『日本』令和6年7月号
物語水戸学(三) ― 楠公景仰 ―
梶山孝夫 /水戸史学会理事 博士(文学)
楠公墓碑の建立
光圀公の実践として後世に与えた大きな影響の一つは楠公墓碑の建立です。この墓碑建立は、楠公景仰の具体的な表明として重視してよいものです。事実、江戸時代を通じて墓碑に詣でる人々は、後を絶ちませんでした。とりわけ幕末の志士たちは、楠公墓碑を仰いで自らの志を固めました。
それでは次に楠公墓碑の建立経過を具体的にたどってみましょう。光圀公が楠公の顕彰を思い立ったのは、吉野の朝廷(南朝)の正統を確信したころかと推定されるのですが、建立の意志を示したのは五十代の半ばから後半にかけてのころです。これより少し前ですが、 吉野で佐々介三郎(さっさすけさぶろう)が楠公関連の史料を発掘し、また『大日本史』編纂の史料にするために『参考太平記』(『太平記』の研究書)の編纂も始まっていますから大いに関心が高まってきたことは明かでしょう。
楠公の墓所は、摂州湊川(今日の神戸市)の広厳寺(こうげんじ)にありましたが、他藩の領地でしたから墓碑を建立するのは容易ではありません。光圀公は広厳寺の住職に建立の意志を伝えて協力をお願いしますが、具体化するのは元禄三年(一六九〇)です。この年、広厳寺の住職から連絡があり急速に建立の話が進むのですが、光圀公は、藩主を綱條(つなえだ)公に譲って隠居します。以後、建立の指示は水戸、そして隠居先の西山から行なわれることになります。翌年には、
〇 建立の費用は光圀公が負担するので、表向きは広厳寺が取りはからったようにする。
〇 墓碑には、楠公の官職と姓名、そして光圀公の文章を刻む。
〇 建立の工事には担当者を派遣するが、来年の春か夏ごろになるだろう。
という計画が決定されるのです。しかし、水戸藩内の事情や、湊川の領主の了解を得ることなどに時日を要して、実際の工事は元禄五年四月に入ってからのことでした。光圀公の意志を受けて湊川に派遣され、現地の指揮を託されたのは佐々介三郎です。介三郎は彰考館の総裁を務め、考古学史上高く評価されている那須国造碑(なすこくぞうひ)の修復にも携わっており、まさに適任者でした。これから半年の間、墓碑建立に奔走します。実際の建立工事は、計画とは異なって光圀公の責任のもとに堂々と行なわれました。
介三郎は、京都の御用屋敷で準備にかかり、湊川に赴いたのは六月になってからでした。石工を手配して工事に入り、八月に墓石が完成しました。墓石には表に光圀公が揮毫された「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字が、裏に朱舜水(しゅしゅんすい)の文章が刻まれることになりました。「嗚呼」は感嘆を表わす言葉です。「楠子」は孔子や孟子と同じで尊敬の意を込めています。舜水の文章は、光圀公が刊行した舜水の文集に収められていたのですが、光圀公は、楠公を讃えた素晴らしい文章であるとして選んだのです。その文章にはおよそ次のようなことが記されています。
「人生に忠孝があるのは、自然界に日月(じつげつ)があるのと同じです。日月がなければ、天下は闇であるように、人生にもし忠孝の道徳が失なわれれば、世の中は乱れ賊がはびこることでしょう。聞くところによりますと、楠公は、忠勇節烈で並び立つものがなく、戦術に秀でており、よく武士の心を得て、中興の大事を成し遂げ、皇室に貢献されました。しかし、前門の狼を退治すれば、後門の虎が迫り、いかんともすることができないのを見て、子にあくまで大義を守り、朝廷をお護りしなさいとの教訓を残して、自らは従容(しょうよう)として討ち死にしましたが、父子兄弟ともに代々忠孝の道徳を全うしたことはめざましいと言わなければなりません」
墓碑の建立は多くの困難を克服して、この年十二月に成し遂げられましたが、それは介三郎の奮闘なくしてできることではありません。ここに光圀公と介三郎主従の墓碑建立にかけた篤い絆をみることができるでしょう。
楠公墓碑を仰ぐ
楠公の働きは、朱舜水という外国人をも感動させたわけですが、水戸藩では墓碑建立の前から墓前に詣でた人がいます。もちろん水戸藩ばかりでなく多くの人々が景仰の心を抱いているのですが、まずは今井弘済(こうさい)という史臣の「楠公を弔うの文」から紹介しましょう。この文章には安積澹泊(あさかたんぱく)の跋文(あとがき)がありますが、それによると広厳寺の住職のもとにあり、光圀公の命によって跋文を書いたとあります。延宝七年(一六七九)の成立です。延宝の年号の後は天和・貞享・元禄と続きます。墓碑建立の元禄五年からみると十三年も前のことです。弘済が詣でたときには墓域こそは整備されていましたが、墓碑はなく梅と松との二株のみが植えられていたようです。
この文章では兵庫と湊川の地勢を述べた後、当時の動向の概要にふれ、そして楠公の誠忠を叙述してその行動に賛辞を贈っています。さすがに『参考太平記』の編集を託された弘済ならではの文章といえるでしょう。
もう一文を紹介します。すでに史臣として紹介した大串雪蘭(おおくしせつらん)が書いた「楠公の碑を拝するの文」です。完成した楠公墓碑を仰ぎ、その感慨を記した文章です。成立は建碑の二年後です。雪蘭は次のように述べています。
「楠公はあらゆる才能を備えた人物であり、武人としての事蹟は改めて述べるまでもなく、儒学者の風があります。光圀公は史臣を派遣して史料を集めましたが、とりわけ楠公関連には意欲を注ぎ、景仰にはただならぬものがありました。墓碑建立もその例であり、その 精神を後世に伝えようとしたことは誠に偉大です。楠公がこの地に葬られたことを、人々が知らなかったわけではありませんが、埋もれてほとんどかえりみることがなかったのです。光圀公ひとりがこのような情況を正そうとしました。楠公と光圀公は時代こそ異なり 長い年月を距てていますが、お互いに朝夕に遭うがごときでありました。光圀公は楠公のごとく、また楠公は光圀公のごとくに、為すところを為したことでしょう。この墓碑は天地とともにあって、崩れることがないに違いありません。私が光圀公の使いでこの地に至り、この文章を作ったのは、各地からやってきて墓碑を仰ぐ人々に光圀公の志を知ってもらうためです」
舜水と弘済の文章は、墓碑建立の前に書かれたものですから、光圀公の建碑についてふれていないのですが、雪蘭のこの文章は建碑についてふれており、しかも楠公と光圀公とが時空を超えて今まさに遭うがごとくの心の交流を記しています。墓碑建立の意義をみごとに明らかにした名文ということができるでしょう。
このような楠公景仰は、後世の人々にも受け継がれていきますが、とりわけ幕末の志士たちは篤い景仰の念を寄せています。『大日本史』編纂の事業を継承した水戸学の人々についてはいうまでもありません。
『大日本史』の楠正成伝
『大日本史』の列伝には楠正成伝があります。執筆したのは三宅観瀾(みやけかんらん)という史臣ですが、その文才によって光圀公に仕えて史館総裁になった人物です。関連史料は介三郎が集めましたが、必ずしも十分ではありませんでした。それにもかかわらず観瀾は少ない史料を吟味しつつみごとな伝記を完成しました。当時集めた史料によって、墓碑には楠公の官職と姓名が刻まれました。そこには「河摂泉三州守贈正三位近衛中(かせつせんさんしゅうのかみぞうしょうさんみこのえちゅうじょう)」とあります。河内・摂津・和泉の三国の守護を兼ねたということですが、このことは列伝にも採用されています。また列伝には足利方の史料も活用されていますが、吟味を施し取捨選択して考証の経緯も記していま
す。そのほか『参考太平記』や『花押藪(かおうそう)』(花押の研究書)にも記載しています。ただ、正三位という官位は、今日確証が得られていないために疑問があるようです。ところで、観瀾が光圀公に見出されたのは、楠公の墓に詣でて作った詩がきっかけでした。この詩には後に長文の序がつけられ、そこには楠公の精神を余すところなく叙述するとともに、光圀公の墓碑建立にふれ、楠公の足跡を永遠に伝えていると述べているのです。観瀾が墓碑に詣でたのは建碑の四年後のことでした。観瀾は京都の人ですが、栗山潜鋒(くりやませんぽう)の推薦もあって最晩年の光圀公に仕えることになります。楠公伝のほかに新田義貞や高師直・師冬など多くの伝を書いています。潜鋒とは神器の考え方に違いがあってか、後に水戸を去って幕府に仕えています。