『日本』令和7年3月号
中東危機の実態に迫る
宇山卓栄 著作家
イスラエルとイラン
令和五年の十月七日にパレスチナのイスラム組織ハマスがイスラエルを襲撃しました。イスラエルはこれに対する報復として、ハマスの殲滅(せんめつ)を目標に、ガザに侵攻しています。ガザ地区は壊滅状態になり、死者は四万人を超えています。
イスラエルは令和五年七月三十一日にハマスの最高幹部イスマイル・ハニヤ氏を滞在先のイランで暗殺したと見られています。
その報復に、イランは十月二日に、イスラエルに向けて弾道ミサイルを数百発撃ち込みました。イランは四月にもイスラエルへの攻撃を行っています。イスラエルの被害はある程度出ましたが、限定的でした。イスラエルは、イランが徹底的な攻撃はできないと見越していたようです。イスラエルはイランの内部情勢を含めて、状況を的確に読んでいます。
よく言えば、イランが自制を効かせているので、全面戦争にならずに済んでいます。その理性的なイランを見越した上で、イスラエルは暴走しています。イスラエル軍は十月二十六日、報復措置としてイラン国内の複数の地域に空爆を行い、ミサイルの製造施設などを攻撃しました。今後のイランの出方が焦点となります。
著者は令和六年六月に、イランをはじめ中東諸国を取材周遊しました。イランの大統領選挙が行われている最中に同国に滞在しました。大統領選挙は左派改革派のペゼシュキアン氏が当選したことは、ご案内の通りです。
大統領選挙の争点は、経済制裁解除と欧米との向き合い方でした。ペゼシュキアン氏は経済を良くするためには、対話が欠かせないと主張していました。これは一般国民にはわかりやすい訴えでした。
イランでは、大統領選挙に立候補するためには、「護憲評議会」による資格審査を経なければなりません。「護憲評議会」はイスラム法学者など十二人で構成されます。「護憲評議会」の人選は最高指導者のハメネイ師らが決めるため、ハメネイ師の意向が大きく反映されます。
八十人が立候補を届け出ていましたが、立候補が認められたのはわずか六人で、実際に立候補したのは四人でした。左派改革派からはペゼシュキアンだけが候補に選ばれ、言わば左派改革派の統一候補となりました。
これに対し、保守派はジャリリ元国家安保相、ガリバフ国会議長、プルモハンマディ元内務相の三人で票が割れたのです。
決選投票になれば、無党派の有権者は雪崩(なだれ)を打って左派改革派に靡くことも想定されました。まるで、左派に勝たせる意図が当局や最高指導者にあったのではないかとも思えます。本選では、投票に行くように当局が何度も催促し、無党派層を動かすよう仕向けていました。
最高指導者は欧米と対話をしたい、路線修正したいとの思いで、改革派のペゼシュキアン氏が大統領に当選することを後押ししていたようにも見えました。実際に、ペゼシュキアン氏はイラン核合意を再建すると明言し、経済制裁を解除することを訴えていました。
イランの有権者らも、経済制裁解除を強く望んでいました。イラン政府はヒズボラなどを支援すべきではない、イスラエルの件に介入するべきではない、国内経済に力を入れるべきと、ほとんどの人が言っていました。イスラエルと関わりを持つと、結局、我々が損をすると。
イランは最早これ以上、イスラエル紛争に積極介入することには否定的、関わりたくない、これが本音でしょう。しかし、イスラエルは紛争を激化させたい、イランを引き込み、更にはアメリカを引き込み、大紛争にしたいと考えています。そのため、ヒズボラとも戦っています。
政治話題に関するイラン人の警戒反応
ところで、イラン人は驚くほど、親日的でした。街を歩いていると「日本人ですか」、「コンニチワ、アリガトウ」と声が掛かります。英語を話す人もそれなりにおり、年配の方では、日本語を話す人もいます。王制時代には、日本の企業もイランにあり、そこで働いていたので、日本語が話せるのです。
愛嬌と人懐(ひとなつ)っこさが特徴のイラン人。世間話をしている間はいい雰囲気なのですが、政治の話を聞くと、「なぜ、あなたはそんなことを聞くのか」と眉を曇らせる人が多かったです。それでも食い下がって聞くと、しぶしぶ話を聞かせてくれます。
皆さん、おっしゃることは同じで、とにかく、経済をよくして欲しい。しかし、政治が変わるなんて思えない、何も期待しない。ライシ大統領の死の件が偶発的事故だったとは思えない、殺されたのだろうと答えていました。
体制を直接批判する人はいないことは共通しており、一様に警戒していました。しかし、皆さん、外交についてはかなり雄弁に語ってくれました。アメリカは酷(ひど)い。いったい、我々が何を国際社会にしたというのか。我々が経済制裁を被らなければならない理由は 何もないと。また、言論規制が厳しく、当局監視のため、ネットが繋がらなくなったり、速度が遅くなったり、不安定になったりします。不便で仕方がなく、私も実体験済みです。
イランでは、女性もたくさん外出しています。中東イスラム諸国では、基本的に女性は家に閉じ込められることが多い文化慣習ですが、イランでは、街中に女性が多かった。イランでも、頭髪を隠すヒジャブは義務付けられていますが、顔全体を覆い隠して目だけ出 すニカブを誰も付けておらず、顔が見えます。男女も一緒に歩いており、これはアラブ諸国には見られない光景です。抑圧されているイメージとは、また違った実態があるのです。
しかし、イランでは、何かと女性の人権が軽視されており、ヒジャブ強要なども、その一つです。不寛容な側面もあるが、寛容な側面もある、これが正しい見方で、どちらか一方の側面だけを強調するのは単なる情報操作です。
イスラエルのレバノン侵攻
イスラエルは、隣国レバノンへの侵攻にも踏み切りました。レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラはイランとも連携し、ハマスを支援しています。
イスラエル軍はレバノン南部に軍を侵攻させるとともに、首都ベイルートを空爆するなどし、昨年九月二十八日、ヒズボラの指導者ナスララ師を殺害しました。
イスラエルはポケベル爆弾を仕掛け、ヒズボラ先鋒部隊への先制攻撃をしました。これは、かなり、効きました。ヒズボラの動きは、内部からイスラエルに筒抜けになっているようです。
戦闘自体はイスラエルが圧倒的に有利です。しかし、制圧となると、また長期化するでしょう。ヒズボラの管轄下にあるレバノン南部を、「第二のガザ化」することがイスラエルの狙いです。じっくりと時間を掛けて料理すればよいというイスラエルの圧倒的自信がうかがえます。
イランはヒズボラも支援するなど、イスラム教シーア派を連携ツールとして用いています。イランは、イラクのカタイブヒズボラ、レバノンのヒズボラ、パレスチナのハマス、シリア政府軍、イエメンのフーシ、パレスチナのハマス(ハマスはスンナ派)を支援しています。
ヒズボラの本拠レバノンは昔から、宗教文明の交差地でした。「Hizb Allāh」はアラビア語で「アッラー(神)の党」の意味します。なぜ、ヒズボラのような武装組織が生まれたのでしょうか。
レバノンは、「オリエント地域のあらゆる民族と宗教をおさめた美しい博物館」と称えられ、首都ベイルートは一九七五年のレバノン内戦以前、「中東のパリ」とされ、フランス統治領であったことから、フランス風の洗練された都市景観で有名でした。
元々、レバノンでは、キリスト教マロン派が主流でした。フェニキア人が築いたシドンやティルスが栄え、古来、地中海交易でヨーロッパと繋がっていました。ヨーロッパとの強い結び付きの中で、レバノン人はアラブ人ながらキリスト教を維持していました。十二世紀、十字軍時代にカトリック教会との接触を機にマロン派はカトリック教会と合同し、カトリックに帰属し、教義もカトリックと同一となります。
レバノンは標高二千メートル級の山岳地帯に覆われており、その地形の複雑さから、宗教的少数者の避難場所となってきました。イスラム教スンナ派のウマイヤ朝が成立した後も、宗教的少数者は山岳地帯に身を隠しました。そして、キリスト教マロン派、シーア派、シーア派から分離したドゥルーズ派がレバノンで生き延びたのです。オスマン帝国からも自治を認められて、独自の共同体を維持することもできました。
一九四三年の独立に際しては、マロン派、スンナ派、シーア派、ドゥルーズ派などで主要閣僚ポストを分配する形で妥協が成立しました。
レバノンには、「宗派主義制度」というものがあり、大統領はキリスト教マロン派から、首相はイスラム教スンナ派から、国会議長はイスラム教シーア派から出します。国会議員の議席割合もキリスト教徒とイスラム教徒が六対五に規定されており、これは今でも続いています。
一九四八年、イスラエルが建国され、パレスチナ難民がレバノン領内に移住し、民族構成はますます複雑化しました。一九五六年、第二次中東戦争(スエズ戦争)が起きると、キリスト教マロン派とイスラム教徒が国内で対立します。一九七〇年からはパレスチナ解放戦線(PLO)がベイルートに拠点を設けました。
そして、一九七五年、マロン派とPLOが衝突し、レバノン内戦が起こります。一九八二年、イスラエルはベイルートのPLO本部を攻撃、レバノン南部を占領します。この時、イスラム教シーア派民兵組織ヒズボラが形成され、レバノン南部のイスラエル軍と戦います。イランの支援も受けました。一九九〇年、シリア軍がレバノンに侵攻し、レバノン国内の親シリア派が政権を握り、内戦が終結しました。
しかし、レバノン南部では、ヒズボラとイスラエルの戦いが続きます。二〇〇〇年、イスラエル軍が撤退します。これ以降、ヒズボラがレバノン南部を実効支配しています。レバノン南部はレバノン政府の管轄が及んでいない、事実上独立した「ヒズボラ国」の状態です。ヒズボラは実効支配地域からイスラエルに対してミサイル攻撃を行い、イスラエルもまた報復空爆をするということが繰り返されてきました。
一方、ベイルートでは、二〇〇五年に、反シリアの民主化運動が起き、親シリア派は退陣、シリア軍も撤退しました。このレバノンの民主化は「杉の革命」と呼ばれます。
シーア派の系譜
現在、イスラム世界全体において、スンナ派が多数派であり、イランやヒズボラなどのシーア派は少数で約一〇%です。
しかし、イランに限って言えば、約九割の国民がシーア派です。なぜ、イランではシーア派が信奉されているのでしょうか。
シーア派では、ムハンマドの娘ファーティマとその婿のアリーの子孫だけを正統なムハンマドの後継者と認めます。彼らは「シーア・アリー」(アリーの信奉者)、略して「シーア派」と呼ばれます。シーア派はアリーを初代のイマーム(「指導者」の意)とし、アリー とファーティマの子孫だけをイマームと認めます。シーア派のイマームは神と人間を結びつける指導者であり、預言者ムハンマドの血統によって決まる君主です。スンナ派のカリフが選挙や戦争などにより、人間によって選び出されたことと対照的です。
シーア派は、人間の判断は神の判断には及ばないとして、指導者を恣意的な人間の判断で選ぶべきではないと主張しました。
シーア派が歴史的に、イラン人に受け継がれてきた理由として、イラン人が反体制者として、アラブ人などの多数派のスンナ派勢力に対抗せねばならなかったこと。そして、もう一つは第三代イマームのフサインはササン朝王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア王族の血を受け継いでいるとされ、イラン人の民族宗教となります。
この、ササン朝王家の女性は、ササン朝の末帝ヤズデギルド三世の娘のシャフルバヌーとする伝承があります。ササン朝は六四二年、ニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に敗北し、滅亡しました。
各国の総人口に占めるシーア派率は、イランがおおよそ九割、アゼルバイジャンとイラクがおおよそ六割、バーレーンがおよそ五割、イエメンがおおよそ四割、レバノンがおおよそ三割となっています。
シーア派がイランに続いて多いのはイラクです。十八~十九世紀、イランのカージャール朝時代、政治混乱を避けて、イランのシーア派ウラマーの多くがイラクに移住、イラクにあるシーア派歴代イマームの墓廟のあるナジャフ、カルバラーなどへ住み着き、イラクにシーア派が集まったのです。イラクのナジャフに、初代イマームのアリーの墓廟があります。
スンナ派のフセイン政権の下では、シーア派が弾圧されましたが、フセイン政権が崩壊した現在では、スンナ派が排除され、シーア派が優勢です。
イラン人が正統と認めるイマームは、初代アリーから十二代ムハンマド・ムンタザルまでの系譜で、この系譜に、イマームが十二人いたため、十二イマーム派と呼ばれます。十六世紀以降、十二イマーム派はイランの国教となります。
十二人のイマーム以降、直系の継承者が絶えます。イマームは死に絶えたのではなく、人々の前から姿を消し、隠れたのだと考えられており、この「隠れ(幽隠)」のことを「ガイバ」と呼びます。「ガイバ」の状態にあるイマームは最後の審判の日に、この世に再臨すると信じられています。
シーア派には、十二イマーム派の他にも、イスマーイール派とザイド派があリます。イマーム位の継承に対し、各派は見解を異にしています。
イエメンでは、シーア派のなかのザイド派を国教としています。ザイド派は五代目のイマームの継承をめぐって別れました。ザイド派のイマームは、九世紀にイエメンに王国を形成(ラシード家王朝)、一九六二年の共和制革命によるイエメン王国崩壊まで継続しました。ザイド派武装組織フーシは、二〇一五年以降、イエメン政府の実権を掌握します。
イスラエル政権の超過激派
イスラエル各地で、反戦デモが続き、ネタニヤフ政権の支持率が低迷している一方で、ネタニヤフ政権を支持する声も根強くあります。
現在、極右政党と連立を組む第六次ネタニヤフ内閣には、ネタニヤフ首相よりも強硬な閣僚であるスモトリッチ財務相、ベングヴィル国家安全保障相らがいます。スモトリッチ財務相は、極右政党の「宗教シオニズム」を率い、ベングヴィル安保相は、「ユダヤの力」を率いています。二〇二二年十一月一日に行われた総選挙では、これらの極右政党が議席を倍増させました。いったい、イスラエルの中のどのような人たちが、極右政党を支持しているのでしょうか。
一九六七年の第三次中東戦争で、イスラエルがヨルダン川西岸を占領して以来、イスラエル人の入植が進み、今日では七十万人以上のユダヤ人が住んでいます。同地域におけるパレスチナ人居住者は約三百万人です。国際法の観点からは、イスラエル人の同地域への入植は違法とされています。
同地域におけるイスラエル人は第二世代や第三世代に広がっており、彼らはここで産まれ育ち、ヨルダン川西岸地域を自分たちの生まれ故郷と見なしています。
それにも関わらず、パレスチナ人との争いが絶えず、なぜ、自分たちの故郷に、邪魔な異邦人がいるのかという不満を募らせています。若い世代は、自分たちが「入植者」であるという意識を持っておらず、その土地での生存権を当然の如く主張し、原住者のパレスチナ人を完全駆逐することを目的としています。
そして、彼らはSNSなどを効果的に活用し、全イスラエルに向けて、ユダヤ人の権利を訴えているのです。極右政党の集会に集う若い熱狂的な支持者はこのような形で、連帯しています。
また、ユダヤ教独特の性規範から、宗教右派は子だくさんの家庭が多く、若い世代に、宗教右派の人口数が拡大するなど、イスラエルの人口構成に大きな変化が生じていることも指摘されています。
極右政党の一つである「宗教シオニズム」を率いるベザレル・スモトリッチ財務相は、ヨルダン川西岸の入植者に厚い支持層を持っています。スモトリッチ財務相は、ヨルダン川西岸出身(生まれはゴラン高原)で、同地域のイスラエル併合とユダヤ人の権利拡大を主張しています。同財務相は、ヨルダン川西岸の占領行政を担当する特任担当大臣を兼任しており、同地域の入植をかつてないほど急増させ、また、入植支援活動を積極的に行い、支持者を固めています。現在、財務相が率いる「宗教シオニズム」から同氏を含めて三名が閣僚となっています。
もう一つの極右政党「ユダヤの力」を率いるイタマール・ベングヴィル党首は、新設の国家安全保障相に就任しています。治安を担当する閣僚であり、警察や公安組織を統括します。特に、ヨルダン川西岸の警察行政を統括し、パレスチナ人排斥とイスラエル人保護の強硬な施策を推進しています。スモトリッチ財務相と同様に、同地域の有権者や強硬派の支持を得ています。
ベングヴィル安保相は、バールーフ・ゴールドシュテインというユダヤ民族主義者の肖像を自宅に掲げていたことで知られています。ゴールドシュテインは、一九九四年、二十九名のパレスチナ人を射殺しました(マクペラの洞窟虐殺事件)。ベングヴィル安保相率い る「ユダヤの力」からも、同氏を含めて三名が閣僚となっています。その内の一人アミハイ・エリヤフ遺産相は、一昨年十一月五日、ガザ地区に核爆弾を投下することもあり得ると発言し、物議を醸しました。
過激派を支持している有権者層とは
一九九三年に調印されたオスロ合意での中東和平プロセスが失敗していく状況で、ヨルダン川西岸を含むイスラエルの入植地で、ユダヤ人とパレスチナ人が対立を激化させ、イスラエル人の不安や不満が募ります。しかし、中道左派は何一つ、有効な手立てを打つことができませんでした。
二〇二一年、ガザ地区で軍事衝突が発生し、イスラエル人とパレスチナ人が抗争状態となり、ヨルダン川西岸の治安情勢も悪化するなどし、西岸の事実上の併合を推し進めることを主張する勢力が伸長し、極右政党の台頭を招いたのです。
「宗教シオニズム」や「ユダヤの力」に比べれば、ネタニヤフ首相率いるリクードは決して強硬とは言えず、中道路線に霞んで見えるほどです。イスラエル産業界のほとんど、特に地場産業は極右政党を支援していません。地場産業はパレスチナ人を労働者として雇用しており、パレスチナ人との対立を望んでいません。
しかし、ハイテク産業は地場産業とは異なり、パレスチナ人との直接的な接触が少なく、また、特に軍需関連企業は戦争によって特需に見舞われるため、強硬派を支持する傾向が強いと言えます。
防空システム・アイアンドームや最新鋭航空機のようなイスラエルのハイテク兵器の多くは、イスラエルとアメリカの軍需関連企業が共同開発・生産したものです。イスラエルのハイテク産業は、アメリカ最大のロビイスト団体とされるAIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題委員会)のようなユダヤ組織とも関係が深く、アメリカの政治動向にも大きな影響力を持っています。
現在、アメリカでは、世論に配慮せねばならず、イスラエルに対する武器支援を停止する可能性に言及し、ネタニヤフ政権の暴走を牽制しようとしています。しかし、ネタニヤフ首相らにとって、「ガザ占領政策」は既定路線であり、アメリカに耳を貸す気はありません。アメリカがイスラエルに何を言おうとも、最終的にアメリカは必ずイスラエルの側に付くということをわかっているのです。
イスラエルの産業界を牽引するハイテク産業が戦争を望み、リクードや極右政党を支持し、パレスチナ人との対立を煽るという自己演出的なメカニズムが、イスラエル内部で維持されており、このメカニズムが自然肥大化していく中で、イスラエルの対外路線もまた、必然的に強硬なものになっていくという構造的な問題があります。