざるもの夥(おびただ)し。その後雨宮義人・寺田剛(ごう)の両学士一意専心、大人の事績の顕彰に力(つと)め、『山陵の復古と蒲生秀実』を共編し、以て君平研究の指南たり。更に故高浜二郎翁、大人の高風を仰ぎ、彫心(ちょうしん)縷骨(るこつ)、千辛万苦(ばんく)、史料の隠れたるを求め、断簡の埋もれたるを探り鬱然(うつぜん)として大著をなせしも、恨むらくは公刊の材を得ず、溘焉(こうえん)として世を辞しぬ。今(いま)年少阿部氏慨然(がいぜん)としてその後を継承するの志を立て、寺田・雨宮両学士の高著を指南とし、高浜翁の遺稿を北斗と仰ぎ、東奔西走、更に史料を探り、拮据黽勉(きっきょびんべん)、以て此の稿を草せり。思ふに此の稿や僅かに山陵志の成立を繞(めぐ)る経緯の一端を探るに止まり、未だ山陵志の内容の深きに至らずと雖も、而も先人への切なる畏敬(いけい)深き慕仰(ぼぎょう)を基調として、史料の検討、論証の着実、新見(しんけん)の開拓、将来の大成(たいせい)を思はしむるものあり。固(もと)より年少の論稿、考証の精確(せいかく)を欠くものなほ多しと雖(いえど)も、これ蓋(けだ)し後日(ごじつ)大成の余地を残せしものか。抑々阿部氏の志たる、ひとり山陵志の研究に止まらず、蒲生大人の人と学との全貌を明らかにするにあらん。嘗(かつ)て左丘明(さきゅうめい)、孔子の春秋(しゅんじゅう)を評して成公(せいこう)十三年の条に曰く「国の大事(だいじ)は祀(し)と戎(じゅう)とにあり」と。君平先生の遺志亦(また)此(ここ)に存す。祀は以て山陵志となり、戎は以て不恤緯(ふじゅつい)となる。宜(むべ)なるかな先生「呈萩原中書書(はぎわらちゅうしょにていするしょ)」において「敢致(あえて) 二山陵志十部并不恤緯一以呈二賢徳者一也(さんりょうしじゅうぶならびにふじゅついをいたしもってけんとくなるものにていするなり)」と書(しょ)せしことや。蓋(けだ)し阿部氏の研究も他日不恤緯、今書(きんしょ)に及び以て先生の祀と戎との学を明らかにするや必(ひっ)せり。今、氏の論稿をよむに故高浜翁の学恩に依ること極めて大なるを知る。氏の天性謙虚、道を尊び道を重んずる人なること我之を熟知す。思ふに論稿成るの日、氏や必ず翁の霊に之を捧(ささ)げ、併(あわ)せて雨宮学士の学恩を謝せんこと期して待つべきなり。敢へて所感の一端を記すと爾(しか)云(い)ふ。
花かつみ蒲のかがやき今の世に現はさんとてつとめはげみし
よみ進み、われ涙しぬ。かくまでに蒲の穂わたを拾ひあつめし
蒲大人(がまのうし)の辛苦のあとを追ひゆきて辛苦(くるし)みてゆけ文(ふみ)の此の満ち
高浜の翁(おきな)のみたまに奉れ学びのめぐみうけしこのふみ
かくまでにはげみしこの子いよいよにきびしくきたへゆくべしと思ふ
このように書かれていました。それは、筆者に研究の使命感を強く喚起させるものでした。
修士論文に対する御指導
その使命感を力に、先生から指摘のあった箇所の修正をしながらの清書と、入手した史料の筆記とを並行して進め、期限に卒論を提出する事ができました。
卒論の評価を得て、皇學館大学大学院博士前期課程に入学し、蒲生君平を中心とする更なる歴史研究の深化を目指しました。その一環として、大学院一年時の指定講座「国史学特殊講義Ⅴ」で課されたレポートを提出しますと、問題箇所の指摘に加え、今度も又、最後の原稿用紙の裏に、非常に厳しくも温かい批評が書かれていました。その全文も、掲げさせて頂きます。
考証例によって細密なるをよろこぶも惜しむらくは往々推論に推論を重ね、仮説に架するに仮説を重ねるの感あり。この点反省を要す。これ第一点。次に、考証は単なる考証に終らず、考証を基礎として古人先哲の精神に迫まり、それを顕彰するに在り。この点、本レポートは考証にのみ追はれて、蒲生秀実先生の精神に迫まるに未だ十分ならず。蒲生先生の白石批判、春秋の道に照らし、日本の道義に照らしての批判を、その内容に迫まつて明らかにするに未だ遠し。これ第二点。
考証、実証は史学の一手段なり一方法なり、考証即(そく)史学ではない。考証史学などといふ言葉はないと平泉先生が言はれたことを味はつて下さい。 ともすれば考証のための考証に堕する弊風、今の史学界になしとせず、考証のための考証では結局知的遊戯にすぎず。学問は遊戯ではありませんぞ。われらの志向する歴史学は、たとへ綿密、細密なる考証を行ふといへども、どこかでそれが国家死活の運命にかかはつて来なければならないはずです。ちなみに云ふ、わたしが白石を追究してゐる のは、決して白石を尊敬し仰ぐべき先哲とは考へません。ただとつくんでねぢ伏せたいから追求してゐるのです。
今改めてこの御指導を振り返りますと、歴史研究の要点が示されているといえましょう。荒川先生からのこの御示唆も胸に、大学院二年となり、卒論の内容を更に掘り下げる意味から、修士論文のテーマを「山陵志の研究」と設定し、蒲生君平が『山陵志』で示そうとした核心の追究に取り組みました。
終わりに特に修士論文の作成は、本文の下書きを一日約四十枚ずつ一カ月間続けなければならず苦しいもので、その苦しみに耐え納得のいく修士論文として完成出来たのは、前引の使命感を喚起させる荒川先生からの御示唆が、原動力を与えてくれたからだと思います。
その修士論文は、その後の筆者の「蒲生君平研究」の下地となり、筆者の掛替えのない宝物となりました。