9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年7月号

辺野古事故が問いかけるもの ―「平和学習」再考  

 渡邊 毅  /元皇學館大学教授


沖縄県名護市辺野古沖で、三月十六日に発生した小型船二隻の転覆事故は、高校二年生の命が失われたという点において、深い悲しみを伴う出来事であった。同時にこの事故は、教育の在り方そのものに対して、重い問いを投げかけている。とりわけ、この事故が同志社国際高校の研修旅行の一環として行われた「平和学習」の最中に起きたという事実は、単なる偶発的な不運として片づけることのできない問題を有している。

当日は現場海域に波浪注意報が発令されていたうえ、海上保安庁の巡視艇が並走し、注意喚起を行っていた。それにもかかわらず航行が強行実施され、さらにほぼ最大搭載人員で生徒たちは乗せられ、引率教師が同乗していなかったことについて、安全管理上の問題が指摘されている。また事故発生時、速やかに一一八番通報していたのは船員や教師らではなく、生徒たちであったという。

しかも転覆した二隻は、左派系市民団体「ヘリ基地反対協議会」の政治的抗議活動船(事業登録・保険加入無し、過去に法令違反・死亡事故有り)であった。このような法的適格性や政治的中立性が問われるような船に、そもそも学習の一環として生徒たちを乗せるべきではない。したがって今回の事故は、業務上過失往来危険・業務上過失致死傷・海上運送法違反などが疑われており、その捜査対象は広範囲にわたるため、専門家によれば「難しい捜査になる」とされている。


問われる学習内容の妥当性と心理的影響

しかしながら、今回の問題の核心は、運航管理の不備だけにとどまらない。より本質的に問われるべきは、当該学校の行った「平和学習」の構成と、それが生徒の認識形成にどのような影響を及ぼし得るかという点である。辺野古の海域は、米軍基地移設をめぐって長年にわたり政治的・社会的対立が続き、異なる立場や価値観が鋭く対峙している場所である。そのような場に生徒を連れて行き、反基地という一定の文脈・主張のもとで体験(抗議船に乗船)や学習(過去の旅行のしおりには抗議活動への参加を呼びかけた文章を掲載)をさせることは、特定の見方へと理解を傾け、政治的活動・思想に誘導してしまう危険な教育になり得るという点を慎重に検討しなければならない。

この問題を理解するためには、社会心理学が明らかにしてきた「認識形成のプロセス」に着目する必要がある。人の判断は単発的に形成されるのではなく、①情報の提示、②状況下での解釈、③集団内での共有と強化、という段階的な過程を経て形づくられる。

第一に、認識形成の出発点となるのは「どのような情報が、どのような枠組みで提示されるか」である。いわゆるフレーミング効果が示すように、同じ事実であっても、その提示の仕方によって受け取り方は大きく変わる。もし学習の中で、特定の立場の語りや資料が中心となり、他の視点が十分に提示されていなければ、生徒はその枠組みの中で現実を理解することになる。この段階で、すでに認識の方向性は一定程度規定されることになる。

第二に、その情報は、現地での体験という強い感情的文脈の中で解釈される。臨場感のある状況や対立の現場に身を置くと、人は冷静に情報を比較検討するよりも、その場で喚起された感情や共感に基づいて判断しやすくなる。いわゆる感情ヒューリスティック(感情に基づいて判断する心理的傾向)が働くことで、提示されたストーリーは単なる知識ではなく「実感を伴った理解」として内面化されやすくなるのである。この段階では、認識は論理的検討よりも直感的な納得によって支えられる傾向が強まる。

第三に、そのように形成されつつある理解は、集団の中で共有される過程でさらに強化される。研修旅行という環境においては、生徒は同級生と行動をともにし、教師の指導のもとで活動する。そのため、ソロモン・アッシュの研究が示すような同調圧力が働きやすく、「その場の空気」に沿った反応が無意識に選ばれやすい。異なる意見を持っていたとしても、それを表明することは心理的に難しくなってしまうのだ。そして、この共有の過程が進むと、集団極性化が生じる。同質的な意見や感情が繰り返し確認されることで、もともとの傾向はより強く、より確信的なものへと変化していく。「何となくそう思う」という段階から、「強くそう確信する」という段階への移行は、このプロセスの中で自然に生じ得るのである。

このように、①フレーミングによる認識の方向づけ、②感情的体験による直感的な内面化、③同調と集団極性化による確信の強化、という一連の過程を通じて、生徒の理解は特定の方向へと収斂(しゅうれん)していく可能性がある。重要なのは、これらがいずれも個々人の自覚的な選択というよりも、状況に内在する心理的メカニズムによって生じる点である。したがって、特定の政治的立場に近い環境で行われるような学習が、生徒の判断や価値観の形成に対して一方向的な影響を及ぼしやすい構造を持っていることは、十分に認識されなければならない。この点への配慮を欠けば、教育は「多様な視点を学ぶ場」から、知らず知らずのうちに「特定の見方を強化する場」へと変質してしまう危険性があるからだ。


これからの平和教育に求められる視点

もちろん、平和について学ぶことの意義そのものを否定するものではない。むしろ、その重要性は今後さらに高まっていくであろう。しかしだからこそ、政治的教養を育む際、特定の立場に偏ることなく、学習指導要領が示すように事実に基づいた多面的・多角的な視点で、生徒の主体的な考えや判断を妨げることなく実施しなければならない。「平和学習」の名を借りた政治活動や思想教育を行うことは違法であり、断じてあってはならないことなのである。

それゆえ文部科学省は、同志社国際高校の教育内容を「著しく不適切」だとし、教育基本法違反と認定したわけだが、同校のような違法な教育が「氷山の一角」ということであれば、文科省は今後、全国的な学校調査を行うべきであろう。実際、ヘリ基地協によれば、十年以上前に各地の学校から辺野古の見学について依頼が来るようになっていたというから、その可能性は低くはないだろう。そもそも「平和学習」にからむ違法性の高い教育は、以前から識者の間でしばしば指摘されてきたからだ。

特に対立を孕む事象について取り組むためには、事前・事後の学習を通じて複数の視点を比較検討する機会を設けることや、安心して異なる意見を表明できる環境を整えることなどが不可欠である。体験学習は適切に設計されれば、理解を深める有効な手段となるが、その前提として、心理的影響を踏まえた慎重な配慮が求められる。

今回の事故は、私たちに重い教訓を残した。教育活動における安全の確保はもちろんのこと、その内容や方法についても、不断の検証と見直しが必要である。特に、社会的・政治的に対立のあるテーマを扱う場合には、その中立性と慎重さがこれまで以上に問われることになるだろう。

同様の悲劇を繰り返さないためには、安全管理体制の徹底とともに、教育内容のバランスと透明性を高めていくことが求められる。この出来事を契機として、教育がより安全で、かつ多様な視点に開かれたものへと発展していくことを願いたい。海は再び静けさを取り戻したとしても、あの日失われた命が投げかけた問いは、なお私たちの前に残されている。