9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年6月号

義の日本思想史(六)

 新保祐司 /文芸批評家


 第六章 「和製ピューリタン」乃木希典
一 山鹿素行と乃木大将

山鹿素行を尊敬した人物として先ず挙げなくてはならないのは、乃木希典(のぎまれすけ)大将であろう。乃木が自ら宮内省筋に運動した結果、日露戦争後の明治四十年、素行に正四位が贈られた。この年、乃木を中心にした山鹿素行を崇敬する人々は、素行の墓のある牛込宗参寺で「素行贈位報告祭」を執り行い墓前にこのことを報告した。そこで、乃木は、「山鹿素行を祭る文」を読み上げたのであった。

「先生、徳、一世ニ高ク、識(しき)、古今ニ踰(こ)エ、学問該博(がいはく)、議論卓抜、夙(つと)ニ国体ノ精華ヲ発揮シ、中外ノ別ヲ明(あきらか)ニシ、名分(めいぶん)ヲ正シ、士道ヲ説キ、志(し)、経綸(けいりん)ニ存シ、才(さい)、文武ヲ兼ヌ。而(しこう)シテ不幸、世ニ遇(あ)ハズ、轗軻困頓(かんかこんとん)、終(つい)ニ偉大ノ抱負ヲ実用ニ施ス能(あた)ハズシテ逝(ゆ)ケリ。惜(おし)ムベキカナ。(中略)希典(まれすけ)幼時師父ノ教ヘニ従ヒ、先生ノ遺著ヲ読ミ、窃(ひそか)ニ高風ヲ欣(きん)シ、仰(あおぎ)テ以(もっ)テ武士ノ典型トナサンコトヲ期セシニ、(下略)」

中央公論社「日本の名著」の第12巻『山鹿素行』の「解説」(田原嗣郎)に、「素行の墓前で讃を読む乃木希典」と記された写真が載っている。いつもながらの軍服姿で軍刀を腰に下げた乃木大将が、「讃」の書かれた紙を持って、やや前傾の姿勢で立っているのを横から撮っている。「而シテ不幸、世ニ遇ハズ、云々」というところの文章に、乃木の山鹿素行に対する崇敬の底にあったに違いない共感があらわれているように思われる。

乃木の写真と言えば、殉死当日、邸の前で撮った写真が有名である。私は、「皇居を振り返る騎乗の乃木大将」の写真が一番気にいっているが、それはさておき、この素行の墓前の写真を「解説」で初めて見たとき、乃木大将を理解するには、軍人としての経歴にとどまらず、乃木大将が学んだ学問を深く知らねばならないと改めて思った。「解説」には、『山鹿素行』(中山久四郎)と『山鹿素行先生』(松本純郎)からの引用文が載っている。両書は、戦前の昭和十二年の同じ年に刊行されている。この頃、山鹿素行の評価の高まりが見られたに違いない。

中山の著からは「又兵学者として山鹿流の元祖たる先生の感化影響は天下に冠絶し、その歿後久しからずして、大石良雄等赤穂の義士は、直接間接に先生の感化薫陶によって、元禄の快挙となり、ついで幕末に至りて、吉田松陰あり、明治時代に至りては乃木将軍あり」という文章が引かれている。松本の著からは、「素行先生が説かれた所の武士道は、一(いつ)に道義を以て念とし、道の為には一死をも顧みるべからずとするものであり、然も生死の場に当つては義利の弁を明確にすること、その骨髄であつたことを思へば、此の精神が軈(やが)ては国家の命脈を護持する正気(せいき)となつて現はれた事は、固より言ふまでもないことであらう。その第一段の顕現を赤穂義士とする。赤穂義士の魂が夙(つと)に素行先生によつて長養せられ培(つちか)はれたことは、識者の認むる所、今更喋々(ちょうちょう)するを要しない」という件(くだり)が引用されている。

つまり、山鹿素行、赤穂義士、吉田松陰、乃木希典という精神の線が日本思想史に見て取れるということである。乃木の素行に対する崇敬が形となって現れた行動の最たるものが、山鹿素行の『中朝事実』をめぐってのものであろう。前述の山鹿素行に正四位を贈られるように、宮内省筋に運動したことよりも意義が大きい。乃木大将は、愛読していた『中朝事実』を自費で刊行したのであり、その殉死の前日、皇太子(後の昭和天皇)に献呈したのである。乃木大将の武士道は、山鹿素行のものであり、『葉隠』のものではないことは、改めて注意されていいことである。

乃木大将について、長与善郎は「古武士の悲劇的ドン・キホーテ」と言った。佐藤春夫は、「乃木大将を悼む言葉」と題した詩の中で、「ああ日本旧道徳の最後の人よ/君は空ゆく月のごとく悲しく/また日のごとくさかんなり/君が死はわれを高貴なる涙にさそふ/日本の偉大なるドンキホオテよ/われ君とその形式を異にするも/亦自ら国士をもて任ずるもの」と書いた。

長与善郎と佐藤春夫が、共に「ドン・キホーテ」の名を挙げているのは鋭い。セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』は、通俗的に誤解されているようなものではなく、極めて深刻な傑作である。中世の騎士道の物語を耽読(たんどく)して、すでに騎士の時代が過ぎ去っているにも拘わらず、騎士道精神を生きようと願ったドン・キホーテと同様に、武士の時代が終わった明治時代に十七世紀の江戸時代の山鹿素行の武士道をそのまま生きようとしたのが、乃木大将だったと確かに言えるからである。明治の将軍たちは、みな武士の出身であり、武士道を学び体現してはいたであろうが、乃木大将のように「古武士」として「悲劇的」に生き切った人はいない。「日本旧道徳」である武士道の「偉大なる」実行者であった。

詩人の佐藤春夫は、「われ君とその形式を異にするも/亦自ら国士をもて任ずるもの」と書いた。この言葉は、私も乃木大将に対して呈したいと思う。


二 吉田松陰と乃木希典 

小林秀雄は、兼好法師の『徒然草』を主題とした批評文の中で、「兼好は誰にも似ていない。よく引合いに出される長明なぞには一番似ていない。彼は、モンテーニュがやった事をやったのである」と書いた。これに倣(なら)って言うならば、乃木希典は、誰にも似ていない。よく引合いに出される東郷平八郎なぞには一番似ていない。彼は、吉田松陰がやったことをやったのであるということになるだろうか。そもそも大山巌や児玉源太郎などの明治軍人たちとは違っているのだ。乃木大将は、吉田松陰が刑死することなく生きたとすれば、松陰が生きたであろうように明治の時代を生きたのである。乃木が、軍人として風変りだったのは、吉田松陰が軍人になったようなものだったからである。乃木は、趣味として漢詩を書いたのではない。漢詩人であることは、乃木大将の本質をなしていたのである。

内村鑑三は、「日本武士は詩人の剣を取りし者なり」と言った。乃木大将とは、乃木希典という「詩人」が「剣」を取った「日本武士」に他ならなかった。また内村は、「詩なき軍人は野人にして武士にあらず、武士はゼントルマンなり、即ち人類の最も高尚なる者なり」と言った。


三 内村鑑三と乃木希典

乃木大将については、実に多くのことが書かれてきた。そのまさに汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)といっていい乃木評の中には、いくつか心に響く言葉があったが、私が最も優れているものだと思ったのは、やはりと言うべきか、小林秀雄のものであった。それは、昭和十六年の「歴史と文学」の中の「僕は乃木将軍といふ人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思つてゐます」というものである。

乃木大将といえば、日露戦争の旅順攻略戦であり、内村鑑三といえば、日露戦争のときの非戦論である。全く対極にあるように見える。普通の人間は、そうとしか考えまい。しかし、この二人を並べて「同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型」と喝破するところに、小林秀雄の端倪(たんげい)すべからざる批評精神が現れている。

こういう一見、逆に見えるものを深く洞察して「同じ性質」を見て取ることが、真の批評であり、解説との違いである。乃木を「軍神」と崇めて、一方、内村を非国民として嫌っているような浅い単純な捉え方では、乃木の精神の悲劇も近代日本の悲しみも深く把握することはできない。

では、この「同じ性質」とは、どういうものであるか。それについて、私は、いくつかの点を挙げてみようと思う。

先ず一つ目は、やはり武士道である。乃木大将の精神の根本が武士道であることは、これまで書いてきたように言うまでもないことであるが、内村鑑三にとっても、武士道は極めて重要なものであった。内村は、「武士道の上に接木(つぎき)されたる基督教」という言い方をした。単なるキリスト教ではなかった。武士道の台木に接木されたものだったのである。

内村鑑三は、自らを「さむらいの子」と称したが、明治初期の基督者は、いわゆる「サムライ・クリスチャン」が主であった。戸川残花は「我が国に今日の如き基督教を見るを得たるは全く武士の手に因りて、伝道せられたるが故なりき」と明治三十年代に振り返っている。戸川残花は、旗本戸川安行の養子で、戊辰戦争のとき、十四歳で彰義隊に加わった。残花の俳句に、綱淵謙錠の『幕臣列伝』の巻末に書かれていたのを読んでから忘れがたいものがある。「玉疵(たまきず) も瘤(こぶ)となりたるさくら哉(かな)」。この瘤の上に義は立つのではあるまいか。

内村鑑三は、「我国に於て思ひしよりも早くキリストの福音が根を据ゑし理由は、武士が伝道の任に当つたからである。所謂(いわ)ゆる熊本バンド、横浜バンド、札幌バンド、之に加はりし者の多数は武士の子弟であつた。彼らは孰(いず)れも武士の魂をキリストに捧げて日本の教化を誓つたのである。そこには朝日に匂ふ山桜の香があつた」と書いている。具体的に主な名前を挙げるならば、熊本バンドは、柳川藩の海老名弾正、熊本藩の横井時雄(小楠の子)、横浜バンドは、旗本の植村正久、松山藩の押川方義、会津藩の井深梶之助、弘前藩の本多庸一。札幌バンドは、高崎藩の内村鑑三、南部藩の新渡戸稲造などである。彼らには、台木として「玉疵」の記憶があり、「武士の魂」があったのである。

数年前、熊本の花岡山の山頂にある熊本バンドの碑を訪ねたことがある。明治九年一月三十日、ここに熊本洋学校の生徒三十四名が、キリスト教の盟約を結んだ。碑には「熊本バンド 奉教之碑」と徳富蘇峰によって書かれている。蘇峰は、このバンドの中で最も年少の生徒だった。これを揮毫したとき、晩年の蘇峰は若き日のことを思って如何なる感慨を抱いたことであろうか。ある意味で、これは蘇峰にとっては「玉疵」であったのかもしれない。

内村鑑三は、乃木大将の名前を「武士道と云へば直に勇気を思はせられます。乃木大将、東郷大将、其他我国古今の歴史を飾る勇士烈婦の行為は、国の礎また民の誇りであります。日本人は義の為には死を恐れません。日本人が賤しむものにして卑怯の如きはありません。義を視て為ざるは勇なき也であります」という文章の中で出している。

内村鑑三は、武士道の上に接木されたる基督教と言ったが、乃木大将にも、武士道の上に接木された何ものかがあったのではないか。明治の他の軍人たちに比べて、「一番純粋な痛烈な」武士道であったのは、普通の武士道の上に接木されたものが、乃木大将の場合にはあったからではないか。それは何か。私は、萩の乱の「玉疵」ではなかったかと思う。

萩の乱では、敵味方に分かれた実弟は戦死し、恩師玉木文之進は自刃したのである。そして、この「玉疵」は決して「瘤」になることがなく、「疵」のままであり続けた。それが、乃木大将において殉死という山鹿素行の武士道を超えたものが出現した根源にあるものなのではないか。素行は、『山鹿語類』の中の「殉死を弁ず」に見られるように、殉死を批判している。

「同じ性質」の二つ目は、ピューリタンということである。内村鑑三が学んだ札幌農学校のクラーク博士は、厳格なピューリタンであった。内村の基督教も、ピューリタニズム(清教徒精神)の性格を強く持ったものであった。そして、このピューリタニズムは、サムライ精神と共振性が高かった。大正の末、内村は、海老名弾正に「海老名君、君と僕が死んでしまったら武士的基督教は無くなるよ」と言ったという。内村鑑三と同じ札幌バンドの一員で内村の友人であった新渡戸稲造が、『武士道』を書いたのも、納得されるのである。

一方、乃木大将は「和製ピューリタン」と言われたのである。大濱徹也の『乃木希典』は、乃木大将について書かれた本の中で、私見では恐らく最も優れたものであり、私も多くをこの書から学んだ。この著作は、大濱氏が、二十九歳のときの著作であり、その完成度から言って、村岡典嗣の名著『本居宣長』を連想させる。この『本居宣長』も、村岡氏が二十七歳のときのものである。青春において、何か人間には全てが分かってしまうという経験をもつことがあるようである。恐らく、村岡典嗣も大濱徹也も、その後の長い研究生活において、この若いときの処女作を超えることはできなかっただろう。これが、人生における栄光でもあり残酷な宿命でもあるのである。

この『乃木希典』の「日露戦争後の社会と乃木希典」の部の第五章「社会風潮と乃木」の中に、「キリスト教徒になったとの風聞」という小見出しの下に、次のように書かれている。

エクセントリックな人間と乃木をみるのは、「なにも日露戦争後にはじまったことではなく、すでにドイツ留学より帰国して以来徐々に形成されていた。乃木がみずから描いた軍人の理想像に忠実たらんとして質素な生活をする姿は、軍人が政治に関与し、また経済的 な利を求める傾向が強まるなかで、清廉潔白な人との感を与えた。とくに、馬蹄銀事件などでの身の処し方は乃木の姿をつよく印象づけたのである。そのため、第四次休職のとき、乃木は『基利期( 斯)篤(きりすと)信者ニ相成(あいなり) 候(そうろう)為メ陸軍ノ現役ヲ追出サレ候トカ世間ニ流布(るふ)サレ』(明治三十四年八月六日、出石献彦宛)たほどである。これは、乃木が自己を抑制して生活する姿のなかに、キリスト者の禁欲生活とつうずるものがみられたからにほかならない。後に『和製ピューリタン』と称される因はこのてんではなかろうか」

「馬蹄銀事件などでの身の処し方」というのは、義和団の乱の終結後、天津城を日本軍が占領した際、そこで分捕した馬蹄銀をひそかに私有したことが露顕し、乃木の部下である杉浦少佐にも嫌疑がかかったとき、乃木は、痛憤し、その責任をとって辞表を提出したことを指している。

「ドイツ留学より帰国して以来」とあるが、西南戦争後、乃木は「酒びたりの毎日であった」。「乃木の豪遊」として知れ渡っていた。大濱の本には、「乃木の遊蕩は同藩出身の伊藤博文らの話題になるほどであった。伊藤は遊び好きであり、女好きなことにかけては当代一の男で『マントヒヒ』侯といわれ、ならぶものなき遊蕩児である。乃木の遊びぶりは、遊びなれした伊藤の眼をひくほどのはげしいものだったといえよう」と書かれている。

この乃木の一面は、乃木を崇敬する人々の余り触れたがらないものだが、私はこれがあるからかえって乃木大将の偉大さがあるのだと思っている。

ドイツ留学から帰国してからのことについて、同書には「かれは昔のように紅灯緑酒の街を徘徊することなく、かつての乃木希典を想像出来ないほどの変貌をしめしたという。この変身は、同僚たちの眼をみはらせ、驚かせるものだった」とある。そして、田中義一の同郷の先輩乃木についての回想が引用されている。

「将軍は、若い頃は陸軍切つてのハイカラで、着物でもつむぎのそろひで、角帯をしめ、ゾロリとした風をして『あれでも軍人か』といはれたものだ。所がドイツ留学から帰つて来た将軍は、友人が心配したのと反対に、恐ろしく蛮カラになつて、着物も、愛玩の煙草いれも、皆人にくれてしまつて、内でも、外でも、軍服で押し通すという変り方、それが余りに酷いので、その訳を聞くと、『感ずる処あり』といふだけで、どうしてもいはなかつた。今に知人仲間のなぞとなつて居る」

この「感ずる処」とは何か。この「なぞ」は、ほとんど回心といっていいものだったのではないか。乃木は、単に「清廉潔白」な人間だったのではない。謹厳実直で質素倹約の人間だった訳ではない。その精神の根底で「回心」と言えるようなほとんど宗教的な心の動きがあったに違いない。「和製ピューリタン」とは、実に正鵠(せいこく)を得た表現であった。この回心には、アウグスティヌスの回心を思わせるものがあるといってもいいのではないか

「同じ性質」の三つ目は、エクセントリックということである。先に、エクセントリックな人間と乃木をみるのは、「なにも日露戦争後にはじまったことではなく、すでにドイツ留学より帰国して以来徐々に形成されていた」という文章を引用したが、この「和製ピュー リタン」は、普通の人間からすれば、エクセントリックとも見られる人間であった。例えば、大濱の本には、次のようなエピソードが書かれている。

「日清戦争からひきつづき台湾征討作戦に従事した第二師団が仙台に凱旋(がいせん)してきたとき、宮城県知事勝間田稔は、その労をねぎらうべく、仙台中の芸妓を総揚げして園遊会を催そうとした。園遊会に招待された乃木は、芸妓がはべることを聞いて出席を断り、まず戦死者の霊を慰めることを求めたという。ために、招魂祭が挙行され、園遊会は芸妓なしで開かれた。これは、青年時代の乃木が紅裾(こうくん)の居ない宴席などに顔をみせたことがないのと較べると、全く大きな変り様というほかない」。

内村鑑三もまた、エクセントリックと見られる人間であった。それを示すエピソードにはいろいろあるが、ここでは乃木が問題なので触れない。それより重要なのは、このエクセントリックの意味である。eccentricとは、ec・centric であり、ec=ex である。つまり、centerから「外に」あることである。常軌を逸している、あるいはそういう人、即ち変人、奇人の意味に普通、使われる。しかし、私は、このエクセントリックという言葉を、このような意で考えているのではない。

このeccentric という言葉について、二十世紀最大の神学者・カール・バルトが、実に深いとらえ方をしている。バルトの場合は、もちろん、exzentrisch というドイツ語になるが、これをバルトは、「中心を外に持って」と釈(と)くのである。『和解論』(井上良雄訳)の中で、「使徒」について「彼らは、いわば『中心を外に持って』(exzentrisch)生きる」と書いている。そして、「人間がその中心においてこそ自分自身のもとにいないということが、信仰というものの事情である。また、われわれは、次のように言ってもよい。すなわち、人間は、ただ自分自身の外部においてだけ自分の中心におり、従って自分自身のもとにいるのだ」という。

私は、三十代の半ばに、これを読んだとき、大変強い衝撃を感じ、何か重要なことが決定的に分かったような気がした。その頃書いた「狂気と正気(しょうき)」の中で、このバルトの言葉の影響の下、内村について次のように書いた。

「内村鑑三についてエクセントリックという言葉が思い浮かべられるとしたならば、その場合eccentric というのは、中心の外部に(out of center)あるというのではなく、中心が外部にあるという意味でとらえられなければならない。世間の常識あるいは正気という中心から、はずれた外側にいるというようなことではなくて、自分という人間の外部に出てしまった、あるいは自分の外部に自分の中心を発見してしまったということなのである。中心が外部にあるということ、この不可能な状態が或る異様なる緊張感によってかろうじて保たれているということなのである」

乃木が園遊会に招待されたとき、「まず戦死者の霊を慰めることを求めることを求めた」ということを思い出してもいい。乃木にとっては、自分自身よりも、萩の乱、西南戦争、日清戦争、そして日露戦争の「戦死者の霊」という外部が重い存在だったに違いない。乃木大将が、自分自身の中心を見出した「外部」の集約されたものが、明治天皇に他ならなかったのである。

「同じ性質」の四つ目は、ドン・キホーテ的な面である。内村は、死の半年ほど前の日記に「独り静に思ふ、五十年以上も外国人を離れたる日本特殊の基督教を唱へても其実を挙ぐる事は出来なかつた。旧友或は棄教し、棄教せざる者も自分と共に歩む者はなかつた。今に至つて自分独り信仰的ドンキホーテを演じたのではない乎と思ひ、時に憂苦に堪えざる者がある」と書いた。内村鑑三も乃木希典も、「古武士の悲劇的ドン・キホーテ」だったのである。