『日本』令和6年1月号
義の日本思想史(一)
新保祐司 /文芸批評家
第一章 美の日本と義の日本
一「美の国」から「義の国」へ
今年は、令和六年である。私は、産経新聞の「正論」欄の平成三十一年の「年頭にあたり」というシリーズの一月八日掲載のものに、「改元を機に日本を『義の国』へ」と題した一文を寄稿した。令和への改元は、その年の五月一日であり、新しい御代を迎えるのを機に、日本は「美の国」から「義の国」にならなければならないという主張を述べたものであった。平成の日本は、「美の国」に他ならなかったからである。
それから、五年ほどになるが、義の意義への共感が徐々に深まってきているように思う。令和二年初めから新型コロナウイルス禍に見舞われ、昨年の五月に感染症法上の五類に移されるまでの三年余り、社会と心は閉塞した状況が続いた。そして、コロナ禍が収束しないうちに、令和四年二月二十四日にはロシアによるウクライナ侵攻が勃発して世界は一変した。第三次世界大戦が始まっているとする論者もいるくらいである。さらに昨年夏の猛暑に象徴される異常気象である。昨年の十月には、イスラエルとハマスの戦闘まで起きてしまった。このような世界の苦難の中に生きざるを得なくなった日本人は、戦後民主主義の中で美を愛玩してきたことの迂闊さに気がつきだしたのである。
安倍晋三元首相は、第一次安倍政権の登場にあたって『美しい国へ』と題した本を出した。しかし、この第一次安倍政権は、わずか一年で終わった。これは、根本的には『美しい国へ』という表現が、政治を語り国民を導くにあたって感覚的過ぎたということなのであり、『義の国へ』とすべきだったのである。日本を義の日本に立て直すというヴィジョンでなければならなかった。そして、第二次安倍政権は、美の第一次安倍政権の失敗を踏まえて「義の国」へと政策の方針を変えていった。事実、第二次政権以降の力強い歩みは、日本を導くヴィジョンを「美の国」から「義の国」へと転換したことを示したものであった。安倍元首相なき後の日本も、その方向を受け継ぎ、日本を「義の国」へ進めていかなければならない。
二 美の時代と義の時代が交互に
日本は、「美の国」のようにとらえられることが多いし、日本人は、美を愛好する傾向が強いと思われている(川端康成『美しい日本の私』)。しかし、日本の長い歴史を振り返ってみると、美の時代と義の時代が交互に出てくるように思う。大雑把な傾向として言えば、奈良時代は、義の時代であり、続く平安時代は、美の時代である。鎌倉時代から南北朝にかけては義の時代、室町時代は美の時代、戦国時代は義の時代、安土桃山から江戸時代は美の時代である。そして、近代以降は、明治が義の時代、大正が美の時代、昭和の戦前が義の時代、戦後の昭和から平成は美の時代であったと言えるであろう。
それぞれの時代をもう少し詳しく見るならば、奈良時代の義としては、『万葉集』に出てくる大伴氏の言立(ことだて)を挙げることが出来る。巻十八に収められている大伴家持の長歌の中にある「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」という言立は、義の始原である。
平安時代は、『源氏物語』や『枕草子』を思えば、美の世界であることが分かるであろう。ここで、明治時代における『源氏物語』をめぐってのエピソードを挙げておこう。内村鑑三は、義の「明治の精神」の代表的存在である。有名な『代表的日本人』は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の近代以前の五人を取り上げているが、明治以降の代表的日本人について書くとしたら、最初に挙げられるべき人物である。内村は、これもまた有名な講演『後世への最大遺物』(明治二十七年)の中で、次のように語っている。
「また日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思うているかというに、それは絵草紙屋へ行ってみるとわかる。どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のなかに美しい女が机の前に坐っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳(かざ)して眺めている。これはなんであるかというと紫式部の源氏の間である。これが日本流の文学者である。しかし文学というものはコンナものであるあらば、文学は後世への遺物ではなくしてかえって後世への害物である。なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかもしれませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何をしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしにした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)」
今日、このような発言をしたら、文化を理解しない「野蛮人」のように見なされるのが落ちだろう。しかし、これは「野蛮的」ではなく「野性的」なのである。現在の日本人は、文化によって飼いならされた人間になってしまっている。このときの聴衆の青年たちは、「拍手」までしている。明治という時代は、かくまで義の時代だったのである。
鎌倉時代は、「名こそ惜しけれ」の鎌倉武士の時代である(司馬遼太郎は、鎌倉時代がなければ日本は三流の歴史になっただろうと言った。それは、義がなければ、ということに他ならない)。南北朝は、『神皇正統記』の北畠親房、そして、文部省唱歌「桜井の訣別」の楠木正成の義である。
室町時代は、金閣寺の美であり(三島由紀夫の『金閣寺』)、銀閣寺のわびさびの美である。そして、世阿弥の能の美である。幽玄とは、美が深まったものであるとしても、義は含まない。戦国時代は、上杉謙信の義である。安土桃山時代は、豊臣秀吉の黄金の茶室が思い浮かぶ。江戸時代は、浮世絵の美である。これは、義のない美の典型的な世界である。
徳川幕府の江戸時代は、美の時代であったと言うと、武士道というものがあったではないかという反論が想定されるが、それは太平の時代における美に覆われた義であったのである(『葉隠』の山本常朝は、畳の上で死んだ)。美に窯変(ようへん)した義といってもいい。それが、幕末維新期の危機の時代になって、急激に荒々しい義が表に噴出してきたのである。吉田松陰や西郷隆盛をはじめとする幕末の志士たちは、皆、義の人物であった。安倍元首相も第二次安倍政権になって、元々尊敬していた吉田松陰に対する思いが深まっていったように思われる。それは、吉田松陰の義に対する畏敬の念なのである。
そして、幕末維新期の激動の坩堝(るつぼ)を通過した明治人たちは、義の精神に貫かれていた。陸軍の乃木希典(のぎまれすけ)や大山巌にしても、海軍の東郷平八郎にしても、日露戦争を指導した将軍たちは、皆、義の人物であった。日露戦争で日本が勝ったのは、根本的には、将軍たちだけではなく日本の国民が義の国民だったからに他ならない。
大正時代は、例えば竹久夢二の世界のような美である。萩原朔太郎と室生犀星が大正五年に発刊した詩誌の名は「感情」であった。哲学、思想ではなく、感覚、感情の時代であった。白樺派という個人主義と大正デモクラシーという空疎な政治運動が登場した時代である。
昭和の戦前は、「海ゆかば」(昭和十二年)の時代である。「海ゆかば」は、信時潔(のぶとききよし)の作曲であるが、歌詞は、前述した大伴氏の言立である。昭和十年代から見て千二百年ほど前の言葉に、曲が付けられたのである。そして、この「海ゆかば」は、戦前、第二の国歌として歌われた。古代の大伴氏の言立の持っている義が、近代の日本に復活したのだ。義が悠久の日本の歴史を貫いていることを、はっきりと示している事例である。私が編者となって編んだ『「海ゆかば」の昭和』というアンソロジーに、私は「海ゆかば」は、義の音楽であるという趣旨の一文を書いた。
戦前の昭和が、義の時代であることを示すもう一つの例は、乃木大将の評価の転換である。大正という美の時代には、芥川龍之介や白樺派の武者小路実篤や志賀直哉に見られるように、乃木大将に対する見方は、いかにも大正時代らしいものだった。その時代思潮は、 義を理解しないものだったのである。芥川龍之介は、「将軍」という小説で乃木大将の義に対して懐疑的にしか書けなかった。武者小路実篤は、「三井甲之君に」という文章の中で「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人といい、乃木大将を目して人類的の分子を少しももたない人」として、同じ自殺でも「ゴッホの自殺はそこに行くと人類的の処がある」と書いた。志賀直哉は、日記に「乃木さんが自殺したというのを英子からきいた時、馬鹿な奴だという気が、丁度(ちょうど)下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた」と書いた。
それに対して、小林秀雄は、昭和十六年の『歴史と文学』の中で、芥川の「将軍」を「乃木将軍のポンチ絵の様なもの」に過ぎないと切って捨てている。小林秀雄は「僕は乃木将軍という人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思っています」と言ったのであった。「純粋な痛烈な理想家」とは、義の人物のことだ。
戦後の昭和は、何と言っても敗戦国の戦後である。戦前の或る意味での義の突出に対する反動もあって、美の時代であった。それも、高度成長の時代における経済偏重の飽満した美であった。その時代の風潮は、バブル期をはさんでズルズルベッタリと平成に流れ込んだ。そして、平成は、失われた三十年であった。これは、経済について言えるばかりではなく、文化について言えることであり、美は、グルメ的な美にまで堕落したのである。
NHKのBS放送に「美の壺」という番組があるが、これは平成十八年四月に放送が開始されたもので、そろそろ十八年になるという長寿番組である。日本の多様な美について鑑賞する内容だが、美は愛玩(あいがん)される対象として扱われている。ここに出てくる日本の「様々なる」美は、確かに美しいが、その取扱い方が、好事的なのである。美は、趣味の対象として愛玩されており、安全なものになっている。小林秀雄は、『モオツァルト』の中で、「美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないものである」と書いているが、「美」が「現実にある一つの抗し難い力」でなくなっているのである。それは、日本人の方に、「力」として受けとめる精神力が失われているからである。
このような日本人の精神の状態では、これからの世界の苛酷な状況に対することはできまい。だから、令和の改元を機に、日本は「義の国」にならなければならないと私は主張したのだ。
三 開国と義の時代
日本の歴史を鳥瞰(ちょうかん)すると、美の時代と義の時代が入れ替わりつつ歴史が続いていると書いたが、国際環境から見ると、国を開いていた時代が義の時代であり、国を閉ざしていた時代が美の時代とも言えるようである。
飛鳥時代から奈良時代は、白村江の戦いに象徴されるように国際的な緊張の時代であり、遣唐使をやめて国風文化となっていった平安時代は、美が純粋になっていった時代であった。江戸時代は、言うまでもなく「鎖国」の時代であった。明治は、開国して義が鍛えられていった時代だったのである。大正は、日露戦争に勝利した後の閉塞感の中で(石川啄木「時代閉塞の現状」)享楽的になっていた時代であった。戦前の昭和は、激動の国際政治の中で、大東亜戦争にまで突き進んだのである。戦後の日本は、アメリカの傘下にあって、実質的には「鎖国」であった。しかし、今や、アメリカの傘は、破れてきている。となると、平成の弛緩した美の時代の後の令和の日本は、順番として義の時代になるはずだということになるのである。
四 内村鑑三の「美と義」
ここまで、美の時代と義の時代という考え方で日本思想史を見てきたが、私がこの発想を得たのは、内村鑑三の「美と義」という文章からであった。これは、私が批評を書き出した頃から私の思考を導いてくれたものである。
「美と義」は、大正十二年(一九二三)の「八月十九日、軽井沢鹿島の森に於て述ぶ」と付記されているように、その日の説教に基づいている。『内村鑑三全集』では三頁ほどのものだが、内容的には深いものであり、日本人の精神史を考える上では極めて重要な問題を提示している。
内村は、先ず次のように語り始める。
〇 文明人種が要求する者に二つある。其一は美である、他の者は義である。美と義、二者孰(いづ)れを択(えら)む乎かに由て国民並に其文明の性質が全く異るのである。二者孰れも貴い者であるに相違ない。然し乍(なが)ら其内孰れが最も貴い乎、是れ亦(また)大切なる問題であつて、其解答如何(いかん)によつて人の性格が定まるのである。
〇 国としてはギリシヤは美を追求する国でありしに対してユダヤは義を慕ふ国であつた。其結果としてギリシヤとユダヤとは其文明の基礎を異にした。日本は美を愛する点に於てはギリシヤに似て居るが、其民の内に強く義を愛する者があるが故に、其国民性にユダヤ的方面がある。伊太利(イ タリー)、仏蘭西(フ ランス)、西班牙(ス ペイン)等南欧諸邦は義よりも美を重んじ、英国、和蘭(オランダ)、スカンダナビヤ諸邦等北欧の諸国は美よりも義に重きを置く。美か義か、ギリシヤかユダヤか、其選択は人生重大の問題である。
人間が人間である価値は、この美と義の「二つ」である。そして、「美か義か、ギリシヤかユダヤか」、これが「人生重大の問題」なのである。あらゆる問題は、この根本問題に淵源を有する。この第一問題が、「重大」な問題であると認識することがまず重要である。「様々なる」知識と情報が溢れ、根本的なものが見えにくくなっているからである。
そして、もっと重要なことは、選択することである。人間の精神が精神であるために必要なのは、選択だからである。キルケゴール的に言えば、「あれかこれか」である。この選択を決断せず、学問をしたり知識・情報をかき集めても無意味なのである。無意味どころか何か意味のあることをしているという錯覚の中に落ち込んでしまう恐れさえある。「あれもこれも」では、相対主義の泥沼にはまり込んで、結局は身動きがとれなくなる。この思考停止を、多様性の名の下に胡麻化してはなるまい。この選択がないままに肥大化した研究や学問は、結局は空疎なのである。ここではっきり書いておいた方がいいだろう、私は義を選択する者である。
そして、「日本は美を愛する点に於てはギリシヤに似て居るが、其民の内に強く義を愛する者があるが故に、其国民性にユダヤ的方面がある」という指摘は、日本あるいは日本人を考える上で決定的に重要な点である。大雑把に見れば、「日本は美を愛する」ように見える。例えば、日本美術史の方面で考えてみても、「美」だらけである。いわゆる「日本的な美」というものが、特徴としてはっきりあらわれている。また、人生の美学などと、すぐ口走る。しかし、人生には美学ではなく、倫理学こそふさわしいはずである。
「其民の内に強く義を愛する者がある」のである。日本の歴史には、このような少数派ともいえるし、仮に「美を愛する」日本人を日本人らしいとすれば、日本人離れしているともいえる人間が、時々出現する。これが、日本の歴史あるいは思想史を一本の背骨のように貫いており、表層的にみれば、骨抜きになった「美」だらけの日本を辛うじて支えているのである。「ギリシヤに似て居る」が、「其国民性にユダヤ的方面がある」ことが、日本を、ある意味で複雑なものにしており、日本の背骨を見えにくくしているといえよう。「其民の内に強く義を愛する者」が多く出現した時代が、義の時代であると言えるのだ。そして、この背骨が、誰の眼にもはっきり見えるのが、幕末維新期である。この時代こそ、「其民の内に強く義を愛する者」が維新の志士、あるいは草莽(そうもう)の志士として輩出した時代だからである。
この「強く義を愛する者」がある意味で日本人離れしていることについては、作家の海音寺潮五郎と歴史家の奈良本辰也の対談を思い出す。海音寺は、大体日本人は「元来が自然環境の温和な農耕民族で、おとなしい」民族であり、政治もなしくずしにかわってきたが、そういう精神風土の中では吉田松陰などは「非常に際立った」異例の存在だという。「そういう点では松陰という人は、自分では純粋に日本人だと思っているんでしょうけれども、日本人離れしています。(笑)西郷もまたそうです。維新の志士は皆日本人離れしていますよ」と語っている。
内村は、続けて「美の美はしきは勿論言ふまでもない。殊に我等日本人として美を愛せざる者は一人もない。美は造化の特性である。神は万物を美しく造り給うた。(中略)美はたしかに神の一面である。美を知らずして神を完全に解する事は出来ない」と語り、「美」の価値を充分に認めた上で、次のように論を展開する。
〇 然し乍ら美は主に物の美である。肉体の美である。花と鳥との美である。山水の美である。水晶と宝石の美である。即ち人間以下の物の美である。然るにここに人間と云ふ霊的存在者が顕はれた時に美以上の美が顕はれたのである。之を称して義と云ふ。義は霊魂の美である。物の美とは全く性質を異にしたる美である。そして霊が物以上であるが如くに義は美以上である。(中略)人間に在りては其美は内に在りて外にない。人の衷(うち)なる美、それが義である。茲に於てか義は美よりも遥かに大なる美である事が解る。
「花と鳥との美」ということでは、江戸時代の画家、伊藤若冲(じゃくちゅう)の花鳥画が挙げられるだろう。そういえば、近来の異様ともいうべき若冲の人気は、やはり平成になってからであった。
内村が、美よりも義を強調するのは、もちろん義を重視する考えに基づいているが、背景としては、この「美と義」という文章が、大正十二年の八月十九日のものであることと関係していると思われる。大正という美の時代に批判的だったからである。江戸時代という美の時代を変革した義の明治時代を生きて来た内村鑑三には、大正時代は美に耽溺し義を軽んじる時代と見えた。だから、内村は、「義の道即ち道徳を語るは偽善者の為す事であるかの如くに思ひ、自分は宗教家でないから事の善悪を差別しないと云ふが如き、是れ人間が自分を人間以下の地位に置いて云ふ事である。文士の取り扱ふ問題は芸術と恋愛に限られ、道徳と宗教とは措いて之を顧ざるが現代的であると思ふは、現代を以て人間の時代と見做さゞる最も誤りたる思想でる」とか、「日本今日の思想家は之を問題の外に追出して、たゞ芸術と恋愛とのみを語つて居る。実に恐るべき事である」と批判したのである。
平成は、第二の大正とも言える時代であり、この内村の批判が当てはまる時代であった。「たゞ芸術と恋愛とのみを語つて居る」時代だったと言えるのではないか。だから、令和は、義の時代とならねばならないのだ。日本の希望は、「其民の内に強く義を愛する者」が陸続として出現することにある。
最後に内村は、美の人間が義に対して抱きがちな誤解を避けるために「義は美以上である。然し義は決して美を退けない。義は美と両立しないやうに思ふは大なる間違である。真個の美は義の在る所に於てのみ栄える。世界一流の芸術家は、極めて少数の者を除くの外は、凡て義を愛する人であつた」と語っている。そして、何人かの名前を連ねているが、やはりベートーヴェンとレンブラントが挙げられているのは印象的である。この二人は、「真個の美は義の在る所に於てのみ栄える」ことを示す代表的な芸術家だからである。