『日本』令和5年4月号
風格ある日本人の育成を
渡邉規矩郎 /元新聞記者・教育研究者
「期待される人間像」が求めた日本人
半世紀以上前の昭和四十一年十月、文部省(当時)の中央教育審議会は「後期中等教育の拡充整備について」を答申、その別記で「期待される人間像」を提起した。そこでは、「日本人にとくに期待されるもの」として、①正しい愛国心をもつこと ②象徴に敬愛の念をもつこと ③すぐれた国民性を伸ばすこと――を提起。「すぐれた国民性を伸ばすこと」の項では、風格ある日本人の育成を期待した。
「世界史上、およそ人類文化に重要な貢献をしたほどの国民は、それぞれに独自な風格をそなえていた。それは、今日の世界を導きつつある諸国民についても同様である。すぐれた国民性と呼ばれるものは、それらの国民のもつ風格にほかならない。明治以降の日本人が、近代史上において重要な役割を演ずることができたのは、かれらが近代日本建設の気力と意欲にあふれ、日本の歴史と伝統によってつちかわれた国民性を発揮したからである。このようなたくましさとともに、日本の美しい伝統としては、自然に対するこまやかな愛情や寛容の精神をあげることができる。われわれは、このこまやかな愛情に、さらに広さと深さを与え、寛容の精神の根底に確固たる自主性をもつことによって、たくましく、美しく、おおらかな風格ある日本人となることができるのである。また、これまで日本人のすぐれた国民性として、勤勉努力の性格、高い知的水準、すぐれた技能的素質などが指摘されてきた。われわれは、これらの特色を再確認し、さらに発展させることによって、狭い国土、貧弱な資源、増大する人口という恵まれない条件のもとにおいても、世界の人々とともに、平和と繁栄の道を歩むことができるであろう」
ここでいう「日本の歴史と伝統によってつちかわれた国民性」とは何か。国文学者の芳賀矢一博士が明治四十年に著した『国民性十論』で、日本人の国民性として①忠君愛国 ②祖先を尊び家名を重んずる ③現世的・実際的 ④草木を愛し自然を喜ぶ ⑤楽天酒しゃらく落 ⑥淡泊瀟しょうしゃ洒 ⑦繊せん麗れい精巧 ⑧清浄潔白 ⑨礼儀作法 ⑩温和寛かんじょ恕――の十項を列挙している。 「期待される人間像」が出された前後は、大きな論議と反響を呼んだが、その後、教育現場ではほとんど話題にもならず忘れ去られ、歴史的文書になってしまったのは残念でならない。
志を立てることが万事の源
「内に志あれば外風格に必ず現れる」とは、平泉澄博士の言葉だが、風格ある日本人の育成において大切なこととして、真っ先に「志」をあげなければならない。
吉田松陰は『士規七則』で、「志を立てて、以もって万事の源となし、交りを択えらびて以て仁義の行を輔たすけ、書を読みて以て聖賢の訓おしえを稽かんがふ。士苟いやしくもここに得るあらば、また以て成人と為すべし」と説いた。
これは橋本景岳が『啓発録』で掲げられた「稚心を去る」「気を振う」「志を立てる」「学に勉む」「交 友を択ぶ」に共通する。「志なき者は魂なき虫に同じ」とされる景岳は、志の立て方を次のように懇切 に説いている。
「とにかく、志を立てる近道は、聖賢の教えや歴史の書物を読んで、その中から深く心に感じた部分を書抜いて壁に貼りつけておくとか、常用の扇などに認めておくなどして、いつもそれをながめて自己を省みて、自分の足らぬところを努力し、そして自分の前進するのを楽しみとすることが大切である。
また、志が立った後でも、学問に励むことを怠れば、志が一層太く逞たくましくならずに、ともすれば、かえって以前の聡明さや道徳心が減少し、失われてゆくものである」(『啓発録』講談社学術文庫)。
西郷南洲も、「聖賢ニ成ラント欲スル志無ク、古人ノ事跡ヲ見、迚とてモ企テ及バヌト云フ様ナル心ナラバ、戦ニ臨ミテ逃ルヨリ猶ホ卑ひきょう怯ナリ」(『南洲翁遺訓』)と高い志を求めておられる。
言語を正すことは心を正すこと
志と不可分な関係があるのが言語・言葉である。山鹿素行は、武士道の入門書『武教小学』の三章に「言語応対」を掲げ、その冒頭で「言語応対は志の適ゆく所なり、戯言なれども思より出づと云ふは是なり。凡そ士の言語正しからざる時は、則ち其の行必ず猾かつなり」とし、言語・言葉というものは、直ちにその精神を表現するもので、心を正しくしようと願うならば、正しい言葉を用いなければならないと説かれた。
今、家庭・学校・社会において言葉が乱れ、敬語がおろそかになっていることは、由々しき問題である。
敬語の「敬」という字は、人に対しては人を「うやまう」ことであり、自分においては「つつしむ」ことである。すなわち、「つつしみ・うやまい」が言語に表れたものが敬語にほかならない。その言動がおのずと人の風格や品格に表れてくる。
「つつしみ・うやまう」ことが、日本古来の根本的な生活態度であることを明らかにしたのは山崎闇齋である。つつしみの生活は祈りの生活で、祈りからつつしみは生まれ、つつしみによって祈りは生活のものとなり、祈り・つつしみは、正直という心の色として表されるとされた闇齋は、自分に対してはつつしみ、相手に対してはうやまう「敬」の字を最も重んじられた。
ここで、「つつしみ」に関連して、「たしなみ(辛苦)」ということにふれておきたい。 『日本書紀』神代巻に、素すさのおのみこと戔嗚尊が高天原で乱暴・悪事をはたらいたことにより天上を追放され、根国へ「たしなみつつ降りき」とする記事があり、その「たしなみ」に「辛苦」の字を当てている。この「辛苦」の後に素戔嗚尊は清々の境地に到達したがゆえに、広く崇あがめられる神となっていく。
古語辞典で「たしなむ」を引くと、「好む、好んで精を出す」のほかに「心がけて修行する」「見苦しくないように整える、飾る」「慎む、がまんする」の意味がある。長崎県壱岐地方では、現在も「辛抱する」ことを「たしなむ」というと聞いた。古い文化が地方に残っている例は数多いが、壱岐地方では、この古語が今に生きていることに驚かされた。
辛苦や辛酸は人を成長させる。昔から「艱難(辛苦)汝を玉にす」という故事ことわざがある。熊沢蕃山の「憂きことの なほこの上に積もれかし 限りある身の力試さん」の歌、山中鹿之助の「願はくば、我に七難八苦を与へ給へ」と三日月に祈った有名な逸話もある。姿勢は至誠に通ず
心のありようが言動に現れるが、その逆もあり、姿勢が正しくないと心も曲がる。腰骨を立てる、姿勢の確立をめざす立腰教育を実践している学校などが各地にあるが、武芸や礼法における形・型の修練に共通する。天地の間にあって、人が「姿勢」を正すことは、「至誠」に通じるのではなかろうか。
先人たちは、日常から学問や武術とともに和歌や漢詩を詠み、管楽、芸能を好む風雅を備えていた。文武両道の実践により自らを磨き高めてきた。その結果としての風格・品格であり、それが日本人の国民性になった。ところが今や、日本及び日本人の風格・品格どころか、国家・国民の劣化が憂慮されている状況だけに、風格ある日本人の育成を歴史と伝統文化に求める教育が肝要であると思う。