『日本』令和6年8月号
日本人が知るべきアメリカ大統領と政党史
宇山卓栄 /著作家
十一月五日に投開票されるアメリカ大統領選は四年前と同じく、民主党のバイデン大統領と共和党のトランプ前大統領の対決となる可能性が高いです。バイデン大統領は八十歳を超えた年齢への懸念が民主党支持者の間でも強く、一方でトランプ前大統領は、今後始まる刑事裁判の行方が大きな懸念となるとともに、七月十三日、ペンシルバニア州集会で狙撃される事件があったように、暗殺の危険があるとされます。
大統領選挙を控え、アメリカの主要な大統領の業績や政党の変遷の歴史を改めて、確認しておきましょう。
◆初代 ジョージ・ワシントン(在任一七八九年~九七年)
ワシントンはアメリカ移住民の四代目で、一族はヴァージニアの農園経営で成功していました。実直な人柄で周囲の信頼を獲得し、軍人として頭角を現します。
一七七五年、アメリカ独立戦争が始まると総司令官に任命されます。ワシントンはゲリラ戦法を展開し、イギリス軍を翻弄(ほんろう)しました。アメリカ軍は各地における自発的な志願兵により構成されており、それぞれの地の利を活かした陽動作戦を展開しました。
ワシントンは、局所的かつ散発的にイギリス軍を奇襲攻撃し、追い詰めていきます。一七八一年、 ヨークタウンの戦いでアメリカ側の勝利が確定し、八三年、パリ条約でイギリスがアメリカの独立を承認しました。
ワシントンは、独立戦争を勝利に導いた功績で、一七八九年、アメリカの初代大統領に選ばれます。当初、ワシントンを国王に据えようとする動きもありましたが、ワシントンは「王制はアメリカ建国の精神に反する」と主張し、王になることを固辞しました。アメリカは、イギリスの身分制支配や植民地支配に立ち向かってつくった自由を尊ぶ国、それがワシントンの考える「アメリカ建国の精神」でした。ワシントンの主張で、アメリカでは王制は採用されず、大統領制に基づく共和国となることが決定しました。
ワシントンは大統領になってからも、質素に振る舞い、「閣下」という敬称で呼ばれることを嫌ったため、「ミスター・プレジデント」という呼称が定着します。
ワシントンは人の話をよく聞きながらも決断力と行動力がありました。その名声は高まり、大統領職二期目を周囲から要請されます。ワシントンはこれを断りますが、最後は要請に従います。三期目を要請された時には、断固として拒否しました。そのため、大統領職は二期までという慣例がつくられました。
この慣例を破ったのがフランクリン・ルーズヴェルト大統領です。第二次世界大戦中の危機対応を理由に、四期目まで務めました。
ワシントンは党派政治を嫌いました。財務長官のハミルトンと国務長官のジェファソンが連邦政府のあり方を巡って激しく対立します。集権型の政府を推進しようとするのが連邦派(フェデラリスト)で、それに反対し、分権型の統治機構を推進しようとするのが反連邦派(アンチ=フェデラリスト)でした。
ワシントンの意思に反し、既に党派政治の対立構図が出来上がりつつありました。ワシントンは連邦派に賛同していましたが、表向きは中立を装い、両派のバランスを取ることに苦心しました。
◆七代 アンドリュー・ジャクソン(在任一八二九年~三七年、民主党)
一八二〇年代、男子普通選挙(白人のみ)が拡大し、一般民衆の支持を背景に大統領に就任したのがジャクソンです。西部農民の出身者で、米英戦争の時に活躍した将軍でした。
ジャクソンは、自らを「普通の人」の代表者と位置付け、それまで選挙権を持っていた一部の土地所有者や富裕層ではなく、一般市民の利益を代弁する「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれる政治を展開していきます。
ジャクソンは、自らを支持する後援会組織のメンバーを官職に就ける猟官制を実行します。当時も公職には少なくない報酬と利権があり、それを一部の富裕層が独占していました。ジャクソンは猟官制により、選挙当選に功績のあった後援者を要所要所の公職に据え、中央から地方に至るまで政府の人員を刷新しました。この猟官制は「スポイルズ・システム」とも呼ばれます。「スポイルズ」は「戦利品」を意味する語で、文字通り、事実上の論功行賞でした。
この人事制度は、それ以前の支配層を排斥する革命に匹敵するものとして大きな意味を持っていたのです。ジャクソンらは公職を配分することは、一般民衆が政治に参画するための当然の権利であると主張していました。
また、ジャクソンはインディアンに対する苛酷な排除を行い、白人のための新たな土地を獲得していきました。
ジャクソンを支持する党派は民主党で、彼らの政治手法をポピュリズム(大衆迎合)として批判し、対立した党派が国民共和党です。元々、唯一の政党であった民主共和党が存在していましたが、そこから両派が分裂しました。ジャクソンの時代に、今日に繋がる二大政党政治が確立したのです。
国民共和党は、ジャクソンの前の大統領であったジョン・クィンシー・アダムズやその支持者たちが、一八二四年につくった党派で、民主党と激しく対立しました。しかし、その後、ジャクソン派優位の中で、内部対立や離党者などを出し、ホイッグ党に吸収されて組織改編し、さらにホイッグ党の統制力も弱まると、一八五四年、新たに共和党が結成されます。
ジャクソンは一般民衆の味方として振る舞いましたが、自身は三十歳代の時に既に農業経営者として成功しており、広大な農園と数百人の黒人奴隷を所有していました。
◆十六代 エイブラハム・リンカーン(在任一八六一年~六五年、共和党)
アメリカの週刊誌や政治雑誌では、歴代大統領の人気投票ランキングがよく掲載されます。人気のある大統領の三傑がリンカーン、フランクリン・ルーズヴェルト、ワシントンです。大衆紙になるとケネディなどが入ったりします。リンカーンは、ほとんどの人気投票でナンバーワンです。
リンカーンは開拓農民の子として生まれ、様々な職を転々としながら、弁護士となり、持ち前の演説のうまさで、イリノイ州地方議員、下院議員に選出されます。一八五〇年代、奴隷制反対の論客として世間の注目を浴び、一八六〇年の大統領選に出馬して勝利します。
十九世紀の半ば以降、北部を中心にアメリカでも工業化が進み、北部商工業者(ブルジョワ)は共和党を組織し、南部農業者を中心とする民主党勢力に対抗しました。
両者は貿易政策や奴隷制を巡って激しく対立し、もはや収拾がつかなくなっていました。南部にとって広大な農地を耕す労働力である奴隷は必要不可欠ですが、北部は南部の奴隷制を、憎悪を込めて、批判し始めていました。
北部のブルジョワ商工業者の台頭とともに、共和党のリンカーンが大統領に当選しました。リンカーンは、アメリカが自由国家となるか、奴隷国家となるか、どちらか二つに一つであると主張しています。南部諸州はリンカーンの大統領就任に反発し、連邦を離脱、武力衝突が生じ、南北戦争(一八六一― 六五年)が起こります。
戦争中の一八六三年、リンカーンは奴隷解放宣言を発表しましたが、これに反発した南部諸州は不利な戦況であったにも関(かか)わらず、自分たちの生存を賭けて、決死の覚悟で戦いに挑み、血で血を洗う陰惨な内戦となります。最終的に、北軍がゲティスバーグの戦いにより勝利します。
南北戦争は単なる奴隷解放を巡る内戦にとどまらず、ブルジョワ階級が地主などの旧勢力を抑え込み、アメリカの近代工業化を成し遂げるために必要な戦争であり、イギリスやフランスなども経験した近代ブルジョワ革命に匹敵するものと言えます。
しかし、南北戦争で五十万人の犠牲者が出ました。どのような理由があったとしても、これ程の犠牲者を出す泥沼の内戦に嵌(は)まってしまった責任をリンカーンは為政者として、問われるべきでしょう。
江戸時代末期に、アメリカのペリーやハリスの率いる黒船が来航し、一八五八年と六一年に不平等条約を締結させられます。このとき、既に、中国の清(しん)王朝は列強の餌食(えじき)となっていました。アメリカも中国進出への足掛かりを得るために、日本へやって来たのです。
しかし、その直後に南北戦争が起こり、その後も数十年間、戦争の後遺症に苦しめられ、対外進出できませんでした。この間、日本は明治維新を成し遂げ、近代化へと進みます。もし、アメリカで、南北戦争が起こらなかったならば、日本は近代化の機会を失い、アメリカに従属させられていた可能性もあります。
◆二十六代 セオドア・ルーズヴェルト(在任一九〇一年~〇九年、共和党)
南北戦争後、一八六九年、大陸横断鉄道が開通し、西部の開拓と国内市場の整備とともに、資本主義工業化が急速に進みました。南北戦争の後遺症に苦しみながらも、政治・経済の社会構造が新たに再編されました。アメリカは一八九〇年代に、イギリスを追い抜いて、世界一の工業国となります。そして、いよいよ新たなマーケットの開拓を求め、海外進出します。
こうした状況の中、登場した大統領がセオドア・ルーズヴェルトでした。セオドアはフランクリン・ルーズヴェルトの遠い親戚(十二親等離れている)に当たります。元々、一族はオランダ人移民の富裕な貿易商でした。
セオドアは若くして、ニューヨーク州議会議員となり、熱心な共和党員として活動していました。親友の下院議員ヘンリー・C・ロッジが、時のマッキンリー大統領にセオドアを引き合わせました。マッキンリー大統領はセオドアの能力を見抜き、一八九七年、海軍次官に抜擢します。
マッキンリー大統領はアメリカの海外進出は避けられないと見ており、そのための海軍の組織刷新をせねばならず、セオドアのような若く優秀な人材を求めていました。
アメリカは一八九八年、アメリカ・スペイン戦争で、スペインが支配していた領域を奪い、カリブ海などの中南米諸国、フィリピン、グアムなど太平洋地域にまで進出しました。セオドアはこの間、自ら、義勇兵を率いてキューバに侵攻しています。
キューバ侵攻で名声を得たセオドアは一九〇〇年、マッキンリー大統領の副大統領となります。マッキンリーは一九〇一年、無政府主義者に暗殺されたため、副大統領のセオドアが大統領に昇格します。
セオドアは「棍棒(こんぼう)外交」と呼ばれるカリブ海やラテン・アメリカの地域への強圧的支配を進めました。「棍棒外交」とは「棍棒をたずさえ、おだやかに話せ」とセオドアが言ったことに由来します。パナマのコロンビアからの独立を支援し、独立したパナマ共和国からパナマ運河の租借権を得て、一九〇四年、パナマ運河の建設に着手します。こうして、アメリカは世界進出を着々と進めていきます。
セオドアの帝国主義的政策は、民主党から「世界的に危険な罪悪」と激しく批判されましたが、セオドアは「我が国は膨張とともに世界に飛躍すべき」と主張して譲らず、国民からも支持されました。
一方、セオドアは大資本の市場独占を抑えるために、一八九〇年、シャーマン反トラスト法を制定し、市場の自由開放を進めます。一部の大企業だけが儲けを独占する市場ではなく、均衡ある発展を目指そうとしました。
また、セオドアは日露戦争後の一九〇五年、ポーツマス条約で両国の仲介役を買って出ます。セオドアは終始、日本が有利になるように、日本の肩を持ち、ロシアを牽制(けんせい)しました。アメリカにとって、太平洋地域における真の脅威は日本ではなく、大国ロシアでした。ポーツマス会議で、日本とアメリカは接近し、相互協力関係を結びます。
◆二十八代 ウッドロー・ウィルソン(在任一九一三年~二一年、民主党)
二〇二〇年五月に米ミネソタ州で、アフリカ系黒人が白人の警察官に殺害された事件で、黒人差別に反対するBLM運動が起こりました。この運動の影響で、プリンストン大学の研究機関として有名な「ウッドロー・ウィルソン国際問題研究所」の所名から元大統領の名前を外すと大学は発表しました。大学は「ウィルソンの人種差別は、当時の基準に照らしても重大だった」と説明しました。
ウィルソンは国際平和主義者として讃えられますが、露骨な人種差別主義者で、プリンストン大学の学長だった時に、黒人学生を大学から一斉追放しました。また、一九一九年、国際連盟で、日本が提案した人種差別撤廃宣言に強硬に反対したのもウィルソンでした。
一九一七年、ウィルソンは第一次世界大戦の途中から、連合国側で参戦することを決定します。翌年、ウィルソンは議会において、有名な「十四カ条宣言」を行います。その第五条には、植民地問題の公正な解決方法として、いわゆる「民族自決」の原則が記されていました。
しかし、この原則とは裏腹に、ウィルソンは中南米諸国への支配を強化しています。ウィルソンはセオドアの「棍棒外交」を批判していますが、ハイチを第一次世界大戦後の一九二〇年、ウィルソンが提唱した国際連盟が発足しますが、アメリカ自身は国内議会が反対し、参加することができませんでした。ウィルソンの失態を奇貨として、イギリス、フランスが自らの都合の良いように国際連盟を利用しました。
このときの議会の多数派は共和党で、民主党のウィルソンと対立していました。ウィルソンは国際連盟設立の件で、事前に共和党に根回しをせず、単独で事を進め、共和党議員らの反発を買っていました。普通、このような重要な外交案件では、与党が野党に対する議会対策を事前に根回ししながら、事を進めていくのですが、ウィルソンは議会運営に疎(うと)く、これを軽視したため、足をすくわれてしまいました。
そもそも、ウィルソンは政治家でも党派人でもなく、大学教授で理想主義的な発言をするコメンテーターとして人気を博し、ニュージャージー州知事となり、大統領までなった人物です。
◆三十二代 フランクリン・ルーズヴェルト(在任一九三三年~四五年、民主党)
ルーズヴェルトはニューヨークの州議会議員となり、民主党内の若い改革派の騎手として、地元党組織の刷新を断行し、名声を得ます。ルーズヴェルトの党活動がウィルソン大統領の目にとまり、一九一三年、海軍次官に任命されます。遠い親戚のセオドアと奇しくも同じキャリアを歩むことになります。
ルーズヴェルトはセオドアと同じく、中南米諸国へ海軍を派遣し、拡張主義をとりました。第一次世界大戦が始まると、反ドイツの急先鋒として、海軍の予算と組織拡大に取り組み、戦争の勝利の立役者として注目を浴びます。
一九二〇年の大統領選挙で、ルーズヴェルトはジェームズ・コックス大統領候補の副大統領候補に選出されますが、共和党のハーディングに大敗します。一九二九年、ニューヨーク州知事となり、一九三二年の大統領選に出馬して、勝利します。
ルーズヴェルトはニューディール政策により、世界恐慌のどん底から、経済を立ち直らせたと高く評価されています。しかし、今日では、ニューディール政策の効果が本当にあったのかどうか、疑問視されています。一九三八年に景気が再び悪化し、二番底へと向かい、GNPは六・三%減少、失業率は一九%に拡大、株価は半減しました。その下落のスピードは株価においても、鉱工業生産においても、二九年の恐慌に匹敵する深刻なものでした。
ルーズヴェルトは「日本の脅威」を執拗に喧伝し、危機を煽(あお)り、太平洋戦争へと突入していきます。ルーズヴェルトの前の大統領であったフーバーは著書『裏切られた自由』で、ルーズヴェルトを「狂人」と批判し、戦争を望んだのは日本ではなく、ルーズヴェルトだったと述べています。ルーズヴェルトはニューディール政策の失敗を隠すため、また、ソ連の要望を満たすために、戦争を望んだとフーバーは主張しています。
ルーズヴェルトは日本人に対する強い人種差別的思想を持っていたことを、イギリスのキャンベル駐米公使などが証言しています。戦争が始まると、ルーズヴェルトは「大統領令9066号」に署名し、日系人を令状なしに捜査・連行することを可能にします。日系人の強制収容所を建設し、多くの日系人の財産を奪った上、連行し、過酷な労働に従事させました。
その一方で、テヘラン会談を開催するなどして、ルーズヴェルトはソ連のスターリンと協調しました。一九四五年二月のヤルタ会談では、日本の共同分割支配をスターリンと話し合い、ソ連の東欧諸国に対する支配権を認めます。ヤルタ会談の二ヵ月後、ルーズヴェルトは脳卒中で急死します。
副大統領のトルーマンが大統領に昇格すると、ルーズヴェルトの日本の共同分割計画を撤回します。もし、ルーズヴェルトが急死しなければ、日本はドイツと同じ、分断国家になっていたでしょう。
◆三十五代 ジョン・F・ケネディ(在任一九六一年~六三年、民主党)
ケネディ家は十九世紀に渡ってきたアイルランド人移民でした。ケネディの父のジョセフ・ケネディはインサイダー取引を伴う株売買で巨万の富を得て、様々な事業を展開します。儲けた巨額の金をフランクリン・ルーズヴェルトに献金をして、初代SEC(証券取引委員会)の委員長に抜擢され、また、駐イギリス大使にも就任します。
父の資金的なバックアップで、ケネディは若くして下院議員、上院議員に当選します。議員としてのケネディの実績は何もありませんでしたが、一九五六年、副大統領候補の予備選に立候補します。予備選には敗北しましたが、演説の名手として党内で名声を得ました。
一九六〇年、民主党大統領候補の予備選に出馬しましたが、トルーマン元大統領から、「君はまだ若すぎる」として、出馬を思いとどまるよう説得されましたが、ケネディは四十四歳の若さを売りにする戦略でした。
民主党の予備選を勝ち抜いたケネディは共和党のニクソンとの大統領候補者テレビ討論で、視聴者に好印象を与えることに成功し、大統領選挙に奇跡的に勝利します。
ケネディは一九六二年のキューバ危機に対応し、国内では、黒人が選挙権などを得るための公民権運動を支持し、解決への道筋をつけました。一九六三年、南部遊説中にダラスで暗殺されました。
◆三十七代 リチャード・ニクソン(在任一九六九年~七四年、共和党)
歴代大統領の中で、最も人気のない大統領がニクソンです。ニクソンは陰湿な謀略家というイメージが強く、汚職の疑惑が絶えません。しかし、ニクソンが成し遂げた政策は重要です。
ニクソンは雑貨屋兼八百屋の子として生まれました。優秀な成績であったため、貧しいながらも奨学金を得て、大学を卒業し、弁護士になります。アメリカ企業の世界進出を助ける企業顧問弁護士として活躍しました。
そして、下院議員となり、対ソ連強硬派で「赤狩り」の推進者であったジョセフ・マッカーシー上院議員とともに反共運動を展開し、名を馳せました。一九五二年の大統領選挙で、アイゼンハワーの副大統領候補に指名されます。この時、ニクソンはわずか三十九歳でした。
その後、大統領選挙でケネディと争い敗北しますが、ようやく一九六九年、大統領となります。ニクソンは、キッシンジャーを国務長官に起用し、泥沼化したベトナムからのアメリカ軍の撤退を模索します。一九七三年、パリ和平協定に基づき、ベトナム戦争を終結させました。戦争は始めるよりも終わらせる方が難しいのです。
ニクソンは一九七二年、電撃的に中国に訪れ、米中の外交関係を樹立し、ソ連を牽制します。また、ドルと金の交換停止をおこない、為替の変動相場制への移行へ道筋を付けます。環境保護庁の設立、自動車の排気ガス規制など、外交と内政において、多くの成果を達成しましたが、ウォーターゲート事件により、任期途中で辞任しました。
ウォーターゲート事件は、ワシントンのウォーターゲートビルにある民主党本部に共和党筋の人物が盗聴機を仕掛けようと侵入して、逮捕されたことに端を発し、不法な情報活動が常態化していることが明るみに出され、ホワイトハウスは事件をもみ消そうとして、かえって疑惑が深まったスキャンダルです。