9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年3月号

忘れられない私の旅(四)

 吉田一夫  /映画監督


言葉と沈黙と

映像作りをしている時、私の場合、「言葉で語ることが難しい」と思われる取材対象の人に出会うことがある。今回は映画やテレビなどの映像表現がもつ限界と可能性について、考えてみたいと思う。

映像とは「光と影」に、「音声」を重ねたものに過ぎない。従ってその映像を使って人の心の奥底に潜む深い思いとか純愛と言った源泉の感情を伝えようとすると、熟達の技が必要となる。僅か十七文字で造化の妙を語り尽す俳句のように。旅番組の場合、現地で出会った人から受けた深い感銘を、僅かな放送時間内で伝えなければならない。その点からみれば長編劇映画の方がはるかに相応(ふさわ)しいし、そういう名画は綺羅(きら)、星の如くにある。例えば『エデンの東』とか『ひまわり』を観ると、私は今でも感動の涙が流れるのだが、その時に気付くことは、クライマックスでみせるジェームズ・ディーンやソフィア・ローレンの長い沈黙の演技の中に感動が秘められていることである。日本映画における高倉健さんの演技も独特である。私は助監督時代、たびたび彼の演技をすぐそばで見てきた。その時、目撃したのは、短い台詞を言う前の長い沈黙である。健さんはそれに耐えるため奥歯をギリギリと嚙み締めていた。

私がこうした演技論を持ち出したのは、言葉では語り得ないものがあることを伝えたかったからである。今回は言葉と沈黙に気づかされた旅を振り返りたい。


詩画作家 星野富弘さんへの旅

二番目に言いたいことしか 人には言えない/ 一番言いたいことが言えないもどかしさから 絵を描くかもしれない/ うたをうたうかもしれない/ それが言えるような気がして 人が恋しいのかもしれない


ムラサキツユクサの花の絵に添えてこの詩を書いたのは群馬県在住の星野富弘さんである。中学教師だった星野さんは体育の授業中に不慮の事故に遭い首の骨を折った。そのため首から下が全く動かなくなり、九年間に及ぶ入院生活の中で何度も死の危機に襲われた。しかし、絶望を乗り越え、遂に口に筆を咥(くわ)えて花の絵を描き、その傍らに詩を添えるという独自の形式を作り上げた。


いつだったか きみたちが空をとんでいくのを見たよ/ 風に吹かれて ただ一つのものを持って旅する姿が 嬉しくてならなかったよ/ 人間だって どうしても必要なものはただ一つ/ わたしも 余分なものを捨てれば/ 空を飛べるような気がしたよ 


この詩はタンポポの種子が綿毛とともに大空へ飛んで行く光景の画に添えられている。

「ただ一つのもの」とは何だろう?

体の動かない星野さんに「空を飛ぶ夢」を見させたものを知りたいと思い、私は取材を申し込んだ。そして遂に富弘美術館が開館したのを機に取材に応じて頂けることになった。私は群馬県の山奥にある東あずま村に向った。平成十七年、初夏のことである。

夕立が降りしきる中、私は星野さんを乗せた車が到着するのを待っていた。やがて奥様の運転するワゴン車が到着。ハッチバックのドアが開き、電動車椅子の上で微動さえしない星野さんが近づいてきた。私は聖者に拝謁するかのような厳粛な気持ちになった。


傷みを感じるのは 生きているから/ 悩みがあるのは生きているから/ 傷つくのは生きているから/ 私は今 かなり 生きているぞ 


私は星野さんに美術館の中を案内して頂き詩画作品を見るという幸運に恵まれた。

 

天気予報が雪を告げる日/ それでもオレンジ色の蕾つぼみを用意して 咲いているひと枝のバラ/ 生きるって こういうことなのか


星野さんは呼吸するための筋肉が動かせないので喘(あえ)ぐように話されるのだが、その口からは何度も「希望」という言葉が出た。

「わたしは、こんな怪我をするのだったら、生まれてこなかった方が良かったって、出来たら死にたいって。でも、草花に出会い、いろんな人と出会い、温かさを感じたとき、それまで全然気づかなかった世界が、希望のようなものが、開けてきたように思います。私のようなものにとっては、春が来たり、空が晴れたりするだけで、大きな希望なんです」

「口を使って描こうという決心を後押ししたものは何だったのですか?」

「怪我をして三年目のある夜明け。寝たきりのベッドのそばに置かれたユリが、ブラインドの透き間から差してきた朝の光を受け、花を開かせるのを見ました。その時、私はこんな体になっても、自分とは全く違うところで自分を生かしてくれている力があることに気づき、希望が生まれました」


動ける人が 動かないでいるには 忍耐が必要だ/ 私のように動けない者が 動かないでいることに 忍耐など必要だろうか/ そう気づいたとき 私の体を縛っていた『忍耐』という棘とげの生えた縄が/ “フッ”と解けた気がした


星野さんと話している時、一人の男性が親しそうに近づいて来て、星野さんにランの鉢植えをプレゼントした。それは見たこともないほど深い青色をした網目模様の花をつけていた。星野さんは長い沈黙とともに花に見入り、やがて目を上げ、私にこう言った。

「きれいな花を見ると、皆さん、『まるで絵のようにきれい』って言うんですよ。ところが、花の絵を見たら『まるで本物の花のようにきれい』って。美とは絵や言葉では言い表せないものかもしれません」

私は成程と思いつつ、「語り得ないもの」や「沈黙の間合い」のことを考えていた。やがて星野さんは意外なことを言った。

「絵も詩も、少し欠けていた方が良いようです。欠けたもの同士が寄り添うことで、美しさに近づける気がします」


よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近い気がする/ 強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近い気がする/ しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まった方が 愛に近い気がする瞬(またた)く間に約束の時間が過ぎた。最後に私は、あからさまな質問をした。


「タンポポの綿毛に包まれた一粒の種が空を飛ぶのを見た時に思った『必要なものはただ一つ』とは、どんなことですか?」

「自分は『生きている』のではなく、『生かされている』ということを知ることです」

私はこの言葉の意味がよく理解できないまま星野さんと別れた。そして長い年月が過ぎた。

今、この稿を書くに当たって詩画集を開いてみたら,このような言葉に出会った。


いのちが一番大切だと 思っていたころ 

生きるのが苦しかった/ いのちより大切なものがあると知った日 生きるのが 嬉しかった

(『命よりも大切なもの』)

「苦しみによって苦しみから救われ、悲しみの穴をほじくっていたら喜びが出てきた」と言う星野さん。その詩画作品は見事に、「語ることの出来ないもの」を語っていると思った。


前衛舞踊家 田中泯さんへの旅

田中泯(みん)さんのことは、前衛舞踏家というよりも、映画『たそがれ清兵衛』に於ける老残の剣客やNHK大河ドラマ『龍馬伝』『鎌倉殿の十三人』に登場した存在感の強い俳優として記憶している方が多いと思う。しかし彼の本質は、「私は地を這(は)う前衛舞踏家である」と言うその言葉の中に、厳然と存在している。

彼の踊りはモダンバレエ、ジャズダンス、ストリートダンスなど数あるダンスとは、完全に趣を異にしている。彼はそれを「名づけようのない踊り」と称していた。初めて見た時、私はその踊りの異様さに慄(おのの)き、難解さに戸惑い、奇怪にさえ感じたことを思い出す。

それは平成十八年、東京の井之頭公園で行われた野外公演でのことである。

あたりが夜の闇に包まれると、雷のような響きが起こり、風の唸(うな)りを思わせる轟音に合わせて若いダンサーたちが群舞した。観客は地べたに座って一筋のライトの先を追う。主役の泯さんは地面の下から、自ら土を掻き分けて登場。体毛をすべて剃り、全身を褐色に塗り、ほとんど全裸だった。言葉は一切なく、原初の生命体を暗示する動きの連続。それを頭で理解し、筋を言葉で追うことは不可能だった。ただ感じ取るほかない。私は泯さんと禅問答をしているような気分に陥った。まさに「不立文字(ふりゅうもんじ) 直指(じき)し人心(にんしん)」の世界だ。泯さんはそれだけ先鋭に「言葉」を超越しようとしているのだと、私は思うほかなかった。

やがて終盤に差し掛かった時、衝撃的な事が起こった。泯さんの動きが止まり、吐く息を繰り返すだけになった。すると見る間にあばら骨がゴツゴツと浮かびあがり、筋骨隆々とした体が痩せ細っていくのだ。泯さんが死ぬのではないかとさえ思った。やがて深い呼吸を始める泯さん。すると身体は元の姿に戻ったのだ。私は、生と死と甦りを目の当たりしたような異様な感動に包まれた。

公演後、泯さんが山梨県にある昇仙峡近くの廃村に移住し、農業をしながら公演活動をしていることを知り、会いに行った。泯さんは、空き家数軒を借りて『桃花村舞踊団』を結成。若い弟子たちと、農業をしながら集団生活をしていた。

「泯さんの踊りは難解だと言われませんか」

「踊りは人間が言葉を発明する以前からの表現です。僕は子供の頃から、盆踊りや祭り囃子(ばやし)を聞くと体を動かさずにはおられませんでした。僕はこう考えます。言葉で表現する以前の感情や希望や魂を、踊りで示してきたのです」

確かに踊りには原初の感情が籠っている。

「人間らしさは言語ではなく、踊りから生まれたと僕は信じています。大地の踊り、戦いの踊り、見えている幻影を突き崩す見えない舞踏。立ち居振る舞いが踊りであり、人間そのものだと考えます」

「農業も『踊り』ですか?」

「風や土や匂い、四季の巡りが踊りの発動機なのです。僕は踊りの体は畑仕事で作ります」

段々畑ではイチヂク、オリーブ、キノコや北山茶、烏骨鶏も飼われ、それらは威厳に満ちた国立劇場のロビーでも売られていた。

「芸術劇場で野菜を売ったのは僕ぐらいでしょう」と、泯さんはカラカラと笑った。

「この村を再び拓くに当たって、一番大切なものは水だってことに気が付いたんです」

泯さんは新しい井戸を自分で掘ったと言い、畑の一角に連れて行ってくれた。最初は自分の勘を頼りに二か所も掘ったが、水は出なかった。そこで風水師に占ってもらい、三度目の挑戦でようやく水脈を掘り当てた。井戸の直径は二メートルほどもあり、側面はゴツゴツと鑿(のみ)の跡を岩肌に残している。中を覗くと深い闇の底で滑らかな光が揺れていた。

泯さんは井戸を掘る途中、固い岩盤に突き当たり、何日もハンマーを振り下ろし続けたのだが突破できず、とうとう墓穴に閉じ込められたような気がしたそうだ。しかし諦めなかった。

私は地の底で岩盤を打ち続ける姿を想像し、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』のようだと思った。ギリシャ神話のシーシュポスは永遠に岩を山頂に押し上げたが、泯さんは地の底を穿(うが) ち続けた。

泯さんはその水を汲み、自慢の茶葉で水出し茶を振舞ってくれた。私は程よい甘さを湛(たた)えた爽やかなお茶を口にし、心がホクホクしてくるのを感じた。

「次はどんな踊りを目指しますか?」

「田舎の畦道(みちあぜ)に熟練した年寄りのお百姓さんが、ぽつんと立っている。それをみんなが見て、美しい姿だねって言ったら、完璧な踊りじゃないかと思います」

「?」

この時も、泯さんの真意を理解することが出来なかった。ところが、その謎が解ける日が訪れた。

十七年後の令和四年十二月。東京芸術劇場における田中泯公演。題名は「外は、良寛」

江戸時代の禅僧良寛を七十七歳になった泯さんが墨染の衣を纏(まと)い、身を翻(ひるがえ)して軽々と舞った。舞台天井からは一本の白い綱が垂らされ、「天上大風」という良寛の墨蹟のようにしなやかに揺れていた。三味線の音が流れ、降りしきる雪が晩年の良寛さんを包んだ。言葉を峻拒した嘗ての前衛性から帰還した泯さんは、良寛の和歌を劇場一杯に朗誦した。


淡雪の 中に顕(た)ちたる 三千大世界(みちおうち)

またその中に 淡雪ぞ降る  


「三千大世界」とは仏教でいう森羅万象であり、地球であり、宇宙そのものだ。公演のタイトルにある通り「この世は良寛が求めたものに満ち満ちている」という泯さんの声が聞こえてくるようだった。それはまさに時を超えて道元の声とも響き合っている。


春は花 夏ほととぎす 秋は月
  冬雪さえて すずしかりけり 道元


私は無心に踊る泯さんを見て、「畦道(あぜ)にたたずむ熟練のお百姓さん」になったと思った。降りしきる淡雪はその命を飾る桜の花吹雪なのだ。


散る桜 残る桜も 散る桜

裏を見せ 表を見せて 散るもみじ  良寛