『日本』令和6年7月号
国語の危機 国家の危機
佐藤健二 /東京都教師会会長
米国教育使節団の勧告で始まつた戦後教育
「国語の危機」は、今に始まつたことではない。最初の危機は、占領中にあつた。米国教育使節団が日本に来たのは、昭和二十一年の三月であつた。総勢二十七名で組織された一行は、わづか一ヶ月足らず滞在しただけで、三十一日にはその報告書を最高司令官のマッカーサーに提出してゐる。その間、日本側は「日本教育家の委員会」を組織し、そこには東京帝国大学総長南原繁をはじめ官公私立学校長、大学教授、宗教関係者、評論家など二十九名が集められた。この委員会が、彼ら使節団のカウンターパートである。
報告書の内容は、序論以下六章に分かれてゐる。その全訳及び解説を、昭和五十四年に書いた村井実氏によれば、(『アメリカ教育使節団報告書』、講談社学術文庫)、「この報告書の出現からすでに三十余年を経た今日では、教育基本法や六三制はもちろん、男女共学も、P・T・Aも、ホームルームも、社会科も、要するに現在の学校教育に関する制度上、行政上、方法上、内容上のほとんど何もかもが、この報告書によって新しくこの国に採用されたものだなどとは、ほとんど考えることもできない人々が少なくないであろう。だが、ほんとうに、この報告書の勧告に応じて、こうしたすべてが始まったのである」と、ある種の慨嘆をこめて書いてゐる。我が国の戦後教育は、GHQにより作られたのである。
使節団による国語の危機
本稿のテーマである「国語の危機」に関して言ふと、全六章中の第二章に「国語の改革」とあり、他の章がすべてさらに多くの節に分かれてゐるのに対し、この章は「国語の改革」といふ章題だけである。
そこで勧告された第一は、「書き言葉の根本的改革」であつた。「書かれた形の日本語は、学習上の恐るべき障害である。日本語はおおむね漢字で書かれるが、その漢字を覚えることが生徒にとって過重な負担となっていることは、ほとんどすべての識者が認めることである」といふ認識を示す。そこで、彼らが要求したのは、「一、漢字の数を減らすこと、二、漢字の全廃およびある形態の仮名の採用、三、漢字・仮名を両方とも全廃し、ある形態のローマ字の採用」といふことであつた。この中でも特に使節団が推奨したのが第三案であり、「本使節団の判断では、仮名よりローマ字のほうに利が多いと思われる。さらにローマ字は民主主義的市民精神と国際理解の成長に大いに役立つであろう」と書いた。
彼らには、言葉にはそれぞれの歴史があること、日本語の場合は大和言葉と漢語とでは来歴が異なり、使ひ分けには根拠があり、それをローマ字で表音表記したら、思想的に大混乱が生じるなどといふことには思ひも及ばなかつたのであらう。今我々は複雑で学習上困難が多いといふことを知りながらも、漢字・平仮名・片仮名の三種の文字を巧みに使ひ分けて、実に豊かな表現文化を創り出してゐるのである。漢字にカタカナ外来語のルビを付ける表記上のバイリンガルなどといふことは、日本でしかできない離れ業である。
この使節団の勧告には、日本側の委員もしっかりと反対意見を述べ、ローマ字表記は不採用となつた。ただ漢字制限は行はれ、当用漢字表や学年別漢字配当表などが導入された。
漢字制限と同時に政府告示がなされ、大きな問題となつたのは仮名遣の変更である。これは必ずしも使節団だけの考へではなく、我が国にも以前から表音式の現代仮名遣を主張する学者などがゐて、国語学者の金田一京助などはその最右翼であつた。公布後もこの変更は禍根を残し、最初に厳しく新仮名遣を批判したのは慶應義塾大学教授の小泉信三であつた。後に評論家の福田恆存がそれに加はり、この金田一・福田論争は、新仮名遣が公布されてから既に十年近く経つてゐたにもかかはらず、三十一年から一年余りも続いたのである。納得できないといふ人は、多くゐたのである。
私の国語の恩師も、新仮名遣について文部省で説明会があつたときに活用の問題に触れ、例へば「あぢはふ」は今まではハ行四段活用と説明してきたが、現代仮名遣では「味わう」と書き、味わわない、味わう、味わえば、でワ行とア行とが混在するではないか、活用は一つの行のなかで行はれるといふ原則が崩れるが、どう教へればよいかと質問したさうだ。文部省の担当官は、アワ行とでも言へば良いのではと答へた、と言つて先生は、我々生徒を前にして、笑ひながら話してゐたことを思ひだす。この話は、私も教師の時に、古文の時間に歴史的仮名遣と現代仮名遣との相違について、古文で学習する歴史的仮名遣が正統な仮名遣であるといふことを説明するときに使はせてもらつたものである。典型的な便宜主義による文化破壊の一例である。
かくして、我々は千年以上の歴史を持つ歴史的仮名遣から切り離され、現代仮名遣とともに生きることになつた。今となつては、とてもすべてを歴史的仮名遣に戻すことは不可能であることは分かつてゐる。だからこそ、一部の者だけでも、歴史的仮名遣が正統表記であることを理解して、伝へていく必要がある。私的に使ふことは許されてゐるので、現にこの『日本』も歴史的仮名遣を原則とすると謳(うた)つてゐるのである。
高校国語における「国語」の危機
長らく高校国語の領域は現代文・古文・漢文の三領域で定着してをり、現代文の指導内容は、小説・評論・詩歌といつた三分野を教へることになつてゐた。それは小説で人間精神の多様性や心情表現を学び、評論で論理構成力や思想性・批判精神を育成し、詩歌で韻律を伴つた言語表現の豊かさやイメージ喚起力、言葉の感性を養ふためであつた。しかし、平成三十年三月に定められた新学習指導要領は、従来の高校国語の枠組みを大きく変へてしまひ、さらに国語力を低下させるのではないかと危惧されるのである。
その変化に気づかせてくれたのは、月刊『正論』(産経新聞社)四月号の「言葉を考える」といふ特集であつた。そこに掲載されてゐた四本の論考の一つに、文藝評論家・国語教師前田嘉則氏の「国語の『混乱』をごまかすな」といふ論考があつた。前田氏は、進学校として知られる中高一貫校の現職の国語科教員である。