『日本』令和6年11月号
吉原政巳著『中野学校教育』を読む
小野耕資 /『維新と興亜』副編集長 大アジア研究会代表 崎門学研究会副代表
五・一五事件に参加した中野学校教官がいた
昭和七年五月十五日、青年将校らが総理官邸に突入し、犬養毅首相を暗殺するなどした一連の計画が起こりました。いわゆる五・一五事件です。この五・一五事件は、三上卓ら海軍青年将校が中心となって起こした事件ですが、陸軍側からも参加者がいました。当時、陸軍士官学校生(四十四期)であった吉原政巳(まさみ)も、その一人です。吉原は明治四十四年、宮崎県に生まれます。旧都城島津家の領地にあたり、「先生と言えば西郷隆盛」という感覚を持っていました。当時、吉原の郷里に近い福島村は全村差押(さしおさえ)の悲境にあり、共産革命の危機を肌で感じていました。法の網をくぐり、カネを蓄えることのうまいやつがのし上がっていく…。国難の時期を政治家連中に任せることはできないと考えました。「昭和維新は第二の大西郷を要望している」と昭和維新運動に参画していくこととなります。五・一五事件を起こした時はまだ二十歳でした。五・一五事件では禁錮四年の判決を受けます。被告中随一の秀才であり、砲兵科の首席であったといいます。その後、吉原は東京大学に入り、平泉澄博士に師事します。もともと五・一五事件の公判で「壮丁教育の為には国体の研究が必要であると思ひその研究に没頭したのであります」と陳述するくらいですから、国体の研究に深い関心を持っていたものと思われます。『中野学校教育』 (新人物往来社)のあとがきにも「縁あって、恩師の導きを受け、民族の魂の源泉である古典に親しむ心をおこした。齢はすでに、二十二歳であった」と書かれています。この「恩師」とは平泉博士のことと思われます。そうした縁もあってか、昭和十五年、吉原は陸軍中野学校に招聘されて教官となり、国体論を教えることになります。三十歳のことでした。
吉原は自分が国体を教えるには未熟すぎるとわかっていました。そこで、「共に学ぶ」という姿勢を出し、楠公社を建て、朝夕詣でて楠公の忠誠を偲ぶこと、講堂の授業に終わらず国事に斃れた先哲の遺跡を訪ねることを提案し、了承されます。「諜報、謀略に携わることになる中野学校の人間だからこそ、まず真の国士たらなければならない」という思いでした。吉原の講義は座布団なしで正座し受講する形式がとられました。「人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受け入れる方が大事」であるという信念に基づくものでした。
先哲の遺跡訪問については、時期によって訪問箇所が違うようですが、建武中興の舞台である吉野や、楠公ゆかりの笠置・赤坂・千早・湊川、北畠親房『神皇正統記』が書かれた小田城、水戸、吉田松陰はじめ幕末の志士が捕らえられた伝馬町獄などが選ばれたようです。 吉原が建てた楠公社は、「祭りは公的性格を持ち、私的に行われるべきではない」という信念から、湊川神社から分霊を受け建立されました。吉原はこの楠公社を「魂のふるさと」「うぶすなの神」と呼んでいます。移り住む先に神社を建立し産土神とし、秋の収穫祭では氏神様に豊穣を感謝する、これが日本人の生活だといいます。祭典は神宮皇學館(後の皇學館大学)ないしは國學院大學出身の神職資格者が斎主となり、学校長を祭主として厳粛に行われました。祭りの後は直会に興じていたようです。もちろんこれは崎門学や吉田松陰などの楠公敬仰の歴史に倣ったものです。吉原の楠公敬仰精神は戦後も維持され、「楠公社秋のみまつり仕へむとここ黒姫にわれら集ひぬ」という作歌も残っています。戦後は拓殖大学海外事情研究所所長を務めるかたわら、海軍中尉として五・一五事件に参加した林正義が興した「幽顕塾」にも関与していました。先哲の金言で国体論を教える
吉原が中野学校で国体論を教える際には、先哲の著作を以て行いました。『中野学校教育』ではそのことについても書かれています。
まずは『神皇正統記』。北畠親房が著わした本書は、「大日本は神国なり」の冒頭の一節で有名ですが、日本人の根幹の世界観について、中国、インドの古典にも精通し、伊勢神道を信じた親房が存分に語った本でもあります。神と人、自然と人とを対立させず、深い一体感に立つ叙述が行われています。また『神皇正統記』は天皇独裁を論じた本ではなく、君徳を養い、「天下の万民は皆神物なり」と仁政を布くべき旨を論じています。しかもそれは儒教、仏教の教えをわが国の道に昇華した末に成し得た世界観であることにも触れており、日本文化の伝統を守りつつ他文化摂取にも積極的たるべきことを論じています。
そして『中野学校教育』では崎門学にも触れています。崎門学は江戸時代前期の儒者であり神道家であった山崎闇斎から始まる学問で、前述の『神皇正統記』の再評価にも貢献した学問です。水戸学や幕末の志士にも深い影響を与えた尊皇思想の源流とも呼べる思想です。戦前日本で崎門学の復興に力を尽くした人物こそ、平泉博士でした。『中野学校教育』においては崎門の尊皇論発達の歴史を紹介しています。
そして議論は『弘道館記述義』に代表される水戸学に移ります。幕末、志士が尊皇を掲げ各地で蹶起しました。そこに水戸の学問は大いに影響を与えたのです。水戸光圀からはじまり、日本の古道に思いを致す水戸学の精神は、国学などさまざまな学問に影響を与えています。一方で「牽強付会に陥りやすい」と当時の国学者との考えの違いについても触れています。水戸学の核心である祭祀と父母への孝敬の道こそが重要であると論じています。水戸学が抽象論、観念論にとどまらず、医学等では非常に実用性、実践性を重んじていたことにも触れています。農業を重んじる農本性についても論じられています。
そして吉田松陰の『講孟箚記』です。現代では近藤啓吾先生が講談社学術文庫で復刊されていますが、『中野学校教育』においても重要な一書として取り上げられており、その「躍動する生気」を味わうべきであると論じました。「復古は、不変なるものを、その根源においてとらえるもの、維新はこれにもとづき、時の変化に応じて、非常の変革も、敢ておそれないものである。復古即維新、これが現実にされて来たのが、日本の歴史であった」という『中野学校教育』の一節は、現代日本人においても自覚されるべき金言であると思います。「復古即維新の道は歴史あるなべての文化に欠かせずと知れ」との吉原の歌もあります。
アジアの中の日本を自覚せよ
さて、吉原は楠公敬仰を通じた強烈な尊皇心を有していましたが、同時に「アジアの中の日本」ということを強く意識していました。『中野学校教育』でも、「アジアの中の日本」という意識が強く表明されています。明治時代以降の日本は、アジアを見捨て、欧米に倣って近代化を進めるあやまちを犯してしまったが、アジア政策の正しい流れは在野の国粋主義、民族主義の人々によって保たれていたと書かれています。これは頭山満らがアジアの独立運動家を支援してきた歴史のことを指していると思われます。吉原は、古代からの日本史が中国大陸との緊張関係の中にあったことを認めたうえで、近代になって西洋列強が植民地支配をしてきたことで「アジア防衛」が日本の国家的使命になったと論じています。そのうえで『中野学校教育』では、荒尾精、根津一らのアジア防衛を志した民族派の事跡を紹介しています。
明治維新の理想は数年で色あせ、欧米文明の輸入を急ぐ狂態を晒し今日に禍根を残しました。戦後日本においても、米ソの駆け引きに惑わされず毅然たる自立精神を持つべきでした。日本はアジアの一員であり、アジアに貢献し世界の安定に向けて歩みを進めるべきであり、防衛をアメリカに完全に委ねてしまうなら、外交方針を独自に立てる可能性は失われてしまいます。現代日本において、たしかに中国共産党による膨張政策が脅威であることは当然です。しかし、それに対し安易にアメリカと共同して防衛に当たるというのは、問題があるのではないでしょうか。米中対立の尖兵にされるという懸念もさることながら、現代日本のあまりにもアメリカに従属せられている現状への批判意識、そして先人が持っていた欧米列強からアジアを防衛する意識を踏まえて国策は考えられるべきものと思います。基本的に欧米列強は、植民地支配した後、自分たちにその恨みが向かないよう分断を仕掛けていくことを常としています。中東やアジアにおいても、そうした分断の残滓が国際関係を複雑にさせる要因となっています。パクスアメリカーナの時代は終わりつつあり、新たな国際秩序を分断を乗り越えたうえでどう作るかが問われているように思えてなりません。
宮城事件に関与した畑中少佐を慰霊
敗戦時において、降伏に反対して「本土決戦一撃和平」を唱え、いわゆる「宮城事件」を主導した畑中健二少佐は、吉原の士官学校の二期後輩(四十六期)であり、平泉博士の門下生でした。吉原や西内雅はじめ当時の平泉門下には、間接的に宮城事件に関わった人物が数多くいました。ポツダム宣言を受け入れては「国体護持」はできないというのが畑中少佐らの思いでした。しかし平泉博士や同じく平泉博士の教えを受けていた阿南惟幾陸相は、心情は理解するものの、御叡慮を受け蹶起には強く反対しました。畑中少佐らの計画は成功する見込みのほとんどないもので、命を賭した問題提起といった要素が強いものでした。畑中少佐らは敗戦の玉音放送直前に自決しています。愛宕山の青松寺に畑中少佐らを祀る「孤忠留魂之碑」があり、吉原は戦後も畑中少佐らの慰霊に努めました。「孤忠留魂畑中兄らの碑にむかひ深く忸ぢ立つ応へ得ざる身を」の歌が残っています。