『日本』令和6年8月号
八月号巻頭言 「後鳥羽上皇御製」 解説
後鳥羽上皇のこの御製、奥山は文字通り深山、おどろは棘とげのある荊いばら、乃すなわち棘のある荊をかき分けると、その下には道が存在してゐることを人に知らせたいといふ意味であるが、道とは道路のことではなく、道徳のことである。上皇は荊が生ひ茂つた奥山になぞらへて、そのやうな世であつても道徳は厳然として存することを人々に訴へられたのである。
当時は鎌倉幕府の支配下であつたが、頼朝の薨こう去きょ(正治元年=一一九九)以後の幕府は、梶かじ原わら景かげ時ときの滅亡(一二〇〇)、比企(ひき)氏の乱(一二〇三)、将軍頼家の幽閉(一二〇三)と翌年の殺害、畠山重忠の滅亡(一二〇五)などが相続いた。世はまさに荊生ひ茂るやうな状況であつたのである。
上皇はこのやうな幕府の有様を見て、国家・社会の平安を取り戻し、道徳の確立した世の実現を願はれたのである。それは天皇親政による国家の再建に他ならない。
上皇はその思ひを込めて承元二年(一二〇八)三月、住吉における歌うた合あわせに際し、山の題で詠まれたのがこの御製である。承久三年(一二二一)の承久の変は、一時的な幕府への怒りから行はれたものではないのである。
(堀井純二)