9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年4月号

二 宮 尊 徳(下)

 中山エイ子  /佐佐木信綱研究会会員


日露戦争が終わった年、明治三十八年の十一月二十六日午後、二宮尊徳翁五十年紀念会が東京音楽学校で盛大に開催されました。発起人は、尊徳の弟子岡田良一郎の長男岡田良平、次男一木喜徳郎など十一名。来会者は尊徳の嫡孫や親族、各界の重鎮を始め、総勢五百名。「二宮翁の人格」「社会間題と報徳社」他の講演の後で、同校教授幸田延、幸姉妹(露伴の妹たち)によるピアノとヴァイオリンの演奏と、卒業生五、六名による「勤勉の歌」と「窓の秋風」の歌が披露されました。


  勤勉の歌          作歌作曲者不詳
一、人と生れししるしには
  家を富ませよ身を立てよ
  家業励まば家は富み
  学び励まば身は立たん
二、見よやみなしご金次郎
  ありとあらゆる憂目(うきめ)見て
  人にすぐれし人となり
  後の世までも仰がるる

報徳会編『二宮尊徳翁五十年紀念帖』(明治三十九年三月)によれば、これは「学童唱歌の一節」から採った歌で、曲は示されていません。当日、来会者には、『報徳記』『二宮翁夜話』『二宮尊徳と地方の感化』や翁の肖像や遺筆、教訓絵葉書ほかが紀念冊子として配られ、およそ二百点の遺物が展示されたそうです。


第一期国定教材『二宮尊徳先生唱歌』

明治三十七年度から国定教科書の時代です。第一期(明治三十七―四十二年)の『尋常小学修身書』の三年生用に「二宮金次郎」四課(孝行・勤勉・学問・自営)があり、これに合わせた『二宮尊徳先生唱歌』(山崎明軒作歌、天谷秀作曲)一冊が発行されています(明治四十一年)。四つの徳目の章に分けた小伝的内容で一曲のみです。文学博士芳賀矢一の校訂となっています。


文部省唱歌「二宮金次郎」

国定第二期(明治四十三―大正六年)の二年生用の修身書に「ニノミヤキンジラウ」七課があり、これに対応しているのが文部省唱歌の「二宮金次郎」です。

同四十一年、義務教育が四年から六年に延長され、「唱歌」が必修科目になりました。そこで四十四年から大正三年にかけて『尋常小学唱歌』六冊が文部省で作られ、その二年生用(明治四十四年)に「二宮金次郎」が載りました⑥。


  二宮金次郎 作歌作曲者不詳
一、柴刈(しばか)り縄(なわ)なひ草鞋(わらじ)をつくり
  親の手を助すけ弟(おとと)を世話し
  兄弟仲よく孝行つくす
  手本(てほん)は二宮金次郎
二、骨身ほねみ)を惜(おし)まず仕事をはげみ
  夜なべ済(す)まして手習(てならい)読書(とくしょ)
  せはしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ
  手本は二宮金次郎
三、家業(かぎょう)大事(だいじ)に費(ついえ)をはぶき
  少しの物(もの)をも粗末(そまつ)にせずに
  遂(つい)には身を立て人をもすくふ
  手本は二宮金次郎

金次郎をお手本にして、兄弟仲よく孝行を尽くし、勤勉実直に歩み、撓まず学べという口語調の分かりやすい修身唱歌です。三番には、「質素倹約して、分相応の暮し(収入に応じた生活)をすること」という、金次郎の生活哲学が含まれています。立身出世・公益救済に関しても、金次郎の教えの中に見出せます。

両国橋辺りで敵打(かたきうち)があったときのことです。人々が勇士だ、孝士だと誉めたことに対して金次郎は、怨みを怨みで返すのは人道ではない、復讐は政府に任せて自分は「家を修め、立身出世を謀り、親先祖の名を顕はし、世を益し人を救ふの天理を勤むるにしかず」、これが人道だと説いています(福住正兄著『二宮翁夜話』巻之二[四十九])。少年の時分から人に救いの手を差伸べていた金次郎であっただけに(三月号③参照)、人を救うことに尽力せよという主張には、特に心が籠っているように感じます。


群馬県師範学校の「二宮尊徳」

明治四十三年三月、群馬県師範学校の教諭二人が作歌作曲した『二宮尊徳・菅原道真』が、偉人唱歌と銘打って出版されました。三十七年以来、同校で は模範人物として二宮尊徳と菅原道真を選定し、講堂に肖像画を掲げ、毎年紀念会を開いていました。校長先生の序文によると、四十一年十月に戊申(ぼしん)詔書(国民の奢侈を戒めるために忠実・勤倹を奨励する内容)が発せられてからは、「報徳主義の鼓吹と実行」が全国を風靡する勢いである、したがって、報徳主義を実行する上で、この「二宮尊徳」の唱歌は役立つだろうという教育的な取組みであったことが分かります。

さて、この「二宮尊徳」の歌は、国定第二期の金次郎の七課に対応させてありますが、同校の二宮尊徳先生紀念会に際して、嘗て下平末蔵が詠んだという短歌二十首に、音楽教諭の大西正直が作曲したものです⑦。一部を抜き出してみます。


  二宮尊徳

下平末蔵作歌

大西正直作曲
   一、孝は万善の基(もとい)
 親の為千々に尽しし人の子は
    ちぢの功を世にぞ立てぬる
   四、艱難汝を玉にす
 心なき酒匂(さかわ)の水もなかなかに
    こころを磨くたねとこそなれ
   五、叔父の無慈悲を怨みず
 つらしとて人を怨みずひたすらに
    わが身を責めし心ゆかしも
   十二、慈善
 餓人(うえびと)の絶えなんとする玉の緒を
    つなぎ留(と)めたり君がなさけに
   十六、分度(ぶんど)
 ほどほどに入ると出るとの釣合を
    保つぞ富(とみ)のもとゐなりける
   二十、国運発展の道
 徳をもて徳に報ゆる御教(みおしえ)ぞ
    国のさかえを増す誠なる

明治時代に、短歌を唱歌にしたものは珍しいですが、短歌特有の心地良いリズムがあり音読にも適していると思います。


尊徳翁の道歌

尊徳の「唱歌」を通して、明治中期頃から尊徳の徳行が教材化され、道徳教育の一翼を担っていたことが見えてきました。尊徳の至誠一貫の生き方は、勤勉・実直・親切・辛抱強いといった国民性の育成にも、多大の影響を及ぼしたのではないでしょうか。前述の「報徳主義の実行」については、未だ知り得ていませんが、それが大正・昭和の時代にも波及していたらしいことは、金次郎像の普及を見ても察せられます⑧。

それでは最後に、福住正兄(まさえ)著「二宮翁道歌解」(『二宮尊徳翁全集』昭12 )より、尊徳翁の道歌をご紹介して終わりにいたします。


 天地(あめつち)の神と皇(きみ)とのめぐみにて
   世をやすくふる徳に報えや

    (注) 『二宮翁夜話』巻之三[百二十八]に「翁曰く……君恩には忠、親恩には孝の類、之を徳行と云ふ」とあります。

 おのが子を恵む心を法(のり)とせば
   学ばずとても道にいたらん
 父母もその父母も我身なり
   われを愛せよわれを敬せよ
 むかしまく木の実大木(おお)きに成りにけり
   今まく木の実後の大木ぞ
 おもへただから学びする人とても
   我身をめぐむこの日の本を

    (注)から学び=外国の学問を学ぶこと