『日本』令和5年8月号
危機における国家の権力行使をめぐって
廣瀬 誠 /元自衛官
コロナのパンデミックとウクライナ紛争の影響による世界経済の混乱が続いている。わが国周辺を見れば、北朝鮮によるミサイルの発射は最早日常化しつつあり、その射程等技術の進歩も見られる一方、台湾をめぐり米中の関係は緊張している。わが国内も経済の長期に亘る低迷に加え、少子高齢化が国民の目にも明瞭に見える形に進んできている。戦後、国民生活の安定を第一とし経済的な発展にもっぱらその国力を集中してきたわが国も、その将来の進むべき方向を真剣に再考しなければならないであろう。そのために残された時間は多くはない。
さて、わが国の戦後は、危機対処において、ある傾向を明らかに示している。それは、危機において国家がその権力の行使を躊躇(ためら)うことである。
東日本大震災等の災害において、道路をふさいでいる被災車両を排除することができなかったことや、コロナ・パンデミックに際して、殆ど強制措置を取ることが出来なかったように、危機に際して国家の権力(強制力)を行使することには一貫して抑制的であった(前者は、平成二十六年に法改正により改善されている)。また、イラクへの自衛隊派遣はイラク特措法により可能となったことに見られるように、特に実力行使を伴うことが予想されるような場合、これを例外的な事態として対処する傾向があるように見える。しかし、そのような対処では必ず限界がくる。と言うのは、わが国有事に起きる全ての事象を具体的に事前に予想し、かつそれに対応できるように平時の法制の特徴である、いわゆるポジリスト方式で法律を制定しておくことは不可能と思われるからである。不測の事態は必ず起こり、起こった場合、臨機の処置が可能なネガリスト方式でなければ対応が難しいことは自明であろう。有事を見据えた、そのような包括的な法の枠組みが必要なのである。
いざ有事という時にも国家の権力行使はあくまで避けるという強い意志と覚悟のうえで、このような状況を放置しているのかと、私たち国民は自分自身に問う必要があろう。なぜなら、関係法制度を整えることなく国家の権力の行使を行うべきでないから。コロナ対処では、国家の権力行使は避けつつ、国民の「支持」を期待する行政指導等でなんとか対処してきた。強い法的規制によることなくその時々の社会的な合意形成を背景に政策を遂行するのは、平時においては望ましいかも知れぬ。しかし、国民全体の安全が脅かされるような危急の事態が生起した場合、それで国民の安全が本当に確保できるのだろうか。むしろ、法的な枠組みなく「空気」を背景として国家権力の行使と国民の権利の制約が行われるとすれば、それこそまさに避けるべきことではないのだろうか。
「交戦権」の問題
戦争は、今やそのものが違法とされるが、国際法上、自衛権は認められている。自衛の戦いにおいて、わが国に侵攻する相手の人員を殺傷し、その武器等の装備を破壊することも戦時国際法に従って、認められる。ところが、わが国は憲法で戦争を放棄し、「交戦権」を認めていない。このため、上記の交戦相手の人員の殺傷や装備の破壊の根拠は、「交戦権」とは別のものという建前となっている。すなわち、「ここにいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領、そこにおける占領政策、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕等の権能を含むものである(昭和五十五年十月二十五日、稲葉誠一議員提出質問主意書に対する答弁書)」と解しており、「他方、我が国には、自衛権の行使に当っては、我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することが当然に認められるのであって、その行使として相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うことは、交戦権とは別の観念のものである。実際上、自衛権の行使としての実力の行使の態様がいかなるものになるかについては、具体的な状況に応じて異なると考えられるから、一概に述べることは困難である(昭和五十六年五月十五日、同)」とされている。
国際法で言う交戦権とは別のものと規定する一方、その内容は一概に規定できないというのである。そのため、ケースごと個別の法律が必要になる。それが、特別措置法の発想となり、また、海上輸送規制法における措置が、「交戦権の行使としての『臨検』『拿捕』とは法的根拠を異にする」という所以であると考えられる。このように、交戦権とは別のものと規定することから、二つの問題が生起するであろう。
まず、ある国との間で軍事紛争が起こったと仮定してみよう。交戦している両国にとって、双方の軍隊の戦闘における行動規範が国際法の規定と同じであり相互に共通しているとの共通認識がなければ、国際法が期待する戦闘における人道上の配慮等の共通の規範に無用の混乱を持ち込むことになる。「交戦権とは別のものだが、内容は同じである」という説明は理解されないであろう。同じ国際法上の規範を共有しているという基盤を整備することは、軍隊を運用する側すなわち政治の基本的な責務ではなかろうか。
次に、凡そ法治国家であるならば、自衛隊の任務行動における自衛官の行動と権利・義務が、国際法に沿って整備された国内法に基づいて規定され、それに背いた場合にどのような罰則が科されるのかが予め明確になっていなければならないであろう。このことが不鮮明なまま、行動を命ぜられることがあってはならない。そのためにも軍刑法が必要である。軍刑法が欠けていることは、自衛隊の実行動を規定する法律上の枠組みが大きく欠落しているということを示している。
有事における法的枠組みの欠如
わが国では平時の法律の枠組みで有事に起こる事態も律する形になっていることは、換言すれば有事における行動と規範を支える法体系そのものがすっぽり抜けているということなのである。近頃なされている憲法の緊急事態規定の議論は、まさにこの部分で起こっている。また、このことは自衛隊が軍隊ではないと規定していることの必然的帰結でもある。わが国で危機を避けるために国家がその権力の行使を躊躇う、あるいは行使しないで済まそうとする背景ともなっている。緊急事態の最たるものであるわが国有事を、平時の法体系だけで対処せざるを得ない状態におくことは、早急に是正されるべきであろう。
まずは、戦時国際法に対応する法的な枠組みを、国内法で整備しなければならないと考える。その一つが軍刑法の整備である。既述のように自衛隊には、「自衛隊刑法」というような軍刑法はない。だから、「任務中の自衛官の敵兵殺傷行為等を一般刑法で裁くことになるのでは」という類いの議論が行われるのである。このような問題が生じる根本は、自衛隊を軍隊ではないとすることから生じている。これを是正するため、憲法を改定し自衛隊を軍隊と規定し、自衛の戦いのために交戦権を認めることがやはり必要なのである。
憲法の改正
憲法の規定が我が国の防衛に与える影響はこれだけではない。その他にも、憲法に由来する安全保障上の多くの課題がある。
憲法九条の軍隊不保持の規定から自衛隊違憲の考え方が出ていることは周知のことである。政府見解では、自衛隊は合憲としているが、違憲の考え方があること自体が、加憲論が論じられる理由となっている。また、専守防衛という防衛政策(あるいは戦略)も憲法の平和主義から直接導き出されている。そもそも戦略であるとするならばその基本は、自らの選択肢の幅を常に広く残すようにするのが原則である。その点で、最初から取れる選択肢をひどく狭めていることはよくよく考えるべき問題である。相手の攻撃を抑止し、有効に対処するための他の多くの可能性を最初から棄てているかたちとなっているからである。
また、シビリアン・コントロールでは、「軍隊による安全」と「軍隊からの安全」のバランスが重要といわれるが、わが国においてはそれが後者に大きく傾いていることもよく知られている。同じように「国家による国民の安全」と「国家からの国民の安全」という視点を設けてみれば、後者への傾きが極めて大きいということなのである。こうなると、国家というものへの国民の信頼という問題となる。そうであるなら、安全保障上から大きな問題であろう。
憲法論議は、これまでとかく専門家や政治の場での議論に終始し、私たち一般の国民がこの議論に積極的に参加する事はあまりなかったように感じる。憲法が国家と国民の間の約束という面とともに、国家の構造あるいは姿を規定するものと考えれば、我が国の歴史や文化、国民の生き方(ウェイ・オブ・ライフ)を反映するものでなければならず、そう考えれば、広く国民がその考えを交換し深めあい、それが国政の場の議論に反映されていくことが重要であり、法律・憲法の専門家ではない私たち一般の国民が憲法を論じて行くことこそ、寧ろ不可欠なことと思われる。
現状の諸課題を速やかに改善するために広く活発な国民的な議論が行われ、必要な憲法の改正が速やかになされることを期待したい。