9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年1月号

物語水戸学(一) ― 光圀公の自覚と実践 ―

 梶山孝夫  /水戸史学会理事 博士(文学)


水戸学とは何か

水戸学とは、水戸に興った学問のことです。水戸とは、江戸時代の御三家の一つである水戸藩のことです。これから水戸学についてお話します。皆さんとご一緒に、水戸学を考えてみましょう。

水戸学といわれる学問は、水戸藩の第二代藩主である徳川光圀(みつくに)公によって創められました。光圀公はいわゆる水戸黄門として知られる人物です。ですから、光圀公の生涯と学問を明らかにするところからお話しなければなりません。

光圀公は、戦国時代が静まって江戸時代のやや早い頃に生まれました。父は初代藩主の頼房(よりふさ)公ですが、小さい頃に兄を超えて跡継ぎと定められました。その後、不謹慎な振舞もあったようですが、十八歳の時『史記』という司馬遷(しばせん)が書いた歴史書を読み、自らの振舞を正しました。それとともに反省の機会を与えてくれた歴史書に感謝しつつ、歴史に学ぶことの大切さを自覚したのです。とりわけ、我が国日本は建国以来皇室を中心として今日まで歩んできたことに注目しました。そして、我が国の歴史書を編纂しようと決意したのです。こうしてできたのが、『大日本史』という歴史書です。

この『大日本史』の編纂を通して培われたのが水戸学ですが、歴史学からみる時は水戸史学といいます。歴史書の編纂は光圀公一代では完成しませんでした。しかし、光圀公の精神を受け継いだ代々の藩主は、連綿として編纂事業を継続し、水戸藩解体後の明治期に至って完成にこぎ着けました。したがって、編纂の進展とともに水戸学も深化して弘まり、暗闇を照らす灯火のように混乱した世の中を導くことになるのです。

以上がおおよその流れですが、以下もう少し詳しくお話することとしましょう。


光圀公の自覚

光圀公の自覚は十八歳の時ですが、そのきっかけとなった『史記』はどのような歴史書なのでしょうか。『史記』はおもに人物の伝記によって構成されていますが(一般に紀伝体といいます)、光圀公はその中の伯夷(はくい)伝に大きな感銘を受けたのです。伯夷伝には、伯夷と叔斉(しゅくせい)という兄弟がお互いに家長の地位を譲り合う話がつづられていました。実は光圀公も、兄を超えて父の後を継いだのです。このことを光圀公は終生わすれず、藩主となる時には兄の子を養子として迎え、ついに藩主の地位を兄の血筋に譲ることができたのです。六十三歳の時ですが、これが伯夷伝に感銘した第一です。

第二は、学問の志を立てたことです。『史記』を読んで伯夷と叔斉の話を知ることができたのは偶然だったかもしれませんが、それは人の生き方を決める学問の大切さを実感するのに十分でした。それ以前にも我が国の古典への関心があったようですけれども、これ以後は一層国文や和歌に勤(いそ)しむようになり、後年、日本の優れた文章を集めた『扶桑拾葉集(ふそうしゅうようしゅう)』という和文集を編纂したり、『万葉集』の研究にとりかかることになります。こうして光圀公は、藩主としても求道の精神を追究していきます。

第三には、歴史書の編纂を計画したことです。光圀公は『史記』によって自らの境遇を自覚し学問の志を立てたわけですが、それは『史記』のような歴史書を作り後の世に役立てようとの決意となります。それが「本朝(日本)の史記」、すなわち『大日本史』編纂の志です。

このように『史記』の伯夷伝は光圀公に大きな自覚と志をもたらしたのです。


『大日本史』の基本構想

光圀公の偉大さは、自らの自覚に実践がともなっていたことにあります。その実践の最も大きなものが、『大日本史』の編纂です。この実践は藩主になる前から始まっています。いったい歴史書の編纂には何が必要でしょうか。まず文章を書く歴史家、そしてその根拠となる史料が必要です。さらに歴史をどのように書くか、取り上げる人物の選択と分類なども考えねばなりません。

光圀公は基本的な構想を『史記』に求めましたが、我が国の歴史性もふまえて独自に構想することも忘れてはおりません。『大日本史』は紀伝体という構成を採用しています。紀伝体は天子(天皇)を中心とした「本紀」、皇族や諸臣などの伝記を記した「列伝」、部門別(経済・地理・天文など)の歴史を記した「志」、年表や役職の一覧表などをまとめた「表」という四つの部分で構成されています。したがって、一般に古い時代から新しい時代へと書き記される歴史書(編年体)とは異なります。光圀公が感銘を受けた伯夷伝は、列伝の部分に含まれています。

さて、歴史書を作るためには歴史家が史料によって文章を書くことから始まります。当初、光圀公は藩内から人材を求めて、彰考館という編纂所を創設しました。彰考館には、総裁というまとめ役がおかれました。そうして光圀公の指示によって本紀から編纂が進められました。やがて初代天皇から百代までの本紀が完成しますが、光圀公の意に満たず書き直されることになります。一方、藩外などからも人材を集め、また全国に史料を求めて史臣を派遣しました。

史臣というのは、光圀公に仕えて『大日本史』をはじめとして他の書物や文集などの編纂に当った人々のことです。この人々は歴史家です。それらの史臣については、後にふれることにします。ここではもう少し『大日本史』についてお話を続けましょう。


三大特筆

光圀公が歴史書の編纂を志した時、すでに幕府は独自の歴史書の編纂を始めていました。それが林家の『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』です。林家とは編纂の方針が異なっていましたが、光圀公は林家を訪ねたり、史臣を遣わしたりして参考としました。『本朝通鑑』は親子二代で完成しましたが、『大日本史』はこれと大きな違いがありました。そのいくつかを述べてみましょう。まず三大特筆といわれるものですが、これは第一に神功皇后(じんぐうこうごう)、第二に大友皇子、第三に南朝をどのように記述するかという問題です。

神功皇后については、当時、神功皇后のご即位を認める意見がありましたが、本紀とは別に皇后伝を立てて、そこに皇后としての伝記を収めました。神功皇后は古代の外交で活躍した方で仲哀(ちゅうあい)天皇の后(きさき)です。大友皇子については、ご即位を認めてその記載を「天皇大友」としました。南朝の問題については南朝を正統としました。これらは水戸史学の大きな決断であり、ここにいたるまでには、史臣の議論を経て、最終的には光圀公の意思によったのでした。

三大特筆の中でもとりわけ重大な問題は、南朝正統を決断したことでした。それは、光圀公の時代に直結する問題であったからです。皆さんは、一般に南北朝時代があったことはご存知でしょう。南北朝時代は、足利氏による室町幕府によってできた京都の朝廷を北朝と呼ぶのです。南朝は、建武中興を引き継いだ吉野の朝廷のことです。やがて南朝と北朝は合体し、その後は京都の朝廷が連綿と続いて江戸時代に至るわけです。したがって、光圀公の時代の朝廷が北朝につながるのは事実です。ですから、『本朝通鑑』では北朝を正統としたのです。それは南朝に叛逆して京都に朝廷を分立した足利氏の行為を認めることになります。

そこで、光圀公は各地に史臣を派遣して丹念に史料を探索しました。そうして足利氏が後醍醐(ごだいご)天皇を吉野に追い詰め、崩御の後を弔う寺院建立やお祭りのすべてが私利私欲のための行動だったことを明らかにしました。そして後醍醐天皇の南朝こそが正統であることを明らかにして、建武中興の理想を確認したのです。


『大日本史』記述の特色

その他にも『大日本史』には、『本朝通鑑』とは異なる特色があります。たとえば出典註記です。これは一つ一つの史実にその根拠を記したことをいいますが、『大日本史』が初めて採用した記述方法です。今日では当たり前のことかもしれませんが、水戸史学の大きな 功績といえるでしょう。

さらに、史料を探索したのみでなく、その史料を吟味したのです。史料は本物であり、正しいものであるかどうかの見極めが必要ですが、特に署名が重要です。そこで、花押(かおう)や書法など古文書の研究や考古学などの基礎的な学問も重視しました。水戸史学が、科学的な方法による歴史学といわれるのはそのためです。