9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年2月号

市村真一博士『師恩友益』を拝読して

 吉田和男  /京都大学名誉教授


この『師恩友益』(藤原書店刊)は、市村真一先生の海外での恩師と交遊のあった十名のノーベル賞受賞経済学者、および日本人の恩師や交流のあった経済学者等についての恩師益友を書かれたものです。


第一章 海外の恩師、学者たち

第一章では、海外の恩師、経済学者を書かれています。本章の一番先に書かれているのは意外にも直接の恩師であるサミュエルソン教授でなく、その先生であるハンセン教授です。ハンセン教授は、ケインズ経済学を現実の経済に則して理論的に発展させ、アメリカ経済学界に導入されました。理論経済学者だけでなく、政府等の経済顧問をされて、実際のアメリカの経済政策に直接関与されました。市村先生はハンセン教授を「真の意味で経済学者」であると評され、先生の学問に対する姿勢のモデルであったと思えます。

博士号を取得されたマサチューセッツ工科大学での指導教官であったサミュエルソン教授は、戦後経済学の基礎を作られた大経済学者です。研究範囲は広範囲に及び、伝統的な古典派経済学とケインズ経済学を統合した「新古典派総合」という新しい経済学を形成し、戦後の主流派の経済学となります。サミュエルソンの経済学は学問の世界だけでなく、実際の経済運営もほとんどがこの流れにある政治家や官僚が行っています。世界中の経済学の勉強を始めようとする大学生の全てが必ず最初に読む『経済学』を一九四八年に三十三歳という若さで書かれ、世界中の経済学の研究者を志す大学院生の必読書である『経済分析の基礎』を一九四七年に書かれています。

もちろん、私も最初に『経済学』を読み、大学三年生の時に『経済分析の基礎』を十回以上、読みました。大学時代のノート類のほとんどは『経済分析の基礎』の数学的展開をフォローしたものばかりです。私の経済学研究の「基礎」にもなっています。

市村先生がサミュエルソン教授の脂の乗り始めた時期に、MITに留学されてサミュエルソン教授(当時三十五歳)の指導で博士号を取得されました。正統派中の正統派ともいうべきサミュエルソン教授の下で先生が勉強されたことは、他の経済学者にとっても羨望(せんぼう)の的であったと思います。博士論文をサミュエルソン教授、ソロー助教授(当時)、シュルツ助教授(後の米国国務長官)という二人のノーベル賞学者と国務長官に審査されるのは「大抵のアメリカ人がびっくりする」と書かれていますが、実際すごいことです。

博士論文は非線形微分方程式による景気変動論でした。不思議なことに、私は市村先生から非線形数学を教わりませんでしたが、京都大工学部数理工学科で応用数学を勉強していましたので、カタストロフィー理論やジェティクスなどの非線形数学を使った社会・経済問題の分析が私のライフワークになっています。これで京都大学から工学博士号と経済学博士号を授与されています。先生の目に見えないお導きがあったように思っています。サミュエルソン教授は日本びいきの方で長く交流されたとのことで、多くの経済学者にとっては羨望の的でしょう。

ソロー教授の経済成長に関するソローモデルは、労働人口増加率、資本蓄積、技術革新を組み込んだ経済成長理論で、経済学部生が必ず勉強するものです。ソロー教授は、市村先生と年齢も近く特に親しくされているようでした。私がハーバード大学の客員研究員で行った時、市村先生からソロー教授への紹介状を戴いて、お目にかかり、有意義なサジェションと数名の教授を紹介していただきました。

市村先生を、世界の経済学者に導かれたのはヒックス教授です。先生が留学直後、ヒックス教授の理論を展開した論文を教授に送られたところ、ヒックス教授はそれを一流の世界的なジャーナルに賛辞を付けて掲載され、「世界の市村」の出発点となっています。大学院生が経済学を勉強するというのは、ヒックス教授の『価値と資本』を読むことと同義であるとされる名著です。私も学部生の時、市村先生に『価値と資本』を何回読んだかを聞かれ、ゼミのテキストでもあったので「二回読みました」と答えたところ、「私は二十五回読んだ」と、暗にもっと読めと言われました。

ヒックス教授の示されたISLM曲線は、ケインズ経済学のエッセンスを含みながら経済を、需要側から見た実物市場と貨幣市場を同時に成立させる国民所得が決まるという議論を、見事に集約されたものです。これも経済学部生なら必ず勉強するものです。これを マスターすれば財政金融政策の在り方について理解でき、一端の経済政策の議論もできます。一方、先に述べたソローモデルは、成長経済を供給側から見たものであり、この二つが経済学部生の学ぶもっとも基本的なものですが、最近ではソロー・モデルの方が重要視されているようです。先生はこれを契機に、ヒックス教授と深いお付き合いをしておられます。

また、国民所得を計算する方式を考案されたクズネッツ教授は、特別権威のある数量経済史の講義をされて、学生だけでなく市村先生を含め教授の方々も聴講されていたようです。クズネッツ教授は、多くの研究者が厳密な理論を立て、データを使って実証研究をしているのに対して、「資料を丹念に整理し緩やかな仮説をおいて解釈する」ことが「事実をより正しく理解できる」と話されていたことを紹介しておられ、皮相な理論家や計量経済学者の反省になると言われており、先生の研究にも影響を与えたようです。

市村真一先生は、業績の一つである、「阪大社研モデル」というマクロ計量モデルの構築をされています。先駆的な研究であり、以降のマクロ計量モデルのひな形になっています。この関係でマクロ計量モデルの創始者であるクライン教授との家族ぐるみでのお付き合いを紹介されています。計量経済学の研究を通じてフリッシュ教授や、ティンバーゲン教授との交流が生まれています。

サミュエルソンの新古典派総合は、七〇年代のスタグフレーションを説明できず、サージェントやノーベル賞受賞のルーカスといったマクロモデル・経済政策に否定的な合理的期待形成論の学者に、アメリカの経済学界は取って代わられます。

これに対して市村先生は、「では代替案があるのか」と批判しておられます。ルーカス、サージェントの議論は、あまりにも凝った数理分析で人を煙に巻くような議論ですが、ノーベル賞受賞のフェルプス教授のアイランド・ストーリーは同じ自然失業率仮説を説明するのに、誰もが納得できる議論のように私は思います。反論するようですが、代替案として出てきたのがレーガノミクスでした。アメリカ経済は、規制緩和により大きく姿を変えました。これは新古典派総合の経済学からは生まれようがありませんでした。

また、私は大蔵省で「MOFモデル」というマクロ計量モデルを作りました。多くのケインジアンの計量モデルで、十分考慮されていない金融部門、供給制約、消費の政府収支との代替関係などを盛り込んで、短期的にはケインズ派的な効果があるが、すぐに消滅するという古典派の主張する結論を導くものを作りました。しかし、外部への公表を禁じられて無駄に終わりました。理由は上司が理解できなかったためです。役所というのはその様なところです。出版しなかったのを後悔しています。私の「MOFモデル」と自然失業率の計量分析を先生に見てもらっていないのは大失敗でした。

市村先生の業績の一つである日本の産業連関表の作成は画期的なものでした。この理論はレオンチェフ教授の発案によるものです。タイガー計算機を使って大変な計算をされたとの話を聞いていました。レオンチェフ教授からは逐次、激励の手紙をもらわれたとのことです。これによる研究成果を英語論文の「日本経済の構造」にまとめられ、アメリカの一流学術雑誌に掲載されました。戦後では、日本人学者として最初のものでした。日本語版では『日本経済の構造』として出版されておられます。

また、市村先生は、ソ連にも産業連関分析の講義に行かれ、ソ連でも経済学部では普通の経済学を教えておられる。マルクス経済学は教養部の授業だと話されて、当時、マルクス経済学ばかりの経済学部で、近代経済学を勉強していた私は勇気づけられました。

また、私も学生時には産業連関分析の動学化によるフロベニウスの定理やターンパイク定理などを面白い議論だと良く勉強しました。さらに、先生はレオンチェフ教授のノーベル賞受賞講演のコメンテイターをされています。

計量経済分析の研究を通じて、ティンバーゲン教授と出会われました。国際学会での「低開発国の発展のための政策」の議論などで、教授の開発経済学への情熱を感じられたと言われています。また、真剣な民主社会主義者であるティンバーゲン教授と知遇を得たことは、幸せなことであったとされています。先生が理論・計量の研究者からアジア研究に移られたことの要因の一つであったように思います。

市村先生は理論・計量分析でのトップランナーの一人になられて、世界で最も権威のある経済学会であるエコノメトリック・ソサイアティのフェローになられ、アジア代表の理事になられました。この理事会でのフリッシュ教授の姿勢に感銘を受けられて、後に東南アジア研究所の所長になられたときにも、非常に役に立ったと言われています。第一回ノーベル経済学賞を共同受賞されたフリッシュ教授とティンバーゲン教授については、先生は研究業績だけでなく、交流を通じて人格的な立派さを、高く評価されています。

最後に李登輝中華民国総統を上げられています。市村先生は昭和四十六年に、台湾大学での農業経済の李登輝教授に知り合われ、四十六年間の交流があります。先生は李教授の学者及び政治家としての高い能力だけでなく、人格者として敬意をもっておられます。また、李登輝総統は、儒教より日本の武士道を高く評価されています。今日、台湾は購買力平価による一人当たりGDPが、世界十四位の立派な先進地域になっています(ちなみに日本は三十八位)。この様な経済成長を遂げたのには、李登輝総統の大きな貢献があったものと思います。

私は市村先生の弟子であるだけで十分に誇らしく思っていましたが、多数のノーベル賞学者の孫弟子であることに気が付き、さらに誇らしく思った次第です。


第二章 日本の恩師たち

第二章では、日本の恩師として、高田保馬先生、青山秀夫先生、平泉澄先生を挙げておられます。

京都大学経済学部の看板教授であられた高田保馬博士の門を叩かれたことから、市村真一先生の経済学の勉強が始まります。博士の難解な『経済学原理』を軸に、経済学の勉強を出発されておられます。高田保馬博士は、社会学の研究で世界水準の研究をされており、『社会学概論』を出版しておられます。英語での出版をしようとされたが、ご存命中に完成できず、市村先生が残された遺稿を整理して出版されています。

ブロンヘンブレンナー教授が、経済学者としての高田保馬博士を日本のマーシャル(経済学史上、最も尊敬されているイギリスの経済学者)と評されたことを紹介されています。

また、経済学、社会学以外にも、マルクス経済学批判、民族論、世界社会論、ないし平和論、「貧者必勝論」について、独自の学問業績を紹介されています。高田博士は、京都大学を辞任され、大阪大学に移られて経済学部・社会経済研究所を創設されました。数量経済研究所にするという案もありましたが、博士のたっての希望で「社会」を残されたと言われています。先生は留学後、大阪大学に赴任され、御一緒に研究を進められておられます。

また、市村先生がマルクス主義による論壇や教育への弊害を憂えられて、高田保馬博士、高坂正顕博士、久保田収博士に顧問になっていただき、「新教育懇話会」を設立され、論壇・教育の是正の運動を始められました。大きな成果を残されて、先生が京都大学を退官されるときに解散されました。

それの後継団体として、市村真一先生、高坂正堯博士、岡本道雄京都大学総長、熊谷信昭大阪大学総長に顧問になっていただき、私が代表幹事で「二十一世紀日本フォーラム」を設立して、先生の志を継ぎました。私も引退しましたので、現在は遊喜一洋京都大学准教授に継いでもらっています。

市村先生は、大学二年生から青山秀夫教授のゼミに参加されました。青山秀夫博士は『経済変動理論の研究』でケインズ以前の経済学を全て網羅されており、新しい理論にも積極的に取り組んでおられました。青山博士の素晴らしいところは、経済学研究だけでなく、教育で多くの経済学者を育てることに遺憾なく力を発揮されたことです。

例えば、学生であった市村先生と、大阪商科大学卒業で簿記に明るい鎌倉昇博士に、国民所得勘定の研究を提案され、お二人で議論をたたかわせ、処女作となった『国民所得と資源』の出版になっています。先生は「研究者集団にもクリティカルマス」が必要と言っておられますが、青山秀夫門下生は「マス」になっています。青山ゼミ生を中心に「近代経済理論研究会」を作られ、森嶋通夫博士がリーダーとなり、市村先生をはじめ、鎌倉昇博士、建元正弘博士、馬場正雄博士、杉浦一平博士など多数の優れた経済学者が生まれ、日本の経済学界の中核となりました。高田博士の『第二経済学概論』やヒックスの『価値と資本』の読書会から始められて、謄写版刷りの雑誌を発行されるなど、本格的な経済学研究に至っておられます。私は学生の時に、この研究会での謄写版刷りの論文を、見せてもらったことがありますが、当時の学界の先端を行く論文でした。

平泉澄博士は国史学が専門の東京帝国大学教授で、戦後は白山神社の宮司でした。市村先生が大阪外国語専門学校の学生の時に平泉博士の著書を読み、感銘を受けられました。お会いになったのは留学からの帰国後です。平泉博士からのお言葉を、「御教示の数々は、到底筆舌に尽くせない」と書かれています。本書の他の経済学者とは異質な感じを持たれると思われるでしょうが、本誌『日本』の中で連載された文章で、「なぜ、経済学者が平泉澄先生の弟子なのか」という質問に対して、「平泉澄先生の教えを受けて、敗戦になった日本を立て直すために経済学の勉強を始めた」と書かれています。

先生は、平泉博士を「和漢の典籍は勿論、英独仏語の文献を縦横に読みこなされていて、学和漢洋に通じる碩学とは先生のような学者」と評されています。市村先生は、平泉博士の論文をまとめられて『先哲を仰ぐ』を出版されました。平泉博士の日本および日本人の在り方への情熱を感じさせるものです。私も市村先生からいただき、拝読しました。

私は学生時代には多くの学生と同じ様に、西洋哲学に関心を持ち、特に、科学哲学を中心に勉強していました。学部四年生の時、『荘子』を読み、以降、中国哲学も勉強しました。市村先生のご指導でバートランド・ラッセルの『西洋哲学史』も読み、西洋哲学の勉強もしてきました。京都大学での二年生ゼミでは西洋哲学を学生と一緒に勉強しました。平成六年には先生のお誘いで、モンペルラン協会の総会にも出席しました。私はそこでの議論でソ連崩壊でイデオロギー対立が終わり、ヨーロッパ精神復活であることを聞きました。そしてこれではいけない、日本は世界に乗り遅れるという危機感から、京大や東大などの哲学や政治思想の先生を集めて「日本精神研究会」を作りました。

これは長続きしませんでしたが、今の日本精神復活に役立つ思想として陽明学が重要と思い、私塾を作って社会人と勉強会を始め、十五年間続けました。これらも『先哲を仰ぐ』から始まっています。


第三章 日本の学者たち

第三章では、日本の学者たちとして、多数のご友人達の学問上での交流を挙げておられます。最初に取り上げられたのは馬場正雄博士と建元正弘博士が亡くなられたときの弔辞であり、長年の交流や業績を紹介されています。

次は森嶋通夫博士です。森嶋博士はノーベル賞候補に上げられ、私も京都新聞からノーベル賞週間にはコメントする様に禁足させられていました。残念ながら受賞には至りませんでした。多数の研究業績を残されており、エコノミック・ソサイアティの会長もされています。ただ、緻密な数理経済学の書籍・論文を書かれる一方で、非常に自由奔放な随筆集も書いておられます。市村先生は青山秀夫ゼミ以来、大阪大学社会経済研究所での同僚として、長いお付き合いをされています。高田保馬博士の『世界社会論』に触発され『東亜民族論』でアジア共同体提言を行っておられます。ただ、森嶋博士の我の強さと暴言に、市村先生は閉口されていたようです。先生と森嶋博士の確執は、私が学生の時から聞いていました。ほぼ同時期に、先生は京都大学へ、森嶋博士はイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスへ移られています。

ついで、「阪大社研モデル」での共同研究者の齋藤光男教授への弔辞を書かれています。また、猪木正道博士については、市村先生に東南アジア研究所所長への移籍を説得され、猪木博士とも意気投合して、以前から考えられていた理論・計量の世界からアジア経済の研究に移ることを決断をされたとのことです。また、奥田東・岡本道雄の京都大学両総長とも深い協力関係を持たれています。

岡本道雄総長は臨時教育審議会の会長をされ、日本の教育の方針を定められましたが、問題点があったのではないかと教育問題の研究会をするように岡本先生から市村先生に依頼され、私もお手伝いをして各界の代表者にも参加してもらい、教育問題の研究会を行いました。ただ、これも文部科学省の政策には生かされていません。また、全共闘運動が盛んな時に、彼らが京大三悪人として、猪木正道・高坂正堯・市村真一を挙げていたのを「光栄」なことと笑い飛ばしておられます。

ただ、私は、あれだけの業績を上げられた理論・計量の研究から、アジア研究に移られた真意を本書から読み取ることができませんでしたので、いつかの機会にお尋ねしたいと思っています。大阪外国語学校でインドネシア語を勉強されたので、以前からアジアに対する思いがあったのではないかと推察しています。令和四年に、市村先生が出版された『日本とアジア』は理論・計量の分析ではなく、先に述べたクズネッツ教授の研究方法をとられたものと拝察しています。

文化勲章受章の祝辞として書かれている篠原三代平博士は一橋大学教授であり、アジア経済研究所会長であられた。市村先生は、篠原博士が戦後経済における重要産業の重要性を研究されるなど、「問題設定の適切さ」と統計資料を丹念に見て「注意深い観察分析」をされたと、高く評価されています。そして、アジア研究にも目を向けられ、「東アジア経済学会の創設に御助力いただいた」と感謝しておられます。

叙勲の祝辞として書かれている能勢哲也博士は、神戸大学から「近代経済理論研究会」に参加しておられた方で、神戸大学で財政学教授であられました。勲二等瑞宝章受章の祝辞とともに、博士が神戸商科大学学長から、市村先生が副学長をされていた大阪国際大学にきていただいたことの謝辞を述べられています。


第四章 日本の友人たち

第四章では日本の友人たちとして、阿南惟幾陸相と近藤傳八参謀、石田登寿夫氏、鎌倉昇教授、三島由紀夫氏、工藤友恵さん、末次一郎氏、安場保吉教授、田中卓教授、木村汎教授をあげられています。

阿南陸相は、ポツダム宣言受諾の御前会議で本土決戦で臨まれたが、昭和天皇のご聖断によりポツダム宣言受諾が決まると、全軍整然と帰国させることに尽力され、古武士の様に切腹で責任を取られました。

近藤参謀は阿南大将がサイゴンから東京へ帰還する際におとりの航空機に乗り、撃墜され名誉の戦死を遂げられました。お二人の軍人としての潔さに感服して書かれています。

石田登寿夫氏は、大阪外国語学校の同級生で、市村先生の親友であられたが、戦死されました。懐かしい交友について書かれています。鎌倉昇教授は、私が最後のゼミ生です。本書では鎌倉博士への弔辞で、多才な業績と共にモットーである「理論と現実の架け橋」を紹介され、青山ゼミ以来の友情を語られています。

三島由紀夫氏については、一度お会いしてから、三島氏の『英霊の聲』を読まれました。二・二六事件で死刑になった青年将校や特攻隊の英霊が、天皇陛下の「人間宣言」に対して「などてすめろぎは人間になりたまいし」との恨みをもったと三島氏の心を読まれ、切腹されたとみられています。

しかし、三島氏は、日本にとって重要な人なので長く日本のために働いてほしかったし、詔書には「人間宣言」の言葉がなく、占領軍への陛下の反論であったと書いておられる。この短い文章の中に市村先生の深いお考えが示されており、この部分だけでも十分に価値の高い書籍だと思います。

工藤友恵さんは、関西経済連合会の常任理事であられた。大変な教養人であり、「工藤さんに匹敵する京大教授が何人いるか」と絶賛し、学問好き、リベラリスト、自然を愛する人、ヒューマニスト、正義漢と評され、亡くなられたことを嘆かれています。

末次一郎氏は、安全保障問題研究会を主宰され、歴代首相のアドバイザーであって、健全な青少年の育成、沖縄返還運動、小野田少尉の救出活動、北方四島返還に尽力された方です。先生は、反日教組運動の関係で出会われ、お互いに協力をされました。末次氏の活動を高く評価されています。

安場保吉教授は、大阪大学・京都大学で市村先生と共に研究活動をされ、病気のため亡くなられました。先生の丁寧な心のこもった弔辞です。私は経済企画庁での経済計画策定のための四名の経済学者のワーキンググループでお目にかかっています。成長軌道への回復と財政再建について討議しましたが、安場保吉教授は、生粋のケインジアンで最後まで財政再建論には反対でした。

田中卓博士は、皇學館大学の国史学の教授です。大阪外国語学校時代からの長年のご友人であり、平泉澄先生の下で日本のためにマルキスト及び日教組と戦ってこられました。特に、「建国記念日」の制定に貢献されたことを称えておられます。

木村汎博士は、北海道大学のスラブ・ユーラシア研究センターの教授で、ロシア研究の第一人者でした。

このように、第四章は、日本のために共に闘ってこられた友人への弔辞・追悼文が多く、市村先生の無念なお気持ちとご友人への感謝で溢れています。

市村真一先生は、一貫してマルクス主義者と戦い、教育の正常化のために日教組と戦ってこられました。そして、一人でも多くの、日本を真剣に考える若者を作ることに努力してこられました。今日、ソ連が崩壊して、七十年かけてマルクス経済学が間違っていることが、実際の世界を使って実験をした結果、明らかになりました。この現実を見て、これまで日本に害毒を流してきたマルクスの信奉者には、反省してもらいたいものです。市村先生は、正統な学問を発展させることが大学人の使命と考えられて、世界に通じる「市村経済学」を作ってこられました。私も先生の志を継いで努力してきました。

しかし、まだまだ油断はできません。ソ連の崩壊によって共産主義が消滅したことは世界にとって幸せなことでしたが、世界は新たな混乱の時代になっています。我々日本人がやるべきことは山の様にあります。これに対し、日本社会から真剣に日本、世界のことを考えようという気風が薄くなってきたように感じています。また、ゲームやスマホなどで、ドーパミンなど、脳内麻薬を生み出す技術革新が進んでおり、本人は脳内麻薬で快楽を得ていますが、社会を真剣に考える能力を低下させているように思います。

私は大学を卒業するときに、市村先生から留学の推薦をしていただけるという有難いお話をいただきました。しかし、現実の日本のために経済学を活かしたいと考え、大蔵省に入省しましたが、結局、京都大学に戻りました。このため、私は外国の論文から経済学を考えるのではなく、現実の問題から考える経済学研究を行うことになりました。先生のご指導に沿っておれば先生の何分の一かもしれませんが、アメリカの優れた先生に巡り合えるチャンスがあったのではないかと思うと少し残念な気もします。

市村先生から学生の私に「大学では良い先生に巡り会えること、いい友人を作ること」とご指導を受けました。京都大学経済学部ではマルクス経済学ばかりの授業で出席する意味がないので、ゼミの先生、市村先生と共に他学部の五名の日本でもトップクラスの先生に直接、ご指導を受けました。卒業後、大蔵省で、良き先輩に恵まれ、大阪大学、京都大学に移籍後も、経済学者以外にも多数の優れた大学人や経済人とご交誼をいただき、また、多数の優れた友人ができ、先生の言い付けを守り恩師益友を得ました。

本書で市村真一先生が実践してこられた経済学研究等を通じての幅広い立派な先生方とのご交誼をご披露いただき、あらためて先生の偉大さを感じているところです。本文では私事も多く交えましたが、市村真一先生の学問の形成過程とお考えを知るための重要な書籍と思い書かせていただきました。多くの方々が、本書を読まれることをお勧めします。