『日本』令和6年9月号

九月号巻頭言 「急務所見」抄 解説

黒木少佐は、大正十一年(一九二二)九月、岐阜県の下呂で出生された。海軍機関学校在学中から平泉澄博士を師と仰いで「皇国の正学」修得に励み、大東亜戦争の頽たい勢せいを挽回すべく、初めて特攻兵器「回天」を考案して、昭和十九年(一九四四)五月八日、「急務所見」を全文血書で認したため、海軍首脳部へ提出された。

所見は四節から成る。その第二節の一部を巻頭言に抄出した。「人間魚雷」によつて「回天護国ノ道」を切り開く戦法こそ「急務」と訴へるのみならず、国策として「天下ノ人心ヲ一いつニス」るため、「国家教学ニ其ノ人ヲ得ルベキ事」などを求めてをられたのである。

この「回天」は、間もなく採用されるが、訓練中の九月七日、黒木少佐(当時大尉)は満二十三歳直前で殉職された。

そこで、平泉博士は、直ちに少佐を慰霊されると共に、二十年後の昭和三十九年、「楠公回天祭」を創め、それから六年後に出版の『少年日本史』掉尾(とうび)で、少佐の「至誠」「純粋の道義心」を特筆してをられる。

(所  功)