9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和6年9月号

 義の日本思想史(九)

 新保祐司  /文芸批評家


  第九章 遥かなる山中鹿之介
一 広瀬町の月山富田城跡

私の母方の実家は、島根県東部の出雲地方にある広瀬町である。今は、安来市広瀬町になっているが、私が子供の頃は、能義郡広瀬町であった。

小学生のときには、夏休みに確か二回ほど母親の里帰りに伴われて兄と一緒に二週間くらい過ごした。実家は、祖父が開いた魚屋だった。引き継いだ伯父さんが朝早く境港まで魚を仕入れに出かけた。店の名物は、鯖焼きだった。腸をとった鯖一匹をそのまま竹串で刺し通し、それをいくつも並べて炭火で焼いていた。伯父さんは、夏の暑さと炭火の熱で大汗をかいていた。日本酒をコップで飲みながらやっていたように、記憶している。

東京の世田谷に暮らし、父親が大企業の勤め人だったから、ずいぶん違う生活環境だった。世田谷の方は、東京オリンピックを機に大きく風景が変わっていったが、広瀬町の方は、実家の前の道路を挟んで立ち並ぶ家々の先には大きな川が流れ、その向こうにはそれほど高くない山があり、森が続いていた。その山の名前も知らなかった。川で、従弟たちと魚を獲って遊んだものである。

出雲大社は、行く度に連れて行かれた。そのとき、何を感じたかはよく覚えていないが、古い歴史のある土地なのだということに誇りを感じたことは確かである。事実、この当時は、出雲地方の田舎の方に行けば、考古学的な遺物が簡単に発見できたようである。広瀬町の近くの揖い屋やというところで育った従弟は、子供の頃から遺物の発掘に熱中して、京都大学で考古学を学び、今や、考古学者になっている。

このように、私にとって広瀬町というのは、山陰の田舎の一典型であり、いわゆる日本的風景が広がっているという印象しかなかった。誇るところがあるとすれば、安来節の安来市に近いことや古代出雲の歴史が感じられるということであった。

それが、三十五歳近くになって、この広瀬町についての或る記述に出会ったのである。私が、季刊「三田文学」に内村鑑三についての批評文を二年間にわたって八回連載したのは、一九八七年秋号から一九八八年夏号であった。その六回目の「菊花の約ちぎり」と題した章で、鑑三の最もクリティカルな問題である再臨信仰を、上田秋成の『雨月物語』の中の名篇「菊花の約」に表現された「武士の信義」と二重写しにして論じた。「菊花の約」の丈部左門と赤穴宗右衛門の「約」と、神の約束とそれに対する鑑三の信仰をだぶらせてみたのである。「信義」、やはり義の問題である。義とは、約束の問題でもあるのである。

この「二重写し」というのは、私自身はそれほど意識していなかったのだが、詩人の多田智満子さんがこの表現を使われたのである。多田さんとは、連載中に開かれた三田文学関係の懇親会で初めてお会いした。そのとき、私が連載していた内村鑑三についての話が出たように覚えているが、この連載を『内村鑑三』という本にまとめた年の翌年の月刊「みすず」の「読書アンケート」にこの本をとりあげられたのである。それには、「日本人はこの大八嶋に遍満する『神仏』を拝むが、どうもキリスト教は苦手の人が多い。そんな日本的風土の中で、もうほとんど名前しか記憶されていない明治のキリスト者内村鑑三について、このようにしっかりと本質を見据えた評論を書ける人がいようとは、まことにさわやかな驚きであった。鑑三のいわゆる無教会主義とは、たんに教会に対するアンチテーゼであったのではなく、『宗教改革の仕直し』であり、『世界史的試み』であったと、新保氏は説く。これらの論が『三田文学』に連載された当時から、私は眼を瞠みはって読んでいた。特に『菊花の約』は『雨月物語』の同名の小説をふまえ、日本的信義と鑑三的信仰を二重写しにした、みごとな一章である」と書かれていた。今から思うと、私がやってきたことは、「日本的信義と鑑三的信仰を二重写しにした」構図の中で、別の言い方をすればこの二つを定点とした楕円形の中で、様々な芸術や思想を批評するということに他ならなかった。

『雨月物語』は、多分大学生の頃に、岩波文庫か何かで読んで、その中の「菊花の約」には特に強い印象を受けていたのであろう。記憶の中で眠っていたものが、再臨信仰に関係して「約束」という重要な言葉をめぐってあれこれ考えているうちに、その言葉に呼び出されるように頭に浮かんだのである。

そして、その章を書くに際して、引用文の正確を期すためにも、手元にあった新潮日本古典集成の一巻『雨月物語 癇癖談』を改めて丁寧に読み直したら、次のような条で奇しき偶然とぶつかったのである。それは、赤穴宗右衛門が丈部左門の問いに答えて「己が身の上をかたりていふ」ところである。

「故(もと)、出雲の国松江の郷に生長(ひととな)りて、赤穴宗右衛門といふ者なるが、わづかに兵書の旨を察(あきら)めしによりて、富田(とみた)の城主塩屋掃部介(えんやかもんのすけ)、吾を師として物学びしに、近江の佐々木氏綱に密(みそか)の使にえらばれて、かの館(みたち)にとどまるうち、前の城主尼子(あまこ)経久、山中党をかたらひて大三十日(おおみそか)の夜不慮(すずろ)に城を乗りとりしかば、掃部殿も討死ありしなり」

ここの「富田」に付けられた注を見たら、「島根県能義郡広瀬町にある。『とだ』と訓むのが正しい。現在も立派な山城を示す月山城跡がある」とあって、大変驚いた。赤穴宗右衛門が「菊花の約」を果たすために、「みづから刃に伏」すのも、閉じ込められたこの富田城である。この富田城は、「大三十日の夜不慮に城を乗」っとられてからは、尼子氏の居城として毛利氏に滅ぼされるまで中国地方支配の拠点となる。子供の頃、遊んだ川が富田川という名前であることもそのとき知った。

私は、「菊花の約」の重要な舞台が、母方の実家の広瀬町にあることを知って、言い知れぬ喜びを感じた。それ以来、もう一度広瀬町に行って富田城址を訪ねてみたいものだと思い続けていたが、平成六年(一九九四)の十月末に実現した。『内村鑑三』を上梓してから四年後だった。隠岐島で、『隠岐島コミューン伝説』という著作がある評論家の松本健一さんが企画したセミナーがあり、それに参加するのを利用して、家内と一緒に行くことにした。実に三十年ぶりであった。

夜行寝台列車の出雲3号で、東京駅を夜九時過ぎに出発して、翌朝の十時頃安来駅に着く。それから、バスに乗って二十分くらいで終点の広瀬町に入る。バスを降りて実家の方へ歩いて行く。何といっても島根県は過疎地だから、街並みや風景は余り変わっていないようだが、ほとんど記憶がなかった。本屋と雑貨屋を一緒にやっているような店があったので、正面のガラス戸を見ると、富田城城下町復元図なるものの広告が貼ってあった。中に入って、一部買い求めた。そして、店のおじさんに、富田城址のある月山はどこか、と聞いたら、店の外に一緒に出て来て、店の後方の山並みの中で、いかにも山城にむいていそうな山容の山を指して、あれだといった。せいぜい二百メートルくらいのものだろう。

実家に着いて、親戚の何人かと久闊を叙した後、その年には八十歳になっていた伯父さん(もう息子に店の経営を任せていたが、鯖焼きはまだやっているようであった)と私より少し年上の従姉が、道案内をしてくれることになり、四人で出発した。月山の麓には、広瀬町の資料館があって、そこまでは車で五、六分であった。その資料館で月山富田城址についてのパンフレットをもらって、それを見ながら登って行った。そのパンフレットの中で、大きくとりあげられていたのが、山中鹿之介であった。それまで、私は、山中鹿之介という武将について余り意識したことはなかった。しかし、その人物と生涯については大体知ってはいた。テレビの時代劇で戦国時代を取扱ったものなどに、よく(しかし、脇役として少し)登場していたからである。

山中鹿之介は、月山富田城を居城に山陰を治めた尼子氏の家臣である。勢力を拡大してきた毛利氏にこの山城を攻め落とされ、尼子氏が毛利氏の軍門に下った後も、鹿之介は一途に主家の再興を計って幾多の戦いを続けた末に捕らえられた。そして、ついに謀殺された悲運の武将である。新潮社の編集者で井伏鱒二の担当だった藤野邦康さんと何かのことから尼子氏について話していたとき、井伏が、尼子はいつも負けてばっかりいるんだよと独特のペーソスをこめて語っていたと聞いたことがある。

その山中鹿之介の大きな銅像が中腹に立っていたが、先に引用した上田秋成の文章の中に、「山中党」とあったように、確かに富田城に拠点を置いた尼子氏といえば、山中鹿之介なのであった。山頂までは、小一時間の道のりである。途中には、「現在も立派な山城を示す」石垣が、何か所か残っていた。秋の美しい花や柿の実の色に眼を奪われながら、昔、私が夏休みに来た頃の思い出などで話がはずみ、かなり急な勾配の坂道も、余り苦にならなかった。

少し息を切らしながら、やっと山頂に達したが、城の遺跡はもう何も残っていない。曇りがちの午後であったので、視界は余りよくなかったが、よく晴れた日には、松江の方向に中海が見え、さらには次の日に渡る隠岐島まで望見できるとのことだった。これは、四百年前の鹿之介の時代も変わりあるまい。山頂にある山中鹿之介の碑の前で、写真を撮った。

しばらく休息した後、下山して、実家まで車で富田川沿いに走りながら、三十年前に川遊びをした場所はどの辺だろうかと探してみたが、十数年前に上流にダムが出来て水量が減り、川原の風景が一変してしまっていた。この辺だったのよ、と従姉に教えられて、車を降りて、周りの景色を見渡すと、今登った月山が丁度斜め前方にあるのだった。ということは、当時、何も知らずに、富田城址の下の方で遊んでいたことになる。時々は、月山も眺めたに違いない。これも、或る「約」の下にあったということであろうか。


二 「願わくば我に七難八苦を与え給え」

私は、月山富田城址に登って遥かなる山中鹿之介にやっと出会ったのである。ここまで島根県の広瀬町などについて長く書いたが、これは、私のような戦後生まれの日本人にとって、山中鹿之介という武将が、ずいぶんと遠い存在であることを象徴的に示したいからに他ならない。それと、歴史上の人物と出会うということは、その人物についての知識を得るということとは全く別のことであることを言いたいからだ。邂逅がなければ、真に対象を知ることはできない。小林秀雄は、「無常といふ事」の中で「記憶するだけではいけないのだらう。思ひ出さなくてはいけないのだらう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしてゐるので、心を虚しくして思ひ出す事が出来ないからではあるまいか」として、「上手に思ひ出す事は非常に難かしい」という名言を書き記した。私は、月山富田城址で、山中鹿之介を「上手に思ひ出」したように思われる。

実は、鹿之介は戦前にはかなり有名な武将であった。明治に入ってからは『尼子十勇士伝』をはじめ、立川文庫の一冊『山中鹿之助(ママ)』などによって、鹿之介は国民的英雄になっていく。そして、昭和十二年度から使用された『小学校国語読本尋常科用巻九』には「三日月の影」という作品が載っていた。少年時代の鹿之介が兄から先祖伝来の冑を譲られて感激し、山の端にかかっている三日月を仰いで、「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈ったという話である。これにより、当時の少年少女によく知られた歴史上の人物となった。

成人した鹿之介が、七難八苦に耐えて何をしようとしたかというと主家である尼子氏の再興であり、どんな困難にも打ち勝って主君のために尽くそうという精神は、戦時中の忠君愛国の時代思潮に適合するものでもあった。戦前は、このように忠義の士としての人物像が形成されていたのであった。

しかし、戦後は一転して、この忠君愛国の精神の涵養に利用された人物像が災いして、鹿之介は否定的にとらえられるようになってしまった。戦前と戦後で、はっきり評価が変わってしまった人物は、第三章でとりあげた北畠親房をはじめとして数多いが、鹿之介もその典型の一人であろう。

『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人・藤枝梅安』などで知られる池波正太郎に、山中鹿之介をとりあげた『英雄にっぽん 小説山中鹿之介』(昭和四十六年)がある。集英社文庫(平成十四年の改版)の解説(縄田一男)には「戦後、この武将を主人公にした長篇は、長い間、本書のみであったように思われる」と書かれている。事実は、松本清張が、書いている。清張は、昭和三十年前後に、武田信玄、徳川家康、黒田如水などをとりあげた歴史小説を執筆しているが、その中の一冊である。山中鹿之介について書いたものは、雑誌掲載後一度も書籍化されることがなかった。凡作であると本人も知っていたからであろう。平成二十七年に初めて一冊となって刊行されて、翌年文庫化された。私は、この文庫本を読んだが、つまらない作品であった。根本的には、山中鹿之介という人物に深く共感するところがないからである。

このことは、池波正太郎の作品についてもいえる。「問題なのは、鹿之介の人間像の捉え方である」と縄田氏は、指摘しているが、確かにこれが問題である。戦後全くとりあげられなくなった山中鹿之介を、主人公にして長篇小説にしたのは「長い間、本書のみ」だったことを称賛することはできないのである。『英雄にっぽん』というタイトルに感じられるのは、「にっぽん」というひらがなで書いていることから分かるように、日本に対する軽侮である。山中鹿之介は、英雄ではあるが、「英雄にっぽん」なのである。「にっぽん」的な英雄なのである。それは、次のようなところに出ている。一つは、鹿之介が織田信長と初めて対面した後のこと。

広間に出て、三階の居室へもどった織田信長は、侍臣にこういった。

「あの山中鹿之介というやつ、いまどき、めずらしき男じゃ」
信長の顔に、苦笑がうかんでいる。

「うまく尻をたたいてやれば、よろこび勇んではたらくことであろう」

信長の声には、あきらかに(人のよい田舎ものめ)という軽侮のひびきがあった。

「うまく、あやつっておけい。われらの役に立たぬこともあるまい」

もう一つは、羽柴秀吉が、上月城その他を攻め落とし、ここに播磨一国を制圧したので、近江・安土城の織田信長のもとに帰って、報告する場面。

「これにて、毛利攻めの仕度が、ととのいてござります」

と、報告をし、信長もまんぞくそうに、

「尼子党は、よう、はたらいたそうな」

「ははっ。上月攻めの折の、山中鹿之介をごらんにいれとうござりました」

秀吉は、いささか昂奮ぎみになり、戦場における 鹿之介の勇猛きわまる戦闘ぶりを語るや、「ふむ……」 かすかに笑った信長が、

「小さな山城ひとつ、攻めとるにはうってつけの男よな」

事もなげに、いいはなったものである。」

決定的なのは、毛利元就の死を知ったときのことである。

元就の死をきいた山中鹿之介は、

「天、いまだ、われを見捨てたまわず 」

 躍りあがってよろこんだものである。

このときの鹿之介の心境は、昭和の大戦中にアメリカ大統領・ルーズベルトが死んだので、アメリカの攻撃がにぶるにちがいないとおもいこみ、「万歳 」を叫んだという日本軍将官の――それも支那大陸の奥地あたりに押しこまれていた一部の将官たちの心境に似ているようだ。

この最後の記述からもうかがえるように、池波正太郎の山中鹿之介に対する軽侮の念は、作者自身の戦時中の経験が関係している。戦後日本の経済的繁栄の中で、『鬼平犯科帳』などがテレビドラマとして人気を博した大衆作家は、山中鹿之介をこのようにしか書けなかったのである。清張にしても、「いつも大敵に挑みながら、一生を思う存分に暴れた」人物として書けただけである。

江戸時代の頼山陽は、「虎狼の世界に麒麟を見る」と詠った。明治では、勝海舟が山中鹿之介を『忠臣蔵』の大石良雄(内蔵助)と並べて評価している。海舟は、有名な『氷川清話』の中で、「潔癖と短気は日本人の短所」ということについて語っているところで鹿之介の名前を出している。ただ死ぬことを軽んずるばかりを武士の本領とする教育が行われて、一般の風潮がとかく一身を潔くするのを良しとするようになったこと(これは、人生の美学と言えるのかも知れない)を惜しみ、「こういう風な潔癖と短気とが、日本人の精神を支配したものだから、この五百年が間の歴史上に、逆境に処して、平気で始末をつけるだけの腕のあるものを求めても、おれの気に入るものは、一人もない。しかし強いて求めると、まあ石良雄と、山中鹿之助(ママ)との二人サ」といい、「山中鹿之助(ママ)が、貧弱の小国をもって、凡庸の主人を奉じ、しばしば失敗して、ますます奮発し、斃れるまでやめなかった」ことを称賛している。大石内蔵助と山中鹿之介は、義の人なのである。

この大石内蔵助と第五章でとりあげた山本常朝奇しくも同年の生まれである。そして、『葉隠』の中で有名なものの一つに、赤穂義士への批判がある。「日本の名著」の『葉隠』の訳で示せば「赤穂浪士の仇討も、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでのあいだが長すぎる。もしもそのあいだに、吉良殿が病死でもなされたときにはどうにもならないではないか。上方の人間は小利口だから、世間から褒められるようにするのは上手である」と皮肉っている。ここにも、佐賀藩の田舎武士の「上方の人間」に対する僻みが出ているように感じられる。美の山本常朝の言う仇討とは、直ぐに駆けつけ、敵が多数であろうとも斬って斬って斬りまくり、運がなければ死ねばいいという「知恵も業もなにも要らない」「死狂い」であった。

山中鹿之介の精神の核心は、三日月を仰いでの祈願「願わくば我に七難八苦を与え給え」にある。これは、よく考えると不思議な祈願である。「願わくば我に幸いと富を与え給え」と多くの日本人、いいかえれば美の日本人は祈願する。三日月ではなく、占領下に形成された「戦後民主主義」という偶像に「願わくば我に安楽平和を与え給え」と戦後の日本人は頼っている。しかし、山中鹿之介の「我に七難八苦を与え給え」とは、内村鑑三の言う「ユダヤ的」なものである。「我に勝利を与え給え」と山中鹿之介は祈ったのではないのである。「艱難」の中に、深い意味を感じ取る感受性が、そこにはある。この「艱難」のただ中に義は突き刺さるのだ。

関ヶ原の戦いの後、出雲の中心は、松江に移った。山城の月山富田城から、平城の松江城に代わった。松江城は、美であり、国宝である。そして、美の江戸時代の中期には、藩主として「松平不昧公」こと松平治郷という大名茶人が登場する。稀代の数寄者大名とも言われる。義の山中鹿之介から美の松平不昧公へと時代は移ったのである。

十数年前に、広瀬町に久しぶりに行く機会があった。安来市にある美術館として有名な足立美術館に寄ってみたが、その周辺に所々のぼりが立っていた。何ののぼりだろうと思ったら、山中鹿之介を大河ドラマに、というようなことが書いてある。NHKの大河ドラマの主人公に、山中鹿之介がなることは地域の活性化につながるとの思いからであろう。地域の英雄を大河ドラマの主人公にと願っている地方自治体は多いらしく、運動もしていると聞くが、義の山中鹿之介は、残念ながら当分難しいだろう。美の『源氏物語』の紫式部が、令和六年の大河ドラマの主人公になるようなNHKと時代思潮だからである。