『日本』令和6年9月号
「陰謀論」に惑わされない社会を作る
宮地 忍 /元名古屋文理大学教授
「陰謀論」「ディープステート(陰の政府)」「Qアノン」などという、奇妙な用語が広がり始めている。「政治、社会の陰に、それを動かしている集団が存在する」との考えで、実力行動を伴う危険もはらんでいる。こうした考えを、「陰謀論」という。虚偽の情報も広がりやすいインターネットの時代。変人、奇人たちによる奇妙な世界観と見過ごすのではなく、真剣に対処することが必要になって来たようである。
その奇妙な思考方法に対面して
筆者が「陰謀」という言葉に直接対面したのは、昨年末のことだった。駅前広場で、自衛隊の反撃能力保持に反対の署名集めをしている極左系らしい人たちと出会った。「ウクライナもロシアに反撃してはいけないのか」と議論を吹き掛けてみたところ、答えに窮しているようだった。そして、「そもそもあの戦争は、米国の資本家、財閥などの陰謀でロシアも動かされている」と言い出し、啞然(あぜん)とさせられたものだった。
続いての体験は、ある団体の懇親会の席だった。令和四年七月の安倍晋三・元首相の暗殺事件について、「容疑者とされている山上徹也の犯行ではなく、別の狙撃犯がいる。山上の犯行とするのは、真相を隠すための陰謀だ」と言い出した人がいて、これにも唖然とさせられた。「山上以外に真犯人がいる」との説は一部に出回り始めてはいたが、身近に聞いたのは初めて。この人が、後に作った資料を読むと、論拠とした研究者の発表は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の新聞などで紹介されており、旧統一教会への恨みにより安倍・元首相を撃ったという山上容疑者の供述から視点をそらす説であるようだった。
その他、何人かから届くメール情報便でも、「ディープステート」「ネオコン(新保守主義)」「グローバリスト(地球主義者)」などと書いたものも目に付くようになって来た。これらの闇勢力が、見えない所で全てを決する陰謀を行っているのだとしている。
代表例としての米国「Qアノン」
「陰謀論」について、改めて考えてみると、近年、大きな話題になったのは、四年前の米大統領選挙だった。ここでバイデン氏に敗れたトランプ大統領(当時)が、「開票の操作が全米で行われた」と言い出し、支持者による連邦議会議事堂の襲撃事件に発展した。
当時、米国では「Qアノン」と言われる説が影響力を持ち始め、トランプ大統領もこれを助長した。「Qクリアランスの愛国者」という人物によるネット投稿によるもので、「Q」という匿名(アノニマス、略してアノン)の投稿者によるものとして、「Qアノン」と呼ばれ、「世界規模の児童売春組織を運営する悪魔崇拝者、人肉食者たちの秘密結社が、世界を裏で支配している。トランプ氏は、彼らと密かに戦っている」という説は、やがて新興宗教的に育って行く。
民主主義諸国の先頭にいると信じられていた米国での開票疑惑の提示、「Qアノン」という政治、宗教運動が連邦議会襲撃にまで発展した衝撃に、「陰謀論」というものが注目を浴びることになった。それ以降、「陰謀論」の考察が進む一方、それに取り込まれる人たちも目立つようになって来た。
陰謀論者の自己満足感
「陰謀」が、二人以上で密かに悪事を計画することとの意味なのに対し、重大な事件や社会的な動きが、その背後にいる邪悪な集団によるものだとする考えを「陰謀論」という。普通の人たちが、根拠に基づく議論で共通認識を深めて行くのに対し、これらを否定するところに「陰謀論」の特色がある。
無自覚な人々は、事象を多角的に考える努力を怠り、一見特異な考え方に飛び付きやすい。妄想と思い込みによる「邪悪な集団」を恐れることで、仲間意識が育って行く。同時に、多くの人たちが知らない真相に、自分たちだけは気付いているとの満足感も広がって行く。
欧米では、十八世紀からの「フリーメーソン」が「陰謀論」の対象とされることも多いという。中世に石工(メーソン)の組合から始まり、やがて酒場に集まる教養人などが宗教団体を模したサークルを広げて行ったもので、現在では世界に約六百万人の会員がいるとされる。半ば閉鎖的、半ば開放的な運営をしていることから注目され、陰謀を図っているとも見なされ、ローマカトリック教会は信者の入会を禁止して来たという。
「陰謀論」が蔓延しやすいのは、一神教であるキリスト教の文化も背景となるのか、新型コロナの流行でも、「ウィルスは中国が意図的に流布させた」「ワクチンは効果がなく有害。製薬会社の陰謀である」という議論が広がった。ネット時代で、そうした情報は日本にも拡散、ワクチン接種を拒否する人がかなりいたものだった。
ネット時代、こうした無自覚な人々も簡単に情報を拡散することができるが、注目すべきは、無自覚な人々を満足させる偽情報を意図的に流布させる人々が存在することである。偽情報は、極端なほど閲覧回数を増やすことができ、広告収入などと結び付けることもできる。年初の能登半島地震や、八月九日に起きた南海トラフ関連地震でも、「次の地震が間もなく起きる」といった偽情報が出回った。
こうした偽情報のほか、ロシア、中国、北朝鮮などの情報機関や関連組織が、対象国の社会的混乱を狙った情報操作もあり得る。偽情報において、その発信者を探究し遮断することは、犯罪捜査、情報工作対策の対象であり、「陰謀論」の対象ではない。それが、「Qアノンから発せられている」「ディープステートの工作」と短絡、思考停止した時から、「陰謀論」となる。
ネット世界からの偽情報遮断の動き
「陰謀論」を生み出す偽情報に、どう対応すべきか。繰り返しになるが、情報は一つのものを正しいと思い込まず、多様な情報に触れること。誰かが何かをやっているとの情報を一時的に受け入れる場合、その根拠を考え続けること。もちろん、個人の考えの場合には、根拠なくある判断を行っても良いが、それは他人と共有できるものではないと自覚することが大切である。
偽情報のうち、「偽」と分っていて発信する情報に関しては、取り締まりの対象ともなる。
火事でもないのに「火事だ」と騒げば、軽犯罪法違反となる。ネットにおいても、名誉毀損、プライバシー侵害などの被害を受けた個人は、プロバイダ(接続業者)に発信者情報の開示を求めることができる。情報開示をしない業者は、名誉毀損などの共同加害者となる。
一般的な意味の偽情報については、それを監視、遮断する努力も国際的に始まっており、プロバイダにも積極的な協力が求められている。総務省も、「インターネット上の偽・誤情報対策技術の開発・実証事業」を進めているが、非協力的な事業者は営業停止とするような決意が必要だろう。言論の自由との兼ね合いはあるが、明白な偽情報の流布は遮断されなくてはならない。監視、検索体制の強化が問われている。