『日本』令和8年7月号
真の日本人、三島由紀夫氏の遺したもの(三) ― 祖母夏子による養育 ―
小松宏起 /民間会社元米国駐在員
前回は石原莞爾中佐と板垣征四郎大佐が、張学良の悪政で苦しむ民衆を見かねて昭和六年、武力行使を以て満洲を平定し、満洲国の建国に中心的役割を果たしたことを見て来た。また、昭和十二年、石原作戦部長の猛反対にも拘はらず、陸海軍の主戦派は盧溝橋事件後の戦線を拡大させて行くが、それがもとで、日本は後に「支那事変」といはれる泥沼の戦に踏み込むことになる。そしてそれは、英米を敵に回した大東亜戦争へと繋がつて行くのである。
ところで、石原作戦部長が一貫して戦線の拡大に反対し続けたのは、幼少期の武家の教育によつて育まれた士道精神の一部でもある鋭敏な「危険の感覚」があつたからである。ひとたび戦線を拡大すれば、より大きな危険が待ち受けてゐることを明確に察知できてゐたからに相違ない。
一方、三島氏の幼少期は、一般的には祖母夏子に軟禁されたやうな状態の中で、祖母の坐骨神経痛に影響があるから音を立てることも憚られる緊張した環境下で養育され、三島氏の士道精神は成人後、自身の努力で得たものと考へられてゐる。だが、私は、夏子の伝統的な武家流に則つた厳格と慈愛の養育こそ、三島氏が後に体現した士道精神の淵源であると確信してゐる。その理由を以下に述べる。
厳しくも深い愛情に満ちた夏子の養育
三島氏は大正十五年(一九二六)一月十四日、東京で生を享(う)けて(今年は生誕百一年にあたる)すぐに母親の手から離れ、同居してゐた父方の祖母、夏子のもとで養育されたが、そのことで母親の倭文重(しずえ)は苦しむことになる。倭文重は当時を振り返り、
それが何に由(よ)るのであるかは、祖母夏子の家系をたどることによつて知ることができる。すなはち、祖母夏子の父方は徳川旗本の永井家で、母方は水戸徳川家の支藩松平家といふ、共に名門の家なのである。そもそも江戸時代の名門武家が、長きにわたつて名家として存続するためには、その家に代々伝はる「志」が存在し、それを親から子へ、子から孫へと代々伝へて行つたからに相違ない。
その夏子が幼児公威に与へた武家流の養育を、母親の倭文重は次のやうに記憶してゐる。
この祖母夏子が幼児公威に対して行なつた厳格な育児法が、江戸期の武士家庭では一般的であつたことは、明治文明開化の波が未だ地方に及ばぬ頃、出雲を訪れたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の次の文章から知ることができる。
この現代人には考へられない厳しい養育法に込められた意味は一体何であつたのだらうか。
執行草舟氏(ぎょうそうしゅうし)は、「何でもよいが肉の欲求の中の一つを抑へることができれば、他のものも抑へることは容易になる」と人間にとつて克己心を養ふ大切さを述べてをられるが、祖母夏子の公威少年の食欲を抑制する養育法は、公威少年に強い克己心を体現させ、三島氏をやがて「絶対精神」の境地へと高めて行くのである。
この「絶対精神」の境地に至れば他人の評価が気にならなくなるが、それは何物にも依拠しないがゆゑに、何物をも怖れることがない絶対の自由を得るからに他ならない。
では具体的に三島氏が克己心を得た後、どのやうにして「絶対精神」に近づくことになつたか考へたい。
三島氏は身体を強くすれば精神も強くなる、肉体は精神の最も美しい衣装といふ古代ギリシャ人の思想、別言すれば文武の修行をすることで初めて高い境地(絶対精神)に至ることができるといふ思想に共鳴して、ボディビル、ボクシング、剣道、居合ひなどに熱中した。もともと身体が弱かつた三島氏が、三十歳を過ぎたころから始めたこれらの武の鍛錬は、夏子の養育で培はれた克己心がなければ到底為しうることではなかつたのである。
それらの激しい身体の鍛錬は最初は苦痛でしかなかつたが、やがて「好いたこと」となり、それに熱中し、身体と精神がバランスよく成長して行く喜びを自覚する自分をエピキュリアンと呼んだ。ただ、他者から見れば俗にいふエピキュリアンの真逆である究極のストイシズムの体現者としか見えなかつたのであるが…。
かくして三島氏は文武の鍛錬によつて「絶対精神」を確立したが、その到達点は時代を越えて比類なき高みにあつたことは、江戸時代であつても生命を賭して行ふ義の行動が容易ではなかつたこと、例へば赤穂浪士の義挙に参加することができたのは、限られた人たちであつたことからしても明らかである。
つぎに何故「絶対精神」への到達が難しいのか、赤穂浪士を例にとつて考へてみたい。
有事の行動を通じてのみ現れる「絶対精神」
大石内蔵助は、主君の仇を討つて本懐を遂げた後、幕府の沙汰を待つ間、預かりとなつた細川藩の江戸屋敷で、「ただ一つ残念だつたことは、殿様にお目見えする上級武士の参加はなく、ほとんどが下級武士によつてなされたことだ」と述べたといふ。当時の赤穂藩の士分約三百名のうち、討ち入りに加はつた四十七人は、内蔵助を除いてほとんどが下級武士であり、中には足軽や元藩士の浪人もゐたのである。
しかも赤穂藩は、藩主が山鹿素行(注1)を優遇し、「武士道」を重んじた藩である。その山鹿素行の講義を直接聴いた上級藩士は、「忠孝」といふ目標に向かつて「敬、信、愛」(注2)の日々の実践で己を鍛へた人たちばかりで、平時に殿様への忠義といふ点において、人後に落ちることはないと自負してゐた人たちだつたに相違ない。

この赤穂浪士の例は、普段いかに学問を積んで「士道」を体現してゐる自信があらうとも、いざといふ時に進んで生命を投げ出すことができるとは限らないことを示してゐる。また富貴安楽の中に安住してしまへば、それへの到達は困難であることも暗示してゐるのである。
三島氏自身もあの日、昭和四十五年十一月二十五日の一週間前、文芸評論家の古林尚(たかし)氏との対談の中で、
夏子から慈愛を受けて生じる報恩の心
ここまで、夏子が孫の公威に武家の伝統に則つた厳格な躾を行ひ、その結果、長じて三島氏は「克己心」を身に付けたことを見て来た。だが、十歳になつた公威少年には、それだけでは説明できない、ある美点が備はつてゐた。
それは初めて初等科の一泊旅行で鹿島に行き、その時、祖母に出したはがきの内容の中にみることができる。すなはち、
一般に「偉人と母親はセット」と言はれるが、人間にとつて物心つく前は、母親、三島氏の場合は祖母夏子が世界のすべてであり、その時期に幼児公威に与へられた祖母からの慈愛は、幼児公威に、自分の存在を安からしめるすべてのもの、究極的には神=天への報恩の心を植ゑ付けたのではなからうか。
その事は母親倭文重の次の言葉からもわかる。すなはち、
三島氏が真実の愛に生きた人であることを示す一つの例を挙げる。祖母夏子が他界して六年後、二歳下の妹美津子が終戦の年の暮れにチフスを発症した時、三島氏は大学の試験勉強中であつたが、父の梓氏は、
かくて、祖母夏子の養育は、強い「克己心」と「真実の愛」を幼児公威の細胞の隅々にまで行き亘(わた)らせることとなつたのである。
徳川家への忠誠を貫いた永井玄蕃頭尚志
ここまで祖母夏子が公威少年に与へた厳格と慈愛の養育をみてきたが、もう一つ夏子が公威少年に伝へたと思はれる大切なことがある。それは三島氏にとつては四代前の高祖父にあたる、永井玄蕃頭尚志(げんばのかみなおゆき)(注3)(以下玄蕃頭)の江戸武士としての高貴な生き方である。
父君梓氏によれば、夏子は父方の祖父玄蕃頭に対する敬愛の念が強かつたといふが、その玄蕃頭は自らの功を誇ることのなかつた人だけに、歴史の陰に埋もれた人物となつてしまつた。だが、実際は激動の幕末期にあつて、歴史的に重大な局面のすべてに徳川の幕吏(ばくり)として力を尽くし、しかも「皇国のため徳川家のため」(本人の言葉)といふ基本軸が、寸分もズレることのなかつた端倪(たんげい)すべからざる人物なのである。
玄蕃頭は三河の小藩松平家の藩主の子であつたが、もともと英才の誉れ高く、長じて昌平黌(しょうへいこう)で儒学、歴史、蘭学、洋学など幅広く学問を修め、西洋事情にも通じてゐた。その俊英ぶりが見込まれて二十四歳で有力旗本の永井家に養子として迎へられたが、阿部正弘にその能力、特に西洋に関する見識を見込まれて幕府に出仕し、勘定奉行、外国奉行、軍艦奉行など要職を歴任し、後に、若年寄に就任するといふ異例の出世を果たした。
その最初の仕事は、安政元年(一八五四)、長崎海軍伝習所の総監理として長崎に赴き、製鉄所の創設に着手したことである。この経験により、玄蕃頭は欧米列強の脅威に対抗するためには、開国して日本に西洋文明を導入して、富国強兵を推進する以外に日本の生きる道はないといふ考へに至る。その後、玄蕃頭は外国奉行に抜擢(ばってき)され、欧米列強との通商条約の締結に際し、優れた交渉力を発揮し、米以外の全ての国との条約締結に携はることになつたのである。
また、当時はちやうど日本中が攘夷か開国かで大きく揺れてゐる中、橋本景岳が松平春嶽の命を受けて幕政改革案をつくるにあたつて、「制度を以て末となし、人物を以て本とし、人材の登用を最も重要視する景岳は幕府組織に内政と外交を司る宰相を置き、外交の組織については鍋島斉正(なりまさ)を宰相とし、その下に、永井尚志、川路聖謨、岩瀬忠震(ただなり)をおく案を立てた」(平泉澄博士『武士道の復活』)とあるが、後に坂本龍馬をして玄蕃頭のことを「ヒタ同心」(心を同じくする)と言はしめたことと併せて、玄蕃頭がいかに幕府内で重要人物だつたかがわかる。
だが、玄蕃頭は、あまりにも朝廷をないがしろにする井伊大老の横暴なやり方に異議を唱へたことで大老と対立し、安政の大獄で罷免されて三年間の蟄居生活を強ひられてしまふ。桜田門外の変で井伊大老が斃(たお)れると蟄居が解かれ、政治の中心が移つた京都で京都町奉行として再び歴史の表舞台に立つことになる。
この安政の大獄による失脚を含め、玄蕃頭は幕府の要職にある間に合計四回の閉門、蟄居を強ひられてゐる。二度目は、京都町奉行時代に起きた朔平(さくへい)門外の変(注4)での対応の不首尾を問はれてのこと。そして三度目は禁門の変の後、第一次長州征伐において長州に対する処罰が手ぬるいとして、幕府の強硬派から追ひ込まれてのこと。そして最後は、鳥羽伏見の戦ひで、慶喜がひたすら恭順の意を表明する中、慶喜に連座する形で罷免・閉門の処分を受けたのである。
さらに函館戦争で榎本武楊や土方歳三と共に官軍と戦つて敗れたかどで、二年以上も投獄されたことも含めれば、生涯で実に五回も大きな挫折を経験してゐるのである。玄蕃頭はこの度重なる苦難に遭遇する都度、それらを反転させて精神を鍛へ、やがて「絶対精神」を確立して行くのである。
一般に戦争といふ極限状態の中で、人の美しさも、また醜さも現れるものであるが、戊辰戦争といふ一年半も続いた内戦で、永井玄蕃頭は人間としての真価を問はれるいくつかの場面に遭遇する。
その最初の一つは、将軍慶喜が大政奉還をしたにもかかはらず、薩長はあくまでも徳川家の殲滅(せんめつ)を目的とした戦ひを仕掛けてきたことに対して、不本意ながらも受けて立つた慶喜が、錦の御旗が出るに及んで恭順の意を表してしまつた時のことである。この時、慶喜は、戦闘を中止して撤退する決断を幕府軍一万人に伝へる役割を玄蕃頭に託して、他の幕府軍の首脳(松平容保、松平定敬、老中板倉勝静)と共に、夜逃げ同然の敵前逃亡をしてしまつたのである。
後に遺された玄蕃頭は、強い自制心で、主君に代はつて血気盛んな現場の徳川武士を説得し、軍の撤収を粛々と行つた。玄蕃頭の忠誠は、現将軍慶喜個人に対してといふよりも、二百六十年の長きにわたつて徳義の高い、そして偉大な文化と伝統を築いた徳川家に対するものだつたのである。
また、将軍慶喜に代はつて徳川武士に降伏命令を伝達することができ、混乱もなかつたのは、玄蕃頭に徳川武士に対する真実の愛があり、それを徳川武士たちが理解してゐたからに他ならないのではなからうか。
官軍はその後も攻撃の手を緩めることはなく、江戸幕府の殲滅を目指して兵を江戸へと進めて行くが、徳川の世がいよいよ終焉を迎へる時、玄蕃頭は次なる重大な決断と行動を行ふことになる。それは榎本武楊らとともに官軍に対抗するために、誰が考へても負けるとわかつてゐる函館戦争の指揮を執るために、嗣子(しし)岩之丞(夏子の父)を連れて、函館に下向したことである。これは生命を投げ出すことは勿論、名門永井家断絶といふ大きな自己犠牲を伴ふ可能性のある決断だつたのである。
玄蕃頭の箱館下向を聞きつけて、玄蕃頭が寄港した途中の港に多くの旧幕臣がその徳を慕つて従軍を希望したといふから、玄蕃頭が愛の人であることが人々の間で知れ亘つてゐたことが分かる。その後、玄蕃頭は一年半にも及ぶ戊辰戦争に自ら終止符を打ち、官軍の軍門に降(くだ)るが、その背景には戊辰戦争の間中、局外中立といふ列強同士の取り決めの中、遅れて来たプロイセンが、内戦に乗じて北海道の一部を領有しようとする野望を露はにしてきたことがあるに相違ない。
これは玄蕃頭だけではなく、多くの幕末の武士に共通することであるが、彼等は国内の敵と戦ひながら、外国勢力に絶対に隙を見せない大局を見据ゑた「危険の感覚」を備えてゐたのである。このことからしても、「士道」=「絶対精神」と鋭敏な「危険の感覚」は一つのものであつたことがわかる。
函館戦争での降伏後、玄蕃頭は官軍に捕へられて二年半、獄に繋がれた。冬の寒さ、夏の暑さ、粗食と不衛生で、同時に投獄された仲間の中で死者が出るほどの劣悪な環境下で、しかも五十歳を越える最年長の玄蕃頭はよく耐へた。「絶対精神」を確立してゐた玄蕃頭にとつては、肉体の不自由は何ほどのこともない。読書と思索、そして詩作に没頭した獄中での生活は、玄蕃頭の精神をさらなる高みへと押し上げて行く。
その時作つた七言長詩の一部には、
ゆるされて獄を出た後の玄蕃頭は、五百とも六百とも言はれる漢詩を詠み書画に親しみ、浪人となつた徳川武士の身の振り方を世話することで、余生を過ごした。
永井玄蕃頭は孫娘夏子の成長を見届けて明治二十四年(一八九一)にこの世を去るが、後の世に生きた三島氏は、“高祖父と共に生くる”人生だつたに相違ない。
いよいよ次回は、アメリカ民主主義と物質文明に支配された現代社会に生きる我々に、三島氏は一体何を遺したのかを考へてみたい。
注1



