『日本』令和8年10月号

十月号巻頭言 「道」解説
林桜園(おうえん)(寛政九年/一七九七~明治三年/一八七〇)は、肥後熊本の国学者、名は有あり みち通、桜園はその号である。藩校の時習館に学び、後に、本居宣長の弟子である国学者の長瀬真ま幸さきに師事した。私塾の原道館を開いて多くの門弟を育て、吉田松陰・大村益次郎・真木保や す臣おみも教へを受けたといふ。その思想は、敬神愛国を中心としつつも、儒学・老荘・仏教・医学・兵学・西洋思想にも及んだ。
この桜園の精神を引き継いだのが、太田黒伴雄(おおたぐろともお)・加屋霽堅(かやはるかた)・上野堅五・斎藤求三郎ら約百七十名の敬神党(神風連)であつた。彼らは開化政策を進める明治政府への不満を募らせ、廃刀令を契機として明治九年十月二十四日、蹶起(けっき) した。
巻頭に掲げた桜園の歌の通り、神意を奉ずることを旨とする敬神党は、「うけひ」(神占)に従つて行動し、刀槍のみを以て陸軍熊本鎮台司令官種田政明宅を襲つた。次いで熊本城内の鎮台を攻撃して兵営を制圧したが、翌朝反撃を受けて、加屋・斎藤らは戦死し、総帥の太田黒も自刃した。他の多くも自決または捕縛され、敬神党側の死者は百二十四名、陸軍側の死者も約六十名に上つた。この「神風連の乱」から、今年は百五十年となる。
(松本 丘)


