9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年11月号

少年少女のために 今日という日(明治節=十一月三日)

明治天皇とその大御歌

 小柳左門 /NPO法人・ヒトの教育の会 理事長


明治天皇は今からおよそ百七十年前の嘉永(かえい)五年(一八五二)十一月三日に、孝明(こうめい)天皇の皇子(みこ)様としてご誕生なさいました。その翌年、アメリカ合衆国のペリーが四隻の軍艦で浦賀に入港し、当時の江戸幕府に開国をせまりましたが、ここから幕末を経て十三年後の王政復古、そして明治維新に至る激動の時代を、明治天皇はその少年期に過ごされたのでした。

御父君である孝明(こうめい)天皇は、西欧諸国の盛んな侵略から国を護るために必死の努力をなさいましたが、慶応三年(一八六七)に急病のため三十六歳で崩御(ほうぎょ)(天皇がお亡くなりになること)されました。ただちに明治天皇が践祚(せんそ)(天皇の御位をお継になること)されましたが、この時いまだ十六歳。その翌年に江戸幕府は政権を朝廷にお返しし、ついに明治維新を迎えたのです。この時、明治天皇は、「広く会議を興(おこ)し、万機公論(ばんきこうろん)に決すべし」から始まる有名な「五か条の御誓文(ごせいもん)」を、国のあるべき姿として国民に示されるとともに、天地の神々に自(みずか)らお誓いになったのでした。

江戸時代の幕藩(ばくはん)体制から、新しい明治という統一国家を形作っていくためには、多くの困難を乗り超えなくてはなりませんでした。廃藩置県という大改革、そして京都から東京への遷都(せんと)もその一つです。しかも外国からの脅威から国家を守るために、必死の努力が注がれました。明治天皇は、まだ交通もままならない時期でしたが、全国各地に御巡幸(天皇がご訪問される行事)をなさって、国民との絆(きずな)を深められました。そのような時代を経て、新しい憲法(大日本帝国憲法)が発布され、国会が開設されると、明治天皇は国民とともに御みずから率先して国家に尽くすことを宣言されたのでした。

しかし日本は、明治時代には二度にわたる対外戦争を経験しなくてはなりませんでした。明治二十七年には、朝鮮の混乱と国家経営を巡って大国清(しん)との間で日清戦争が勃発(ぼっぱつ)しました。多くの犠牲をはらって勝利を得た日本でしたが、フランス、ドイツ、ロシアの三国干渉によって遼東(りょうとう)半島の領有権を奪われるという苦難が続きました。やがて東洋侵略を目指す北方の大国ロシアから祖国を護るため、明治三十七年、ついに日本は立ち上がります。日露(にちろ)戦争です。全国民が決死の戦(たたかい)に尽くすあいだ、明治天皇の御心配や御苦心は大変なものでした。当時、明治天皇は次のような大御歌(おおみうた)(御製(ぎょせい))をお詠みになりました。

四方(よも)の海みなはらからと思ふ世に
    など波風のたちさわぐらむ

「四方の海」とは海国日本をめぐる世界全体のこと、「はらから」は兄弟をさします。世界の人びとはみな兄弟であると思う世の中であるのに、どうしてこのような荒い波風が立ちさわぐのであろうか。明治天皇は我が国の平和だけでなく、世界の平和を願い、祈り続けられたのです。

世界の人びとは、大国ロシアの前に日本は滅亡するかと予想していましたが、日本国民の決死の努力と団結力によって、旅順(りょじゅん)や奉天(ほうてん)の会戦に勝利し、日本海海戦では強大なバルチック艦隊を撃滅(げきめつ)させたのでした。こうして我が国はついにロシアの侵略を退けて勝利し、世界の人びとから賞賛の声が挙がったのです。

しかし、明治天皇はこの勝利に決しておごることなく、戦で亡くなった人々やその家族に深い哀悼の心をささげられ、また敵兵であったロシアの兵隊に対しても礼節を尽くすように、臣下の人びとに諭されました。

西洋列強に負けないような国づくりは、明治政府そして国民の悲願でもありました。しかし明治天皇は、国の制度を改め、産業を興すような外から見える国づくりにとどまってはいけないと常に考えておられました。そして日本人が昔から伝えてきた道徳を根本として、国民の皆が、家族や友人を大切にし、人びとのために尽くし、心をひとつにして国とその伝統を守ることを願われました。その成果が、明治二十三年に公布された教育勅語(ちょくご)でした。しかしその教育勅語も、昭和二十年の我が国の敗戦によって排除され、日本人の伝統であった徳育が失われようとしていることは、まことに残念なことです。

明治天皇は、国民の安寧を常に祈っておられただけでなく、自ら日々精進しておられました。それが表されているのが、明治天皇が御詠みになった御製です。明治天皇は生涯に、およそ九万三千首もの御製を詠まれましたが、これを見ますと、そこには明治天皇の様々な御思いを、直接にお偲びすることができるのです。ここに数種の御製を紹介いたしましょう。

さしのぼる朝日のごとくさはやかに
    もたまほしきは心なりけり

さしのぼってくる朝日のように、さわやかに持ち続けていきたいものは、心であることよ、との御製です。私たちは毎日、ちょっとのことで欲を出したり、怒ったり、他の人をないがしろにしたりしがちです。そのように心を閉ざすのではなく、朝日がどんなものも明るく照らし始めるように、広くさわやかな心をもって生きていきたい、と願っておられます。日本人がもっとも大切にしてきた「和」の心を、朝日のような明るさをもって示しておられるのです。

あらし吹く世にも動くな人ごころ
    いはほにねざす松のごとくに

嵐が吹く世の中にあっても、人の心は動くことがないようにしようではないか。ちょうど大きな岩に根ざしている松のように、との思いを詠まれたものです。私どもの日々は、嵐が吹くようにいつも困ったり苦しんだりすることの連続です。明治時代は、まさに嵐が吹き荒れる時代でした。しかしそのような世の中にあっても、自分を見つめ、足元を固めながら、ふらつくことなく、しっかりと信念をもって生きていくことを願っておられるのです。

若きよに思ひさだめしまごころは
    年をふれどもまよはざりけり

若いときに、これぞと思い定めた「まごころ」は、年月を経ても迷うことがなかったことだなあ、という感慨を、その晩年に詠んでおられます。明治天皇のおよそ六十年の御一生は、国を守るためにまごころを尽くされる努力の連続であったと拝察します。まごころとは、人間のもっとも根本にある尊い心です。しかしその心も、世の中に生きていると、いつも惑わされて失いがちになるものです。若い時代に、人間はその根本が養われます。その時にこそ、もっとも大切な心を定めておきたい。そうすれば、歳をとってからも迷うことはないぞ、とのお諭しとしてこの御製を胸に留めおきたいと思います。

以上、明治天皇の御一生の概略と大御歌を紹介いたしました。若い人たちには、明治という激動の時代、日本がアジアの国の中で独立を保ち、国の伝統を保持しえた時代を振り返り、国民に常に愛情を注ぎながら指導してこられた明治天皇のみ教えを心に、学んでいただきたい。そしてこの日本の国を永遠に守っていただきたいと願っています。