9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和5年12月号

回天忠士・豊住和壽少佐をお慕いして

 久保慶子  /回天研究家


この度、回天特別攻撃隊「金剛隊」豊住和壽(とよずみかずとし)少佐の御遺品を、日本学協会専任研究員の古村博文氏が、御遺族宅、靖國神社遊就館・同偕行文庫、熊本県護國神社を歴訪して纏(まと)めた遺文集を拝見しまして、豊住少佐の純忠至誠の精神を仰ぐことができました。生誕百年を迎えるにあたり、その精神を仰ぎたく、御紹介します。


回天作戦の初陣に加わる

大東亜戦争の経過が悪化の一途を辿(たど)っていた昭和十九年十一月八日、回天特別攻撃隊「菊水隊」を乗せた伊号第四十七潜水艦、伊号第三十六潜水艦、伊号第三十七潜水艦は、菊水の旗印「非理法権天」の幟(のぼり)を高らかに掲げ、第六艦隊司令長官以下の関係者多数の歓呼に見送られて出撃した。

回天とは、海軍青年士官であった黒木博司少佐、仁科関夫少佐により救国の信念から生み出された兵器だ。機関部は九三式酸素魚雷のものを使用し、頭部に一・五五トンの炸薬(さくやく)をもち、一基で如何なる艦船も撃沈できる能力を有した。搭乗員が一人乗り込み、兵器もろとも敵艦に体当たりを敢行する究極の兵器である。

回天特別攻撃隊「菊水隊」は、回天作戦の初陣であった。これは昭和十九年十一月二十日を期してウルシー泊地と、パラオのコッソル水道へ奇襲攻撃を行う作戦で、伊三十六、伊四十七はウルシー泊地、伊三十七はコッソル水道へそれぞれ一路向かった。この時、伊三十六に乗艦し「菊水隊」として勇躍出撃した一人が豊住和壽少佐である。


熊本での少年時代

少佐の故郷は西に金峰山、東に阿蘇山を望むことができ、古くから「森の都」、「水の都」といわれる熊本県熊本市。北には西南戦争で籠城戦の舞台となった熊本城を仰ぎ、熊本鎮台の流れを汲む帝国陸軍第六師団が駐屯した「尚武の都」でもある。軍人気質の土地柄からか、少佐が小学校高学年になった頃には「帝国軍人として国に奉公する」という強い意志が育まれていた。

少佐の御遺品は、熊本市五福幼稚園の保育証書、同五福尋常小学校の成績表から、少佐が筆まめに寄せた便り、特攻出撃前の遺墨や戦死を知らせる電報まで、御遺族により大切に保管され、このうち何点かは靖國神社遊就館・同偕行文庫、熊本県護國神社、海上自衛 隊第一術科学校、回天記念館等に寄贈されている。

五福尋常小学校の成績表は軒並み最優秀の「甲」が並び、昭和十一年に卒業するまで無欠席で通した。学習姿勢も良く度々褒状を授り、書道でも幾度となく表彰されている。「立派な軍人になる」と希望を抱きつつ勉学に励み、陸軍士官学校や海軍兵学校への進学率の高い名門・熊本県立中学校済々黌(せいせいこう)に入学した。

明治十五年に創立された済々黌は、熊本県随一の伝統校だ。建学の精神は、三綱領「正倫理明大義(倫理を正しうし大義を明かにす)、重廉恥振元気(廉恥を重んじ元気を振るう)、磨知識進文明(知識を磨き文明を進む)」によって綿々と受け継がれている。

この気質は自ずから、国難に敢然と立ち向かう気風を醸成し、大東亜戦争に至るまで数多くの軍人を輩出した。校内に鎮座する「第二次世界大戦済々黌英霊鎮魂碑」に祀られている英霊は四百七柱にのぼり、少佐もその一人である。

済々黌進学後も、少佐の帝国軍人として国に尽くしたいという思いは強く、実家で営む魚屋の集金や配達を手伝いながら、さらなる猛勉強に打ち込んだ。海軍兵学校は「目が悪い」という理由で合格に届かなかったが、海軍機関学校を勧められ受験し、昭和十五年十一月、見事合格。

入校前、御母堂の取り計らいにより自宅で送別会が催され、陸軍士官学校や海軍兵学校に進む友人らと元気潑剌、楽しく賑やかに一夜を過ごした。一年後には対英米戦(大東亜戦争)に突入することを思えば、これが皆と心置きなく過ごした最後の宴であった。


海軍機関学校時代

昭和十五年十二月一日、晴れて海軍機関学校(機校)に入校した少佐は、同校が所在する京都府舞鶴市で入校式を迎えた。その時の心情は父宛書簡(昭和十五年十二月頃)にみえる。

(前略)顧みれば、大正十二年生れてより昭和十五年十一月まで十八年間の家庭生活といふものは、実に幸福な生活でした。今思へば何も言へません。唯涙が出るばかりです。幼児時代、小学校時代、中学校時代思ひ出せば感慨無量です。あの晴れの入校式の時の感激は一日たりとも忘れません。それから、大講堂に入る時も父の居る方ばかり見てゐました。その後、ああ、もう帰へられたかと思ふと涙が出ました。校門前を汽車が通る度に父は今どのあたりを帰つて居られるかと思ひ、故郷の山河、古大工町の楽しい家庭が懐かしくなつて来ました。もう一年でもいいから、熊本で暮したいと思ひ、なんとなく元気がなくなるやうな気がしました。しかし、これ位でめそめそしては親に対して、否、陛下に対して、帝国海軍軍人として申し訳がないやうな気がします。(後略)

自然豊かな町で深き愛情を受けながら育った少佐が、初めて家を出た思いの丈が綴られ、家族と故郷をこよなく愛する純真な気持ちが伝わってくる。

一方、入校から三週間後の「特別教育終了ニ際シ所感ヲ述ブ」では、

当時予ハ常ニ故郷ノ事ガ頭ヨリ離ルルコトナカリキ。然ルニ特別教育中、心身共ニ鍛錬シユク中ニ、次第ニ予ハ、帝国海軍ノ一員タルノ自覚ヲ覚ヘ、全ク予ノ精神ハ忠節ノ中ニ解ケ込ミニケリ。
とあり、軍人としての自覚が芽生えていく。

機校の生徒生活は忙しくも充実していた。昭和十六年十月四日付の父宛書簡からは、

来る十月十一日より三日間、秋季陸戦演習、又十七日には十哩マイル「マラソン」が行はれ、毎日駈足(かけあし)の猛訓練です。又学課の方も仲々忙がしく又難しくなり、試験もそろそろ始まり出し、少しの暇もありません(中略)とにかく機関学校の訓練は辛いです。しかし、又其処に光が輝いてゐます。
と、勉学や訓練に奮闘している姿が浮かぶ。

また日誌には、日々の学課に努めたことは勿論、由良神崎海岸で、難関である二千米競泳を元気いっぱいに突破し「甚ダ愉快」であったこと、十哩マラソンで苦戦したこと、短艇競技でクルー全員元気旺盛に励み勇壮な気持ちとなったこと、蹴球競技に精を出したこ と等、充実した生活ぶりが躍動感溢れて記録されている。

昭和十六年十二月八日、日本海軍機動部隊による真珠湾攻撃直後の同月十三日付父宛書簡には

去る十二月八日、遂に英米に対し宣戦が布告され、太平洋戦の火蓋は切られました。帝国海軍の実力を見て居て下さい。此の機会に、我々も帝国海軍の一員として、立派なる海軍機関科将校となるべく、奮闘努力する覚悟であります。
と、軍人らしい文面をしたためた。着実に帝国軍人としての素養を身につけ、帰省の折はきびきびした軍人口調で学校生活を語り御母堂を喜ばせた。

一方、少佐は多くを語らぬ性格であった。御母堂も「元来、無口な方でしたけれど、案外、友だち付き合いはよいらしく、何かといえば、よく友だちが訪ねてくれて、二階で話したり、一緒に勉強したりしておりました」と戦後に回想しており、寡黙でありながら友人に慕われていたようだ。

また、少佐の人となりについて、機校の同期生達が『海ゆかば・海軍機関学校第五十三期入校五十周年記念誌』(平成三年)に回想を寄せている。

橋元一郎氏は三号生徒で同分隊(四分隊)になった時の事を「彼は無口ではあるが気性は強く頑張りやで体育訓練などにも十分にそれを発揮していた。そして親密度は深まり談らなくても分かり合えるような、一所に居るだけで心が安まるような男であった」とし、安藤満氏は同氏の叔父の家で一緒に休息した時のことを「まだ幼かった従妹や従弟が豊住とすぐ仲良しになり、いろいろな話をしている中で、豊住が『私の熊本の家は魚屋なんです』と、小生も当時知らなかったことを口にして、打ち解けているのだった。こんな童顔の笑顔をみせた豊住を見たのははじめてであった」と回想している。

また齊田元春氏は「万事にすばしっこくて張り切りボーイの豊住和壽君、仲々居眠り上手で姿勢のよいこと、剣道やラグビーで見せた元気よさは真に見事であった」と当時を偲んだ。一見口数は少なく物静かだが、典型的な九州男子、肥後男子であり、心に熱き信念を燃えたぎらせつつ、決して真面目一辺倒ではなく、時に大胆で時に親しみやすい一面があったことが、少佐のかけがえのない魅力であり、多くの友人が少佐を慕っていた所以であろう。

昭和十七年末、少佐は機校で最上級生となった。

私も十二月一日附を以て、第三学年に進級致し、愈最上級生として最後の一年間の修練に励むことになりました。
と始まる十二月五日付父宛書簡では、少佐にとって弟の誕生という何より嬉しい報せに触れている。

(前略)さて、この度弟生まれたるとの由、誠に御目出度う存じます。今迄弟と一言も言ふことの出来なかつた私に、弟と呼び得ることになつた嬉しさ、実に何とも言へません。どうか弟の教育は賴みます。私も安心して、今後の生徒生活に邁進します。父上の御喜びを察しまするに、唯涙が出るばかりであります。妹達は元気でせうね。どうか、可愛いい弟を可愛がつて下さい。壽子も和子も博子も賢枝も元氣に仲よくやつてくれることを希望して已みません。祖母もさぞかし喜んで下さる事でせう。又面倒をかけますね。だが一つ賴みます。元気に楽しく送つて下さい。(後略)

弟が生まれたことへの大きな期待に溢れ、少佐がどれほど喜んでいたかが伝わってくる内容だ。

新たな家族を迎えての冬期休暇は少佐にとって特別なものとなった。休暇中の所感等を記録した「作業録」ノートには、

余ハ海軍ニ入リテヨリ三度家庭生活ヲ送リタルモ、今回程楽シキ生活ヲ送リタルハナシ。何トナレバ、昨年十一月唯一人ノ弟生レ、始メテ弟ト呼ビ得ル嬉シサハ他ノ如何ナルモノニモ勝ルモノニシテ、父母ノ喜ビヲ察スルニ唯涙ノ湧キ出ズルノミナリ。感慨無量ニシテ、言語ニ尽クス能ハズ(昭和十八年一月七日)
と、感極まる思いを綴った。

また、十八年の夏期休暇で帰省した折の「修業日誌」には、

冬休暇ノ時、赤子ナリシ弟モ今ハ相当大キクナリ、ニコニコ笑フ顔ヲ見ルハ帰着第一番ノ最モ嬉シキコトナリ。(七月二十八日)
と、弟の健やかな成長を嬉しく思う気持ちで溢れている。

この夏期休暇は卒業前、つまり出征前の帰省でもあり「修業日記」の随所で少佐の覚悟がうかがえる。厳父、御令妹と水前寺へ行った日の日記には、いつ見ても湧き出ている清らかな水、築山の景色を「之モ亦最後ノ見納メナラン」(八月三日)と綴り、同窓会に出席し古き友と語らい、少年の気分に戻り一夜を楽しく過ごした日には「之亦最後ナラン」(八月五日)と記し、最後の一夜を過ごした日には「一度征キテ生還ヲ期セズ。遥カ金峰ノ山ヲ望ミ感無量ナリ」としたためた。休暇最終日には、

余ハ最後ノ否、出征前ノ休暇トシテ父母、弟、妹ノ側(かたわら)ニテ充分孝養ヲ尽クシ、心残リナク再ビ家ヲ出ル覚悟ニテ此ノ休暇ヲ送リタリ。可愛イ弟モ益(ますます)大キクナリ、アノ姿ハ何時迄モ忘ルコトヲ得ズ。弟ガ居レバコソ余モ安心シテ第一線ヘ出得ル ナリ。弟ノ健康ヲ祈リテ已(や)マズ。(八月七日)
と、第一戦に出る覚悟を確固たるものとしている。軍人として戦場で戦うからには、生きて帰る保証はない。出征の決意を固めるにあたり、弟の存在は大きな支えとなったことであろう。

少佐は舞鶴に戻る折、いつも汽車の窓から金峰山をはじめとする故郷の山々を眺めながら帰途についていた。

昭和十七年の夏期休暇では、

金峰山、三ノ岳モ我ニ別レヲ告グルガ如ク、スグ近クニ見エ、尚更惜別ノ情禁ジ難シ。(「作業録」、昭和十七年八月十三日)
と、記したが、昭和十八年、出征前の帰省となる今回は、
遠ク金峰山、花岡山。三ノ岳モ段(だんだん)小サクナリ陽モ落チ夕陽金峰ノ山ニ輝キ、我ニ別ヲ告グルガ如ク否、万才ヲ叫ブガ如ク実ニ我ノ壮途ヲ祝フガ如ク思ハル。(「修業日誌」、八月七日)
としたためた。

祖国のため戦う決意をたぎらせた少佐の目に映った故郷の景色は前年のそれと異なっていた。夏期休暇の「修業日誌」は

要スルニ我々ハ本休暇ニ於テ全テヲ成算シ、出征準備完了セリ。後残リノ生徒生活ニ身命ヲ捧ゲテ邁進セン。
と、締めくくられており、入校時のような家庭を離れる寂しさは感じられない。


潜水艦の道へ

昭和十八年九月に海軍機関学校を卒業した少佐は、その後、少尉候補生として重巡洋艦「熊野」に乗艦して、トラック、パラオ、フィリピンと実務練習を積んだ。「候補生実務練習日誌」には、初めて過ごす軍艦での生活に苦戦している様子が記されている。また少尉任官を果たした際の日記には「余ノ行為ニ青年将校タルノ面目ニ恥ズベキ行為ナキヤ。日々反省シ以テ大東亜戦下青年将校ノ本領ヲ全ウセン 昭和十九年三月三十一日 於『リンガ』海軍少尉 豊住和壽」と書され、常に自問自答し撓(たゆ)まず修養を積む、少佐らしい愚直なまでの姿勢がうかがえる。

少佐が具体的にいつから潜水艦を希望したのかは不明だが、昭和十五年の機校入校直後にあった潜水艦見学について、十二月十五日付父宛書簡で触れている。文中に「生れて初めて潜水艦に乗り、将来、我々の活躍する舞台はこれだと思ひ、益勇気が湧き出づるやうな感がしました」とあり、既に潜水艦の道に進む意志がみえる。

昭和十六年十月にしたためた父宛書簡には、「父も御承知の通り、新聞にイ六十一号潜水艦の沈没が出て居りました事を見ても、我が艦隊の訓練が如何に猛烈かうかがはれます。しかし、潜水艦は決して恐ろしいものではありません。之だけは断じて信じて下さい」とあり、翌十七年五月の父宛書簡には、潜水艦の乗艦実習について触れ「十八日、十九日は潜水艦実習で潜航もしました。深度計が五米、十米、十五米と指す時、何か嬉しい様な感もしました。潜航しても、水上にゐる時も何等変はりません。この十日間実に愉快に元気に送りました」としたためている。

いずれも潜水艦へ抱く期待、乗艦への希望が見て取れる内容だ。昭和十八年二月二十七日の日誌には「呂一〇六潜水艦ヲ見学ス。潜水艦乗ニナル余ノ希望益固メラレタリ」とその意志を明確に記した。同年三月一日の日誌「反省所感」では「潜水艦東ヘ征ク」なる文章を読んだ感想が綴られている。

(前略)実ニ真ニ迫ルモノアリ。涙ナクシテ読メザルモノアリ。余ノ希望スル潜水艦ニ乗リ、爆雷ノ音ヲ真近カニ聞ク時、或ハ自爆スルカ或ハ再ビ浮上ノ努ムルカソノ会議ニ於ケル気持。俺ガ一年後直面セントスル時、従容(しょうよう)トシテ死ニ就キ得ルカ考フル時、余ノ肚(はら)ノ底ニハ未ダソレ程大ナル魂ハ存在セザル如ク感ズ。我々ハ先ヅ実力ヲ養フ必要アリ。而シテ肚ヲ錬リ修養スル要アリ。君国ノ為ニハ、如何ナル難事ヲモ突破シ我々ノ目標ニ進マン。(後略)

少佐は常に潜水艦一筋であった。そして二年後、この時の決意を徹底し実行したのである。

昭和十九年四月十一日、少佐は呉鎮守府への転勤命令を受けた。この日の日記には「転勤電報受取る 呉鎮附、仰付(五、一、潜校普通科学生) 愈(いよいよ)やるべき時来る」とあり、すぐ転勤準備に取りかかった。翌日には重巡洋艦「熊野」を退艦し、同「最上」に便乗、シンガポール、支那、台湾を経由し五月四日、待望の地である呉に到着した。すぐ呉鎮守府に登庁し着任の挨拶を済ませ、念願の潜水学校へ向かった。翌日の入校式を終えた少佐は日記に「此の感激を以て今後の生活に邁進せん」と感慨深く書き残している。かねてより熱望していた潜水艦乗りとして大きな一歩を踏み出し、少佐の胸は奮い立つ気持ちで一杯であった。

潜水学校での具体的な生活については分からないが入校直後、昭和十九年五月二十九日付で祖母宛に葉書を送っている。「今回は私も潜水艦乗員として働く事になりました。決して御心配なく、私の奮闘を見てゐて下さい」と希望に満ち満ちた内容で、潜水学校でも機校同様、持ち前の突破力で元気潑剌、訓練に邁進したに違いない。

潜水学校在学中、回天特攻隊に志願し、昭和十九年九月初めには、同じく回天の道に進むことを選んだ同期と共に回天基地である大津島(現・山口県周南市)へ渡り、出撃に向け厳しい環境での訓練に励んだ。


回天特別攻撃隊

少佐が回天を志願した経緯は詳らかでない。しかしその遠因となり得る手がかりが「修業日記」に記されている。機校卒業直前の昭和十八年七月二十一日、岩国海軍航空隊で航空実習を受けている最中の日記にある「夕食後潜水学校ニ在学中ノ五十一期五十二期ノ方来ラレ、色々ト話ヲシタリ」という一文だ。更に約二週間後の八月四日、「修業日記」には

「将来トモ読ムベキ書一冊精読スベキト考ヘ、余ノ郷土ノ誇リトシテ、又中学時代ヨリ尊敬セル菊池氏ニ関スル平泉澄博士ノ著『菊池勤王史』ヲ購入セリ。今ニ至リ過去ニ於ケル読書ノ不足ヲ感ジ後悔シ居ル次第ナリ。(中略)良キ書物ノ精読ハ自然ノ中ニ我々ノ血トナリ肉トナリ、之ガ人間的ニ、而シテ精神的ニ大ナル人格ヲ有スル如クナルモノト信ズ。余ハ多数ノ本ノ乱読ハ望マズ。良書一冊ノ精読最モ必要ナリト信ズ」
としたためている。このことから、七月二十一日に訪れた(機校)五十一期の中には、回天創始者である黒木博司少佐もいた可能性を指摘したい。

東京帝国大学国史学科主任教授の平泉澄博士を師と仰ぐ黒木少佐は「正学」に徹し、皇国護持の道を真っ直ぐに突き進んだ。日本の歴史に於いて忠臣と呼ばれた人、義士と云われた人、真に国の為に働いた人達―「先哲」に学び、忠臣・楠木正成公や幕末の志士である吉田松陰先生をはじめとする先哲の遺文を、書物を通して心に刻み、常に自己の修養を怠らなかった。

日記に記された頃には、呉海軍工廠潜水艦部乙坂事務所に所属し、倉橋島(現・広島県呉市)の水中特攻「P基地」で甲標的艇長として訓練に励むとともに、兵器の改良にも取り組んでいた。甲標的の爆装を上申し、血書を度々したため、「死の戦法」で祖国を救う並々ならぬ覚悟を決めていた人物である。もしこの時点で豊住少佐が黒木少佐と出会っていたのであれば、そのほとばしる情熱に心動かされ、思想に共感し、自らも皇国護持の道を貫く決意を確固たるものにしたことは想像に難くない。

冊子『純忠菊池公を偲ぶ』(菊池神社鎮座七十年記念奉賛会、昭和十一年二月)は、昭和八年四月に東京青年会館で開催された「菊池武時公六百年記念会」において、平泉博士が「菊池氏の勤王と国史上に於ける其の意義」と題し講演された要旨が収録されている。菊池武時公は元弘三年、九州探題北条英時を征討するため出陣し、力戦奮闘の末戦死した人物である。この出陣は「衆寡敵せず」を充分に承知した上での覚悟の討死であった。

私欲や打算はなく、覚悟の討ち死にをした菊池武時公は一家一門を挙げて天皇の御為に働いた。不幸にして戦死したとはいえ、この戦死は決して無駄ではなく、勤皇忠孝の大勢を呼び起こし奮起させるのである。時代は六百年くだり、郷土の誇りである菊池氏を心から慕う少佐もまた、同じく皇国護持のため未曽有の国難に立ち向かうべく奮起し、回天特攻の道を志し突き進んだ。そして少佐自身、その死が決して無駄ではないことを知ってた。


遺書

少佐の菊池氏を慕う思いは、昭和十九年十一月八日、出撃の日に綴った家族宛の遺書においても表れている。

(前略)今や決戦の秋(とき)来りて 皇国の興廃将に此の一戦に有之(これあり)候 男と生れて二十有二年 皇国の興廃を担つて此の聖戦に参加し 皇恩の万分の一にも報い奉り得るは 男子の本懐之に過ぐるものなし 我々肥後男子の血には 勤皇菊池氏の忠節の誠流れ 千本槍の意気や将に昇天の気概あり 皇国護持の道唯我々青年の肉弾突撃にあり されば我等の責務や重大にして愈以て尽忠報国の念を堅くする次第に御座候(中略)最後に
 天皇陛下の万才を三唱し敵撃滅に征く 父上始め皆様の御健康を祈りつつ(後略)

少佐の皇国護持の道を一筋に直走(ひたはし)る決意がみなぎっている。

また、少佐の信念と回天の思想は一致していたことが、出撃前に少佐が「一騎当千」と墨書した扇子から見受けられる。

やや遡るが昭和十七年、機校で最上級生になった際、十一月十五日付の日誌に、

「唯、余ノ主張スルハ、皆、一騎当千ノ士トナリ、以テ自ラ陣頭ニ立ツテ誘導スルコトナリ」

また同二十九日付日誌に、

コノ心機一転セル時過去ヲ反省シ、ソノ長短ヲ知リ、又将来ヲ考ヘ ソノ準備ヲナシ、立派ナ強キ人間トナルベク、勉強ニ訓練ニ生活ニ邁進シ、一騎当千ノ士タルベク大イニ生徒生活ニ邁進セン」
と、下級生を指導する上での決心を「一騎当千」という言葉で表した。「一騎当千」は『太平記』に出てくる熟語で、「一騎で千人の敵を相手にすることができるほど強いこと」を表す。回天志願にあたっては、一基で如何なる艦船も撃沈させ得る「一騎当千の士」たる兵器との確信があったに違いない。

大津島を出撃した回天特攻「菊水隊」は作戦決行日の十一月二十日午前三時、ウルシー泊地を睨み出撃準備を終え、豊住中尉(当時)は同じ「菊水隊」の吉本健太郎中尉(当時)と共に潜水艦内交通筒から回天に乗艇した。愈々潜水艦から離れるべく、回天をつなぐ固縛バンドを外したが回天は潜水艦の交通筒に固着したまま離れず、機械を発動して推進器を全速回転しても動くことはなかった。この時、吉本中尉も同様の状況で動けず、両艇は遂に発進することができなかった。工藤義彦少尉(当時)の回天も操縦室が浸水し、胸まで水に浸かってしまった。

三基の回天が相次いで発進不能となる中、今西太一少尉(当時)は、他の艇が故障で発進が遅れていることを知ると「自分の艇だけでも早く発進させてください」と何度も電話で催促し、寺本巌艦長は今西艇を発進させた。搭乗員の切望に答え、残りの艇も発進させるべく鋭意故障の修理に努めたがその甲斐もなく修復不能となり、涙をのんで残った艇の発進を思いとどまった。

「菊水隊」によるウルシー泊地での攻撃は、米油槽艦「ミシシネワ」を撃沈し敵に戦慄的(せんりつてき)な恐怖を与えた。一方、パラオのコッソル水道に向かった伊三十七は消息を絶ち、帰ることはなかった。少佐の乗艦した伊三十六は敵機や敵駆逐艦の猛攻にさらされ、九死に一生を得てようやく呉に帰投した。

一度、覚悟を決め出撃したにもかかわらず帰投する少佐の心中、いかばかりであっただろうか。帰投後、機校の同期と懇談する機会があった。期友・橋元氏はこの時の少佐の様子を「いつも通り自然体であり、口数も少なく具体的な話はしなかった」と回想している。

橋元氏が「出撃するときの思いはどうであったか」と思い切って尋ねると、少佐は言葉少なに「故国は美しかった。この国を守らねばならないと思った」と答えた。少佐が内に秘めたる祖国愛は些(いささ)かの虚飾もない純真そのものであった。一点の曇りなく飾らないこの一言が、少佐の真髄を表しているように思えてならない。

昭和二十年一月九日、少佐は回天特攻「金剛隊」として二度目の出撃を果たした。攻撃日は一月二十一日、敵の前進拠点を奇襲する作戦だ。少佐が乗艦した伊四十八号潜水艦はウルシー泊地を目指し、大津島を出撃した。しかし、伊四十八は出撃後、第六艦隊が呉帰投を命じても応答はなく、一切の連絡を行うことなく消息を絶った。

米軍側の史料によると同月二十三日、敵対潜掃蕩部隊と交戦し沈没したとされている。伊四十八は米護衛駆逐艦「コンクリン」のヘッジホッグ(対潜迫撃砲)による激しい攻撃にさらされた。それから数分の後、「コンクリン」は突然海面上に飛び上がったという。「コンクリン」の真下に艦を位置させた伊四十八の回天が爆発したのである。回天には交通筒を通って豊住・吉本両中尉(当時)が乗艇していたはずだ。二人は一矢を報いる攻撃を敢行し、壮絶な戦死を遂げたのである。時に豊住少佐満二十一歳、吉本少佐満二十歳あった。


敬 慕

戦後、日本人の多くは手のひらを返したように特攻隊を批判した。殉国精神なるものは嘲笑(ちょうしょう)され、正しい歴史を学ぶことすら忘れ、自国の国柄、そして大東亜戦争に散華(さんげ)した先人への畏敬と誇りを持つことも許されない時代が長らく続いた。この鬱屈した現状を打破する力が、少佐の精神にある。

少佐の遺墨は「皇国護持」「七生報国」「挺身突撃」「撃滅回天」「必殺」「肉弾攻撃」「轟沈」と、勇猛果敢な文言で、その筆勢は力強い。「皇国護持の道は唯一青年の肉弾突撃による」という徹底した信念が少佐らしく真っ直ぐに書かれている。遺墨を拝せば、その熱情は今なお熱を帯び我々の心に強く迫り、日本人としての誇りが沸々と湧き上がる。どんな困難に遭おうとも不屈の気魄で日本人の道を貫いたこの精神こそ、我々日本人が奮起するよりどころであり、敗戦で歪んでしまった現状を打破し、祖国を立て直す原動力となる。

最後に、少佐が辞世として血書した歌を敬慕の念を込めて紹介する。

君がため命死すべき軍人と
    なりてのりくむ君ぞ雄々しき