『日本』令和6年7月号
七月号巻頭言 「真木和泉守辞世」 解説
文久三年(一八六三)八月十八日の政変により、長州藩兵は、御所堺町御門警護の任を解かれ、三条実さね美とみら七卿と共に京から退去せざるを得なくなり、都における尊王攘夷派(討幕派)は一掃されることとなつた。
真木和泉守は、直後から京都奪還の策を講じ、長州藩主に建言して行つたが、藩主らは一意恭順に決し、容易に動かなかつた。しかし、翌元冶元年六月五日の池田屋事件を契機として、京都回復を図ることとなつた。
和泉守は、清側義軍と称する浪士隊三百名を率ゐて上京し、天王山に陣した。他の長州軍も各所に陣し、長州藩主などの赦免を嘆願したが聞き入れられず、七月十八日、松平容かた保もり討伐の名の下もとに出兵と決し、それぞれ洛中に進軍した。和泉守の一隊は、丸太町から堺町御門に至つたが、鷹司邸における戦闘は、福井・会津・桑名・薩摩軍の攻撃の前に敗色濃厚となり、山崎に退くこととなつた。
「大日本史恐おそろしく敷候そうろうあいだ間、此この節せつは見事戦死の積りに御座候」と覚悟を決めてゐた和泉守は、生存の人々を説得して帰国せしめ、死を共にすることを嘆願した同志十六名と共に、御所を遥拝して天王山山上で挙兵討幕の全責任を取つて自害したのである。その時詠み、三条実美に届けられた辞世がこれである。
(堀井純二)