『日本』令和6年5月号
北条時宗(上)
中山エイ子 /佐佐木信綱研究会会員
はじめに
我が国の歴史上、最大級の外寇であった元寇(文永・弘安の役)が起こったのは、十三世紀後半の鎌倉時代のことです。当時の幕府の執権は北条時宗(ときむね)でした。
時宗は、フビライの威嚇的な外交姿勢に屈せず、北九州の防禦策を強化し、高麗への出征計画を立てるなど、一貫して毅然とした態度で対処しました。師事した無学祖元から「真の獅子児なり」と賞賛された時宗。幕末の頼山陽からは、「相模太郎、膽(たん)、甕(かめ)の如く」と詩「蒙古来(もうこきたる)」に詠まれ、明治十五年の元田永孚(ながざね)著『幼学綱要』では、「明識善断」の人物(立派な見識と英断の持ち主)に挙げられている時宗ですが、“時宗の唱歌”となると影が薄く、寡聞(かぶん)にして二曲しか存じません。そこで今回は、「元寇の歌」と合わせて御紹介させていただきます。
七歳で元服
時宗は五代執権北条時頼の嫡子として、建長三年(一二五一)五月十五日、松下禅尼(まつしたぜんに)(時頼の母)の住まいのある甘縄(あまなわ)の安達邸(神奈川県鎌倉市)で生まれました。母は北条重時(泰時の弟)の娘。童名は正寿。通称相模太郎。七歳で元服(加冠は鎌倉幕府の六代将軍宗尊(むねたか)親王)して、時宗と命名され、十歳で小侍所(こさむらいどころ)に入り、別当の金沢実時(かねざわさねとき)(北条義時の孫。金沢文庫の創設者)に、幕府の政務や支那関係の学問を学びました。十三歳で父と死別し、十四歳で連署(れんしょ)(執権の補佐役)となりました。
フビライの使者
ここで、大陸の方に目を転じてみますと、十三世紀の初め、モンゴル(蒙古)を統一したチンギス・ハンは、一二〇六年に初代皇帝となり、次のオゴタイ・ハンの時代には中央アジアからヨーロッパ東部に至る一大帝国を築き上げました。チンギス・ハンの孫フビライ(世祖(せいそ))は、朝鮮半島の高麗を属国にした翌年、一二六〇年に、モンゴルの第五代皇帝になります。この年、時宗は十歳でした。その後、フビライは宋(南宗)の攻略を進めながら日本侵略をも目論み、文永三年(一二六六)頃からその動きを見せ始め、使者をわが国に送るようになります。
文永五年正月、高麗の潘阜(パンブ)がモンゴルの使者として大宰府を訪れ、フビライの国書を届けました。幕府は、モンゴルの情報を入宋僧、来日僧や貿易商人などから南宋側を通じて入手していたため、国書をフビライの日本侵略の意志と受け止め、返書は与えないこととし、西国の御家人にモンゴルの襲来に備えて警戒態勢に入るよう命じます。朝廷ではこの時、返書を用意されますが、幕府によって取り止めとなりました。三月には、老齢の執権北条政村(まさむら)と連署の時宗とを入れ替え、ここに弱冠十八歳の時宗が八代執権となり、未曽有の国難に立ち向かうことになったのです。その後の使者に対しても、幕府は無視を貫きます。
同八年九月、前年にモンゴルの支配に抵抗して乱を起こした三別抄(さんべつしょう)(高麗の中核をなす軍隊)が、わが国に救援軍と兵粮を求めて来ました。その際、モンゴルが日本を攻める準備を進めているという情報を得たため、幕府は九州の守護、大友・少弐(しょうに)に御家人を動員して、筑前・肥前の要害警固に当たるよう命じました(異国警固番役)。同年十一月、モンゴルは国号を元と定めます。同十年三月、元の使者趙良弼(ちょうりょうひつ)(女真人(じょしんじん))が再来日。趙良弼は返書を得られず帰国し、フビライに日本遠征は無意味だと説きますが、ちょうどこの年に三別抄を全滅させたフビライは、日本攻略を決定するのです。
文永の役・弘安の役
二度の元寇、及びその頃の主な出来事に関しては、近藤成一氏の簡潔明解な年表を一部拝借することにいたし ます(『鎌倉幕府と朝延』岩波新書・二〇一六年刊)。
年表が示すように、二月騒動からの十年間、時宗は強大な外患の禍中にあって、我が日本国の極めて重大な決断を下さなければなりませんでした。
無学祖元の教え
時宗を精神的に支えていたのは、禅宗(臨済宗)でした。父時頼が帰依していた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(宋僧)に付いて、十代の頃から禅の修行を行い、また文永六年に来日した大休正念にも学びました。
弘安元年に蘭渓道隆が亡くなると、その翌年、宋から無学祖元を迎えます。時宗から、大事が起こったときの覚悟を尋ねられた祖元は、「莫煩悩(まくぼんのう)」と大書して与えたといいます。悩まず進め、と教えたのです。
二回目の元寇を前に、時宗は国家安泰を願って『円覚経』や『金剛経』を血書して、祖元に説法を請いました。祖元は「経文の一字一句が神兵となって敵兵と戦い、必ずや勝利するにちがいない」と力強く励まし、戦勝を祈願したのでした。
引用した年表の最後に見える「円覚寺」は、時宗が蘭渓道隆と造営を進めていた臨済宗の寺で、時宗は祖元を開山始祖として、弘安五年十二月八日(釈尊成道の日)に開堂して、元寇で亡くなった敵味方の兵士など全ての戦歿者を追悼しました。
その一年四ヶ月後の弘安七年四月、時宗は三十四歳の若さで世を去りました。フビライの死は、十年後の一二九四年です。
時宗の一生は、正にわが国が独立の危機に直面していた時代と重なります。敵愾心(てきがいしん)と護国の念を常に堅持して、大事に当たった時宗の唱歌には、次のようなものがあります。
石原和三郎の「北条時宗」
石原和三郎作歌、田村虎蔵作曲の「北条時宗」は、尋常小学三年生用の歌として、明治三十五年刊行の『幼年唱歌』(三編)に発表されたものです。表記はこの学年に合わせたということです。
北条時宗
石原和三郎作歌
田村 虎蔵作曲
一、五尺のからだ 一ぱいに
大和だましひ こもりたる
さがみの太郎 時宗が
鎌倉しつけん たりし時
二、元(げん)の大王 忽必烈(くびらい)が
支那をのこらず 手に入れて
なほあきたらず 我国(わがくに)へ
ぶれいの使を おこしたり
三、時宗いかつて いくたびか
来(きた)る使(つかい)を おひかへし
さいごの使の 首をはね
かくごのほどをぞ 示しける
四、忽必烈今は こらへかね
我(わが)日の本を 一(ひと)うちと
時は弘安 四年夏
大軍つかはし せめ来(きた)る
五、かねてかくごの 時宗は
ふせぎの用意を おこたらず
朝廷にても 神々へ
ちよくしたてての おんいのり
六、たまたま 七月三十日(みそか)の夜(よ)
にはかにおこる 神風(かみかぜ)に
三千よそ―は こなみぢん
十万よ人は 水のあわ
合唱「あなここちよや きみよしや
国威かがやく 日の光」
この唱歌では、二度目の襲来に備えて幕府が御家人たちに石築地(いしついじ)(元寇防塁)を築かせたことや、弘安の役が起こった時、亀山上皇が伊勢神宮に勅使を遣して、わが身に代えて国難を救いたいと祈願されたことについても歌っています。石築地は、博多湾治岸に二十キロに及び、筥崎宮(はこざきぐう)には三十七枚の“敵国降伏”の宸筆を奉納されました。
大和田建樹の「北条時宗」と「神風」
大正四年(一九一五)十一月に京都御所において、大正天皇の御即位の大礼が挙行されました。各地で奉祝記念行事が催される中、教育音楽協会(代表・天谷秀、新清次郎)が御大礼を記念して出版したのが、『大日本偉人唱歌集』(大正五年)でした。 「忠孝仁義の美徳を発揮せる我皇国の俊傑」(自序)として、当時の国定第二期の教科書に関連させて選んだ六十二名分の偉人唱歌を載せています。ここに大和田建樹作歌、嶋村吉門作曲の「北条時宗」があります。時宗に関しては、『高等小学読本』巻四に、「神風のもろこし船を払ふまでつくしにけりな武夫(ますらお)の道」という渡忠秋 (わたりただあき)の詠史が出ています。
北条時宗
一、怒(いか)れる波吹き巻く風
大和田建樹作歌
嶋村 吉門作曲
おそはゞ襲(おそ)へ衝(つ)かば衝(つ)け
いといかめしく動きなき
巌(いわお)は千代に万代(よろづよ)に
あたかも国の姿にて
二、山なす艦(ふね)雲なす兵
来(きた)らば来れ寄らば寄れ
日本の国には男子あり
一歩もいかで侵(おか)させん
相模(さがみ)太郎はなほ死せず
大和田建樹は、早い時期から精力的に唱歌を作った国文学者です。自作のみを収録した明治二十五年の『尋常小学帝国唱歌』には、弘安の役を歌った「神風」を載せています。ここに「我が日の本は天祖(てんそ)の守る国なるぞ」と、我が国は神の国であること(神国思想)を示してます。
神 風
大和田建樹作歌
作曲者不詳
一、蒙古の舟は波間に満ちて
其(その)勢(せい)すべて十余万
侵さば侵せわが日の本は
天祖の守る国なるぞ
二、忽(たちまち)おこる神威の颶(はやて)
残兵わづか三千余
寄せなば寄せよ彼(かの)本国に
生かして帰す唯(ただ) 三人(みたり)
文永の役から七年後に、弘安の役が起こります。今度は、東路軍と江南軍の二手に分かれて十四万の大軍が攻めてきました。博多を襲った東路軍は、防塁と日本軍の奮戦のために上陸できず、江南軍と合流して総攻撃をしようと松浦湾に移動しますが、暴風雨て壊滅状態に陥ります。そこへ、博多湾の防備に当たっていた武士たちが集まり、鷹島付近で敗残兵を掃討して大難を退けました。この時の暴風雨(台風)を神風と呼んで、上下挙って神の御加護に感謝し安堵したのです。