『日本』令和6年6月号
建国の理念「八紘為宇」に立ち返る勇気を
葛城奈海 /ジャーナリスト
自衛官の靖國参拝は「私的」でなければいけないのか
「元海将が靖國神社宮司就任へ」。三月中旬に流れた第一報に驚いたのは、私ばかりではなかったであろう。元海将で前ジブチ共和国大使の大塚海夫氏が、四月一日付で靖國神社の宮司に就任された。自衛隊出身者の同神社宮司就任は二人目だが、将官経験者は初めてとなる。大塚新宮司は、早速、四月二十二日の春季例大祭で堂々と祝詞を上げ、宮司としての大任を果たした。例大祭後の挨拶では、神社の「舵取りに奮励努力致します」と、日本海海戦での秋山真之を想起させる言葉を用い、元海上自衛官らしさを滲(にじ)ませた。また、十七条憲法や、さらに遡って縄文時代にまで言及し、共存共栄を尊ぶ日本の国柄に触れるなど、スケールの大きさを感じさせた。新宮司の誕生に心からの祝意を表したい。
靖國神社を巡っては、年明け早々、陸上幕僚副長らの参拝が問題視された。当初、「しんぶん赤旗」だけが騒いでいるのかと思いきや、その後、NHKニュースにまで取り上げられた。防衛省は、「(部隊参拝や参加の強制を禁じる)事務次官通達には違反しない」と結論づけたが、それに飽き足らなかったのか、つづいて、同紙は海上自衛隊の初級幹部が遠洋練習航海出発前に行っている集団参拝を槍玉に挙げた。これに対しても自衛隊は、「私的な自由意思に基づく参拝。問題視することもなく、調査する方針もない」と結論づけた。
それ自体は良かったのだが、いずれの案件も何か釈然としないものが残った。年始の事案においては、陸幕副長らの公用車利用が訓戒処分の対象になった。能登半島地震対処に即応できるようにと公用車を使ったことが、なぜ「訓戒」されねばならないのか。時間休中だからという建前であろうが、むしろ公用車を使えるように制度を見直すべきであろう。
また、三月六日の参院予算委員会においては、防衛省人事教育局長が「自衛官が制服を着用して私的に参拝することに問題はない」「自衛官は自衛隊法などにより常時、制服を着用しなければならない」と答弁した。防衛庁訓令第四号の自衛官服務規則第六条には、「自衛官は、この訓令の定めるところに従い、常時制服等を着用しなければならない」と定められている。つまり、自衛官であれば、制服着用こそが大前提で、私的な時間など例外的に着なくても良い場合もあるというのが原則なのだ。こうした事実が広く周知され、自衛官が憚(はばか)ることなく制服で靖國を参拝する一助になることを心から願う。
それと同時に、思うのだ。いつまで「私的」に囚(とら)われるのか、と。例大祭には靖國神社の招待を受けて制服姿の陸海空自衛官が参列している。しかしながら、あくまで「私的に」参拝しているという。そもそも論として、おかしくないだろうか。
参考までに、米国は南北戦争以降の戦歿者が眠るアーリントン墓地で、毎年、国家行事として慰霊祭を行い、大統領はもちろん、各軍種の軍人たちは制服で公務として参列している。日本の実状を知ったら諸外国の人々は心底驚くであろうし、何より英霊たちはどう思われるだろうか。
陸上自衛隊の「大東亜戦争」表現削除の意味すること
四月五日、陸上自衛隊第三十二普通科連隊が公式X(旧ツイッター)で用いた「大東亜戦争」という表現が、朝日新聞などから批判されたことを受け、防衛省・自衛隊はこれを削除した。日米硫黄島戦歿者合同慰霊追悼顕彰式への参加報告の際に「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された」という流れで使ったものだが、木原稔防衛大臣は、「慰霊そのものが重要であり、大東亜戦争という表記によって、大きな問題化することは本意でないという報告を受けている」という。
閣僚が認めたということは即ち、自衛官をはじめ公職に就く人が使うには「不適切な言葉」として登録されたのと同義だ。「慰霊が重要」というのなら、戦歿者の想いに寄り添うことこそ重要だったのではないか。英霊は「大東亜戦争」を戦ったのだ。
「大東亜戦争」は、開戦から四日後の昭和十六年十二月十二日に、当時の東条英機内閣が閣議決定した呼称だ。昭和十二年から継続していた支那事変(日中戦争)を含めて「大東亜戦争と呼称す」とした。
昭和天皇が出された「宣戦の詔書」には、「東亜の安定を確保し、世界平和に寄与し、万国共栄の喜びを共にしたいにもかかわらず、米英は、東亜の混乱を助長し、平和の美名に隠れて東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。事ここに至っては、自存自衛のため、速やかに禍根を取り除いて東亜に永遠の平和を確立し、日本の保全を期す」旨が記されている。この詔書に接したとき、昭和天皇が「戦う理由」をここまで明言されていたのかと驚きを禁じ得なかった。これを読めば、「侵略戦争」でないことは一目瞭然だ。
この詔書に触れて確信した。だからこそ、「堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍び…」という件(くだ)りを中心に「終戦の詔書」がよく引用されるのとは対照的に、「宣戦の詔書」は意図的に人目から遠ざけられたに違いない。
「宣戦の詔書」に出てくる「萬邦共栄(ばんぽうきょうえい)ノ楽(たのしみ)ヲ偕(とも)ニスル」という文言は、「終戦の詔書」にも登場する。これは即ち、後述する日本の建国の理念「八紘為宇(はっこういう)」(八紘一宇)を源流とする言葉だ。
戦後、昭和二十年十二月十五日に出した神道指令によってGHQ(連合国軍総司令部)は「大東亜戦争」「八紘一宇」の使用を禁じた。その結果、「大東亜戦争」は「太平洋戦争」に置き換えられ、「八紘一宇」は危険思想扱いされるようになった。日本人に戦争についての罪悪感を植え付けるための洗脳工作・WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を行ったGHQにとって、東亜の平和を確立するという「日本の大義」は不都合な真実であった。だからこそ、徹底的に隠蔽(いんぺい)しなければならなかったのだ。
こうした史実を知れば、「大東亜戦争」の削除が、いかに戦勝国史観に囚われ、独立国としての尊厳を自ら傷つける行為であるか理解できるであろう。ちなみに、三十二連隊は「大東亜戦争」とともに、「慎んで祖国のために尊い命を捧げた日米双方の英霊のご冥福をお祈りします」という一文も削除している。
勝者の「言葉狩り」に、いつまで縛られるのか。子孫たちにツケを先送りせず、今を生きる私達の手で時代の歯車を主体的に回す気概を持ちたいものである。
建国の理念に立ち返り、戦後体制からの脱却を
それでは、「八紘為宇」(八紘一宇)とは、いったい何を意味しているのだろうか。
『日本書紀』によれば、初代神武天皇が奈良の橿原(はらかし)に都を建てられた際に出された詔の中で、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」と述べられている。つまり、「天の下にひとつの家のような社会を築こう」というのが日本の建国の理念だ。戦前、戦中と盛んに使われた「八紘一宇」は、前述の神道指令以後、すっかり危険思想扱いされ、戦後教育では「好戦的な軍国主義のスローガン」のように教える。しかし、本来の意味は真逆であった。そう知ったとき、己(おのれ)の先入観と不勉強を恥じると共に、これこそが戦後の日本人が取り戻さなければならないアイデンティティ(主体性)だと感じた。私は、原典である『日本書紀』に従い「八紘為宇」と表記したい。
一月下旬、「皇統を守る国民連合の会」の研修で、神武天皇が東遷(とうせん)に出発された宮崎県を訪ねた。宮崎市の平和台公園には高さ三十六メートルの巨大な「八紘一宇の塔」が聳(そび)えている。塔の四隅を守るように配されていた四神像のうちの武人像と、正面の「八紘一宇」の文字が、戦後、GHQの指令で撤去されたが、現在は復元されている。同市にはまた「皇軍発祥之地」、日向市美々津には「日本海軍発祥之地」の碑がある。それぞれ神武天皇の軍が陸路、海路を東へと出発した地だ。そう、日本最古の軍隊を率いたのは神武天皇であったのだ。地元では今なお「神武さま」と自分の身内であるかのように親しまれている様子に触れ、今を生きる私達と神話の世界が地続きで繋がっていることを再認識した。
天皇を中心とする国・日本を守ってきた防人たち。脈々と受け継がれてきたその歴史の最先端にいるのが自衛官だ。日本の歴史を俯瞰(ふかん)すれば、問題にされるべきは、自衛官の靖國参拝ではなく、自衛官の靖國参拝を問題視することであると気づく。先輩が祀(まつ)られる場所に、自衛官が公に参拝する。世界的に見ればごく当たり前の行動ができる国へと、歴史の歯車を回したい。
「戦後レジーム(体制)からの脱却」とは、日本人が建国の理念を正しく理解し、それに基づき行動することだと私は思う。神武天皇が建国の詔で謳(うた)われ、また昭和天皇が「宣戦の詔書」ならびに「終戦の詔書」で述べられたように、共存共栄するために和を尊ぶ。尊ぶからこそ、それを乱すものに対しては時に命懸けで戦う。そんな防人たちに感謝し、この先も建国の精神を宿した日本が、千代に八千代に存続することを願ってやまない。