『日本』令和6年10月号
義の日本思想史(十)
新保祐司 /文芸批評家
第十章 義の島木健作と美の川端康成
一 島木健作の墓
今年の八月十七日、北鎌倉の浄智寺に行った。久しぶりに島木健作の墓参りをするためである。
私が、『島木健作―義に飢ゑ乾く者』(リブロポート刊)を上梓したのは、もう三十四年前の平成二年(一九九〇)の七月のことであった。「シリーズ民間日本学者」の中の一冊としてであり、このシリーズの編集委員だった評論家の松本健一さんの推薦によるものだった。私は、昭和六十二年(一九八七)からの二年間、季刊『三田文学』に内村鑑三論を連載したが、これが商業誌に初めて発表できた作品だった。この連載中にまだ無名だった私に、書き下ろしで島木健作について一冊書くという機会を与えてくれたのである。松本さんには感謝の気持ちしかない。内村鑑三論の連載の最終回を書き終えたのが、昭和六十四年(一九八九)の春だったから、島木健作についてはそれから翌年の春にかけての一年くらいで書き上げた。そして、上梓したのは、前述の通り、七月のことだが、連載を終えた内村鑑三論は、それより少し早く五月に『内村鑑三』(構想社刊)として出ていた。
この二冊は、ほぼ同時に刊行されたといってもいいし、内容的にも共通のトーンを持ったものであった。それを松本さんは、洞察されていたようである。毎日新聞の書評欄に、この二冊を取り上げた書評を書かれたのでもそれは分かる。ほとんど同時に出たということもあるが、同じ著者の二冊の本を論じる書評というのは珍しいであろう。「古くて新しい批評家の誕生」というタイトルであった。書き出しは、「新保祐司という批評界の新人は、『直球』しか投げない。それも剛速球であって、相手(読者)のことなど考えずに、じぶんが『急所』、つまり問題の核心と考えるところにズバズバと投げこんでくる」というものであり、「新保はじぶんと同じように『直球』で闘っている人物だから、内村や島木を論じようとしたのだろうか。そうではない、かれは内村や島木のほうから選ばれてしまったのだ。
掴まれてしまった、といってもいい(中略)島木によって掴まれてしまった経緯が明かされている。それも、愚直なまでの『ひたむき』さで述べられている。こういう愚直さは、新しさを喜び、ひねった物の見方を知的だとして推賞するこんにちの批評界では、貴重なものである」と書かれていた。そして、「もっとも、新保にとってはじぶんが問題の核心と信じるところにむかって書くことがおのれの闘いなのであるから、古風といわれようと、愚直と評されようと、すこしも痛痒(つうよう)を感じないだろう。わたしはこの、古くて新しい批評家の誕生をよろこぶものである」と結んでいる。この松本さんの書評を改めて読んで、これを新聞紙上で読んだときに感じた喜びを思い出す。それにしても、松本さんは、私のことをよく見抜いていたものだと思う。
この二冊によって出発して以来、新聞や雑誌などに寄稿することが増え、「読者」のことも考えるようになり、「直球」に混ぜて「変化球」も少しは投げるようになった。しかし、古稀を過ぎて、初心に戻ろうと思う。
「古くて新しい批評家」でいいのだ。「新しい批評家」などである必要はない。そして、批評の対象を自分から探すのではなく、「掴まれる」こと、これが批評の奥義である。今、私は、日本思想史における義について書いているが、この主題に私は、「掴まれた」のであって、研究のテーマとして見つけたのではない。美の「様々なる」変化球が投げられている今日の文化状況に対して、義の「剛速球」を「ズバズバと投げこんで」いこうと思う。
この「シリーズ民間日本学者」では、いろいろな人物がとりあげられたが、それぞれその人物を象徴する副題をつけることになっていた。私は、「義に飢ゑ渇く者」とした。これは、新約聖書マタイ伝のいわゆる山上の垂訓の一節である「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」(第五章六節)から採った。島木健作とは、「義に飢ゑ渇く者」に他ならないからである。それにしても、今から振り返ると、最初の書き下ろしの著作ですでに義を出していたのかと我ながら感慨深いものがある。私は、三十三歳のときの内村鑑三との出会いによって、人間とは、「義に飢ゑ渇く者」でなければならないという考えに「掴まれてしまった」のである。
島木健作の墓参りは、この本が出た翌月の八月十七日に行ったのが最初である。この日が、島木の命日だからである。本の上梓は、幸い命日に間に合った。墓石には、朝比奈宗源の揮毫で、島木健作之墓と彫られている。墓前に、拙著を呈し、この戦後日本で忘れられていった作家がこの著作をきっかけに復活することを祈念した。この願いは、後述の島木健作展や講談社文芸文庫の島木健作集の刊行などによって少しはかなえられたが、まだまだ不十分である。それは、美の時代には、義の島木健作の復活は、容易なことではないからである。
その後、墓参りはしばらく夏の暑い命日の日に続けたが、ここ二十年近く行っていなかった。今年は、墓前に、時代思潮が、美の時代から義の時代に変わっていくことが期待されるようになったことを報告し、その代表的な一例として、義の島木健作が復活することを祈念したことであった。
二 こわい雑巾ときれいな帯
この第十章の題目は、「義の島木健作と美の川端康成」としたが、島木健作と川端康成という二人の作家をこのように並べること自体、反時代的なものかもしれない。川端康成といえば、日本で最初のノーベル文学賞を受賞した作家であり、今日でも文庫で多くの作品が手に入る。新潮文庫では、『伊豆の踊子』『雪国』『古都』『掌の小説』『少年』『眠れる美女』『山の音』『千羽鶴』『虹いくたび』『みずうみ』などがあり、岩波文庫には『川端康成随筆集』が入っている。ノーベル文学賞受賞講演「美しい日本の私」も角川ソフィア文庫『美しい日本の私』に収録されている。また、川端康成歿後五十年の令和四年(二〇二二)の秋には、神奈川近代文学館で「没後五十年川端康成展 虹をつむぐ人」が開かれた。川端文学は、いまだにその人気が続いていることが分かる。
一方、島木健作は、かつて新潮文庫で『生活の探求』上下二冊『赤蛙』『獄』が出ていたが、絶版になって久しい。短編「赤蛙」は、教科書にも採用されたことがあったくらいだが、それも昔の話である。新潮文庫『赤蛙』が、名著復刊の一冊として出たのは、拙著の上梓の四年後の平成四年(一九九四)のことであった。
実は、神奈川近代文学館で「没後六十年島木健作展」が平成十七年(二〇〇五)に開かれた。島木健作の再評価を願っていた私としては、とてもうれしく思ったのを覚えている。そのとき、神奈川近代文学館の評議員だった私は、会期中に島木健作について講演した。同じ神奈川近代文学館で行われた展覧会ではあったが、川端康成展と島木健作展という二つのものにはメディアの取り上げ方や入場者数などにも、ずいぶん差があったと思う。
この展覧会の翌年の平成十八年に、講談社文芸文庫の一冊として島木健作の『第一義の道・赤蛙』が出た。これは、私が編集をして、解説を書いたものであった。しかし、これも初刷で終わっているようである。
このように今日の世間の評判には、かなりの差がある二人ではあるが、私は、義の島木健作を美の川端康成より重んずる者である。島木健作は、明治三十六年(一九〇三)札幌生まれ、川端康成は、明治三十二年大阪生まれ。四歳違いに過ぎない。内村鑑三が「美と義」の中で、欧州でも北の国々が、美よりも義を重んじ、南欧の国々は、義より美を愛するといっていたことを思いだすならば、島木は北方の精神の人であり、義である。川端は、大阪であり、美であろう。内村鑑三は、札幌農学校出身であり、やはり義の人なのである。こういう出身地や学んだ場所などの問題は、決定的なものではないが、全く関係のないものでもないであろう。ちなみに、私の元々の本籍地は、北海道の江差町であり、北方の精神に強く惹(ひ)かれるものがある。私が北欧、フィンランドの作曲家、シベリウスを愛し、『シベリウスと宣長』という著作を出したのもそれ故である。
島木健作と川端康成は、作風が違うが、縁がなかったわけではない。なかったどころか、かなり深いつながりがあったといった方がいい。二人は、共に鎌倉に住んでいた。島木は、昭和二十年の八月十七日の夜に、四十二歳で死んだ。敗戦の二日後に死んだことが、島木を戦後という時代の根源的批判者たる資格を与えるのである。キルケゴールも四十二歳で死んだことが、ふと思い出される。島木とキルケゴールには何か共通したトーンがあるようである。
島木が、鎌倉養生院で死んだとき、防空演習の担架に乗せて、扇ヶ谷(おおぎがやつ)の家まで運ばれた。そのときのことを高見順が「島木健作の死」(昭和二十一年一月)という文章の末段に印象深い表現を遺している。
「防空演習のあの担架の上に島木さんを横たへた。さうして前を三浦さんといふ島木さんの友人が担ぎ、小林秀雄さんがこれを助けた。後を義秀さんが持つて、久米さんと私とがこれに手を添へた。川端さんは提灯を持つて先導役に立つた。かうして島木さんを、彼の仕事場である家へと運ぶのであつた。月は既に落ちてゐた。暗い道には人気が無く、さう遠くない森で梟(ふくろう)がホーホーと啼いてゐた。長くわづらつてゐた島木さんの身体はごく軽く成つてゐたが、――重かつた。一つの時代の死。久米さんが、そんな気がすると呟(つぶや)いた。
島木さんの顔にかけた布が担架の揺れでずれて来て、ひよつこりと生々しい顔が現はれた。その顔は、私たちを見ないで、暗い空を見てゐた」
この葬送は、実に一幅の歴史画である。島木の死は、何か大いなるものを象徴しているのであり、誰か大画家に描いてもらいたい場面である。例えば、登場人物が揃っている。川端康成、小林秀雄、中山義秀、久米正雄、高見順である。この歴史画にタイトルをつけるとすれば、「一つの時代の死」であろう。島木の敗戦後二日後の死は、昭和戦前期の義の時代の終焉を象徴していた。だから、それは、「一つの時代の死」、義の死であり、「重かった」のである。
川端康成は、「武田麟太郎と島木健作」(昭和二十一年五月、七月)の中で、「敗戦は日本民族の大きい転向である」と書いたが、それは、義から美への「転向」を意味していた。島木健作的なるものが忘れられていくということであった。
小林秀雄は、「島木君の思ひ出」(昭和二十四年三月)という回想文を書いているが、これは友情の散文詩といってもいい傑作である。「中原中也の想ひ出」と並び立つものだが、「島木君の思ひ出」を長調であるとするならば、中也のものは短調で書かれているといっていい。小林秀雄の有名な「モオツァルト」は、小林秀雄、青山二郎、石原龍一の編輯による「創元」第一輯に発表されたが、その中に島木健作の「土地」(小説)を載せている。これも、「友情」の表れであろう。また、島木の全集は、昭和二十二年三月から二十七年にかけて全十四巻で、創元社から刊行されたのだが、この全集の奥付を見ると、編纂者は「島木健作全集刊行会(代表)小林秀雄」となっている。小林は、昭和十一年から創元社の顧問であったし、昭和二十三年から三十六年までは取締役であった。他の編纂者は、林房雄、亀井勝一郎、中村光夫である。そして、装丁は青山二郎であり、題簽(だいせん)は小林秀雄である。小林が題簽をしたものは、この島木健作全集の他にはないように思われる。
編纂者の一人であった中村光夫も、当時、同じ鎌倉に住んでいたが、島木と往来があり、この島木の全集の第一巻に付された「解説」の中で、敬愛の念にあふれた文章を捧げ、「一個の人間として見たとき、何といふ頑(かたくな)な律儀さであらうか、何といふいぢらしい健気(けなげ)さであらうか」と書いた。この「頑な律儀さ」「いぢらしい健気さ」、これこそ島木健作の核心であり、義といっていいであろう。中村は、新潮文庫の『赤蛙』と『生活の探求』の解説も書いているが、深い理解の行き届いたものである。『赤蛙』は、義を追い求める精神を描いたものであり、『生活の探求』とは、義の探求に他ならない。
島木の遺体を横たえた担架の後ろに「手を添へた」高見順は、『敗戦日記』の昭和二十年七月十五日のところには、「島木君の小説を小説じゃないというのは、玄人(くろうと)小説家の定説となっている」と書いている。日本の「玄人小説家」が、美の表現に現(うつつ)を抜かしている中で、島木は、義を問題にしていたからである。この「玄人小説家」の代表的存在の一人が川端康成であったといってもいい。高見は、島木健作の小説が「小説じゃない」ということを悪い意味でいっているのではない。高見は、島木のそういうところに愛情を感じていた。それは、『昭和文学盛衰史』の中の島木についての記述を読めば分かる。
中村光夫と同じく全集の編纂者の一人であった亀井勝一郎は、「島木健作」(昭和二十三年十一月)の中で、「島木は生れながらのピューリタンである。その全作品を通して、つひに恋愛や情慾を描かなかつた作家だ。この点でも実にユニークである」と書いた。乃木大将が、「和製ピューリタン」であったことが思い出される。「恋愛や情慾を描く」のが、「玄人小説家」であり、美の小説である。ここで、谷崎潤一郎の名を挙げてもいい。一方、島木は、義の小説家だったのである。
「提灯を持つて先導役に立つた」川端康成も、同じ鎌倉文士として島木とは交流はあったのであり、島木の死後、昭和二十一年二月に新潮社から島木の晩年の短編を収録した『出発まで』という作品集が出たが、川端はこの本の題簽を書いている。
拙著の序説を、私は「こわい雑巾」と題した。北畠八穂の「島木家の雑巾は、かりて足をふけないと宅の女中はこぼしました。雑巾はいつでも、なめてもいい程にすすぎぬかれてあるそうです。こわい雑巾だと敬遠していました」という回想がとても印象深かったからである。この雑巾がこわいという感覚、いわば畏れを感じるというのが島木の核心である。「こわい雑巾」は、「非凡なる凡人」に通ずるであろう。これに対して、川端康成は、温泉芸者のきれいな帯といえようか。
三 川端康成の「魔界」
前述したように、令和四年の秋、神奈川近代文学館で、歿後五十年を記念して、川端康成展が開かれた。私は、展覧会場を一巡し、その後、カタログも一読した。心惹かれるものはなかったが、日本人初のノーベル文学賞受賞者として、日本文学の中の「代表的日本人」と世間からみなされている川端康成に、「美と義」の問題は露(あら)わに出ていると思った。
ノーベル文学賞受賞時の講演「美しい日本の私」を、今日、改めて読んでみると、こういう「美しい日本」というものは、私にはもうマンネリ化して感じられる。日本の観光のキャッチフレーズにふさわしいようにさえ思われる。「美と義」の緊張関係がなく、平板である。この講演には、いうまでもなく「義」の文字は出てこない。日本は、「美しい」ということに限られるのである。川端康成のキーワードに「魔界」がある。「佛界入り易く、魔界入り難し」。「『魔界』なくして『佛界』はありません。そして『魔界』に入る方が難しいのです。心弱くてできることではありません」と川端は語っているが、「魔界」にまでいく「美」の方を、「心」強く、確信的に「択」んだのである。「義」に対しては、一顧だにしていない。
内村は、「美と義」の中で、「真個の美は義の在る所 に於てのみ栄える」といった。義がない、というか義との緊張関係にない美というものが、どのように崩れていくかを、川端康成の文学の展開は示しているのである。「美」は、「魔界」へ吸引されていくのである。
カタログの中に、『千羽鶴』について、その主人公は、イモラル(不道徳)ではなく、アモラル(無道徳)な世界の住人なのであると書かれている。「魔界」の世界ということであろう。『源氏物語』と通じている訳である。しかし、果して「魔界」は深いであろうか。様々な眩惑に満ちた美が、そこから生まれて来るような豊かさがあるとしても、それは「深く」はないのではないか。川端康成は、『雪国』の連載が始まる頃、日本の文壇で今「でたらめに書ける」のは正宗白鳥と徳田秋声の二老大家だけだと肯定的に書いたが、「でたらめに」書いても、あるいは「でたらめに」書いた方が「魔界」は眩惑的になり、美の世界としては豊かになる。内村は、「世界第一流の芸術家は、極めて少数の者を除くの外は、凡て義を愛する人であつた」といって、「極めて少数の者」の例外があることを留保したが、果して川端康成は、その「極めて少数の者」の一人に入るであろうか。
講演「美しい日本の私」に、その原稿から削除された一文が、川端の歿後二十年を経て明らかにされたことを私は、最近になって知った。迂闊なことではあるが、これは川端における「美と義」の問題を考える上で、好個の資料である。
この「持説」は、日本の文化と日本人の精神に対する否定的なものだったので、川端は、講演から落としたのに違いない。しかし、この「持説」を「長年」にわたって抱いていたことは、川端康成が端倪(たんげい)すべからざる作家であることの何よりの証拠である。この「持説」が落とされた講演にあらわれた川端康成を愛好している読者などは、全く誤解しているに過ぎない。「古来今日、西洋の虚無と退廃の真の苦悩、真の恐怖は日本にはない」という日本観から逃げているのである。
「本来」は、「外界の美」、自然の美や人間が作る美に「心を移さない」のだが、「仏教も哀愁の美的宗教にやはらいでしまふ弱さ」があったのだと、川端は認識していた。だから、「西洋の虚無と頽廃の真の苦悩、真の恐怖は日本にはない」というのが「長年の持説」だったのである。森鷗外が「かのやうに」という作品で、日本の近代にあるものは、「かのやう」なものにすぎなかったという諦念を書いたことを思い出すならば、「真の苦悩」ではない、「真の恐怖」ではない、いわば「かのやう」な苦悩、「かのやう」な恐怖があったにすぎないのである。この「かのやう」な苦悩や恐怖が、近代日本の文学における「様々なる意匠」として書かれたのである。それは、川端においても「新感覚派」の時代から晩年の「魔界」まで変わっていない。
内村鑑三が「浅い日本人」という文章の中でいった「De Profundis と称へて深淵の底より湧出でる喜と悲と怒」がなかったということであり、「欧州にニイチェのやうな基督教に激烈に反対する思想家の起つた理由は茲に在るのである。彼等は基督教に由て深くせられ て、其深みを以て基督教を嘲けり又攻撃するのである」という思想の劇が起きない「浅さ」の真因なのである。そこでは、「仏教も哀愁の美的宗教にやはらいでしまふ弱さ」があった。そして、「心情」的な「耶蘇嫌い」があるわけである。
川端康成の文学は、義のない美が、ついに魔界に落ち込んでいくことを示した例として残るであろう。