9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年8月号

少年少女のために今日という日 (昭和二十年八月十五日)
 終戦の日

 夏秋正文  /佐賀大学医学部 元助教授


大東亜戦争(だいとうあせんそう)(米国は太平洋戦争と呼称)は、アジアの安定を目標に、欧米の独断的なアジア侵出を阻止するために、やむなく日本が立ち上がった戦争です。終戦の日を迎えて、戦争の起こった理由と終戦後に日本の置かれた立場について、振り返りたいと思います。

大東亜戦争の戦勝国が、戦敗国を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)の連合国の主張では、満洲事変をきっかけに満洲国の成立を企図した日本の領土的野心が、やがて勃発する大東亜戦争の主たる原因としました。しかし、このような主張が正当であるかどうかは、歴史的事実を良く確認する必要があります。


日本の満洲における特殊権益

日露戦争の勝利によって、日本が正当に獲得した満洲の権益、旅順や大連の租借、南満洲鉄道の経営権は、当時の国際連盟や米国も日本の特殊な権益と認めていました。日本が参入する頃の満洲の状況は、現地の軍閥の張作霖(ちょうさくりん)、張学良(ちょうがくりょう)の政治により、現地の住民も不安定な状況の土地柄でした。ソ連や欧米は、満洲の権益を分割しようと企図していました。それに対して日本は満洲国を設立し、産業を育成し、生産力の高い社会環境を目指しました。南満洲鉄道(満鉄)の敷設経営はその成果の現われで、豊かな国造りの象徴的存在となりました。満洲国は産業の育成が実を結び、豊かな国土となり人口も五千万人を超える繁栄を迎えました。

しかし一方では、満洲に鉄道利権や商業権の拡張を求める米国は、日本の鉄道権益などを縮小させ、米国の商業販路を拡大することに努めるようになりました。米国の領土的野心は、キューバ、フィリピン、ハワイまでにおよび、やがてアジアにも進展してきました。米国がどうして日本を排除するようになったかは謎の多いところですが、やがて米国での排日移民法などを成立させ、石油の輸出禁止など日本を孤立化させる政策をとりました。最終的には、「ハルノート」を提出し、「シナ(中国)及び仏印(ベトナム、カンボジア、ラオス)」からの撤退を要求しました。米国の提出したこのハルノートを、米国からの最後通牒(つうちょう)、宣戦布告と日本は解釈しました。資源の乏しい日本への石油の禁輸や満洲からの撤退要求などは、日本の死活問題であり、安易に容認することはできず、開戦という手段をとらざるをえませんでした。(平泉澄著、『日本の悲劇と理想』)。

かくして昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃を端緒に、日米戦争へ突入することになります。日本は、戦争の初期には、華々しい戦果をあげましたが、資源が乏しく国力に劣る日本は、やがてミッドウェー海戦に敗れたことを転機として、敗北への道を進んで行きます。米国は日本の都市に空襲を行い、日本本土への上陸作戦を計画しました。沖縄への上陸は、その始まりであり、沖縄は防波堤となり、多くの犠牲者を出しました。


終戦内閣

米国はポツダム宣言を日本に提言し、軍隊の無条件降伏などを求めました。このような厳しい状況のなか、終戦の混乱を最小限に迎えるべく、終戦内閣の首相として、天皇陛下の信任の篤い鈴木貫太郎氏が推挙されました。軍人である鈴木大将は、軍人は政治に口出してはいけないという信条のもと、当初は首相就任を断りましたが、陛下の度重なる懇請により、引き受けることを決意し、終戦内閣は困難な課題を克服し、昭和二十年八月十四日、御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可を得て、同日夜、終戦の詔書が発布されました。

翌十五日、天皇陛下御自身が、直接国民に意思を伝えたいとの御要望により、詔勅(しょうちょく)が玉音放送されました。国民も軍部も堪えがたきを堪え、詔勅に従い、戦争を収束することができました。昭和天皇の御聖断により、軍部も矛を収めました。


パール判事

終戦に伴い、占領軍である米国が日本を統治することになります。日本のこれまでの歴史を塗り替える作業や新憲法の制定が占領軍の指令のもとに行われました。また極東国際軍事裁判が断行され、戦勝国による戦敗国を裁く裁判が行われました。十一人の判事のなかでただ一人、インドのパール判事が、法の真理を貫き、A級戦犯の全被告無罪、すなわち日本無罪を主張しました。パール判事の意見書の末尾に、次のような東京裁判を批判する痛烈な一文があります。

「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剝(は)ぎとった時には、そのときこそ、正義の女神は、その秤(はかり)を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」。

賞罰はそのところを変えなくてはならない。勝ったがゆえに正義ならず。負けたがゆえに罪悪ならず。金持ちの上にも、貧乏人の上にも、ひとしく通用する心理が、いまこそわれわれの手によってうち立てられなくてはならない、とパール博士は説いています。これは、パール判決文とも呼ばれています。

アジアへの侵略は、ソ連や欧米がまず手を染めており、そのことをパール判事は批判しています。満洲事変より大東亜戦争勃発に至る歴史の真実を東京裁判のパール判決文を通して理解することが大切であり、当時の満洲の権益は日本の正当な特殊権益であったことがわかります。日本は大東亜戦争に敗(やぶ)れましたが、アジア各国は欧米の植民地支配より開放されました。日本の果たした役割も肝に銘ずべきと思います。