『日本』令和8年8月号
時代の変化への対応と求められる覚悟
廣瀬 誠 /元自衛官
ウクライナ紛争が解決を見ない中、今年に入り、ベネズエラに対する米国の電撃的な作戦、イランに対する米国とイスラエルの攻撃にその後のエネルギー危機と、不安定な状況が続いている。
現在、世界情勢は大きな変革期を迎えているように見える。第一次大戦後、国際社会は、国民国家間の勢力均衡による秩序維持から、法の支配と国際組織による秩序維持を追求する方向をとってきた。第二次大戦後も、国際連合が設立され、以来長きにわたって、多くの国際紛争が起こってきたとはいえ、国際社会はその合意による秩序維持という理想の実現に曲がりなりにも努力を続けている。しかし、世紀の変わり目あたりを境に、様相は徐々に変化してきたのではないか。湾岸戦争において、米国は、国連決議によるイラク制裁という形を追求し実現したが、二十一世紀を迎える頃、イラク戦争やアフガニスタンにおいて有志連合という考えが強くなった。冷戦が終了した当初、アメリカ一極構造となるとみられたが、世界は多極化の傾向を見せ、国連安全保障理事会で結論を出すことが一段と難しい時代を迎えたためと考えられる。このあたりから、国連決議に基づく紛争解決を目指すことがこれまで以上に困難となり、大国は自国の国益を追求して独自の政策をとる傾向が強まっているように見える。アラブの春、二〇〇八年の金融危機、カラー革命など、国際社会も不安定さを強めてくる。
二〇一四年、ロシアによるクリミア半島の併合、続く二〇二二年二月のロシアによるウクライナへの本格的な侵攻は、ブタペスト合意という国際社会の取り決めによるウクライナの安全保障が、国連安保理事会の構成国により蔑(ないがし)ろにされる事態であり、国際社会がもはや法による支配や国際社会の合意により、秩序を維持することが困難であることを明確にしたといえよう。
時代は、法による支配と国際機関の合意による秩序維持という理想主義の時代から、国民国家間の力の均衡による秩序維持の時代へと再び移りつつあるのではないか。いつの時代にも、理想主義と現実主義は併存しており、理想主義を追求しつつも、実態として力の均衡により秩序を保証してきたのであろうが、力の均衡という現実に重点を置かざるを得ない時代を迎えているように見える。安全保障が、力の均衡によらざるを得ないならば、力を持たない国家の安全は危うい時代を迎えたといえるであろう。
国際社会は、国際連合の下における秩序維持のため、必要に応じて、国連決議に基づき所要の兵力をもって協力してきた。これまでは、曲がりなりに法の支配と国際社会の協力により、秩序が維持されてきた時代であった。その下で自由に通商し、わが国は繁栄してきた。激動する変革の時代を迎え、わが国の安全保障は今までのままでよいのであろうか。
日米安全保障体制があれば、日本の安全保障は万全であろうか。しかし、その米国も第二次大戦直後からは大きく変化している。そのGNPは、当時は世界のほぼ半分を占めていたが、現在は、四分の一程度であろう。産業の空洞化も進み、今や兵器の生産能力も第二次大戦時、連合国側の兵器庫だったという状況からはほど遠い。トランプ大統領は自国ファーストを掲げ、自国の国益を第一にすることを公言している。安全保障においても、西半球を重視する姿勢を見せている。翻って、中国を見れば、GNP は世界第二位になって久しく、実質的な経済力は米国に迫っているとも言われる。「中国製造二〇二五」に象徴されるように、中国の工業生産力はますます強くなってきている。また去る七月六日の中国SLBM模擬弾頭の発射は、第二撃能力に関するものであり、米国の拡大抑止に与える影響は大きいと考える。今後日米同盟の信頼性にこれらのことはどのように影響を及ぼすであろうか。
翻って、わが国の現状について考えてみたい。時代が、国際社会の協力と法の支配による秩序維持が困難となり、力による均衡に国際社会がその足場を移しつつあり、米国の力も相対的に落ちてきている状況下、わが国は依然として、戦後から冷戦時代以降も前者を前提としていて、後者の力による均衡という考え方にはアレルギーが強いように見える。
国際連合という機構の下、各国は、秩序維持のため、必要に応じ国連決議等に基づき、所要の兵力の供出等役割分担してきたが、わが国は、平和主義のもと、紛争解決後の復興支援等にその役割を限定してきた。曲がりなりに国際連合の安全保障機能が機能し、米国が「世界の警察官」としての力と意志を持っていた時期はそれですんだかもしれない。しかし、今後も国連の安全保障機能が機能不全を続け、各国が自国の国益を重視し、国際社会において力の均衡による秩序維持が主体となっていく時、わが国の対応がこれまでのままで国益をまもれるであろうか。
軍事力を活用する選択肢の考察範囲を、憲法の制約から狭く設定して、国の安全保障を考えている現状は、国際社会の現実の変化から目を瞑(つむ)っているということになる。大きく変化する安全保障環境において、数十年前の国会答弁が現実への対応を拘束し続ける安全保障論議の在り方も、再考するべきではないか。憲法をはじめとする多くの制約はあるが、まずは国際社会に起こりうる状況を先入観に捕らわれずに洗い出し、わが国の法的枠組みにとらわれずに、わが国益を守るために必要な方策を考えてみるべきである。その上で、憲法をはじめとする現実の法的な枠組みを考え、必要であれば、その枠組みを変更するという柔軟な思考が必要ではないか。
日本国憲法の三原則は、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権といわれている。後二者と前者は並列されているが、相互に矛盾する場合がありうる。平和を戦争等のない状態とし、「平和主義」をその状態を維持することと考えれば、他国の侵略を受けた場合には、後二者を守るためには「平和主義」を捨てねばならない。「平和主義」を貫くのであれば、後二者は失われることになろう。
さて、米国では、銃の乱射事件が後を絶たない。米国ライフル協会の反対が強いといわれるが、あれほどの犠牲者を出しても、未だに銃規制は遅々として進まないのはなぜなのか。米国憲法修正第二条の「人民が武器を保持し携帯する権利」は奪われないとの規定が根拠といわれる。
民兵のための規定なのか、個人の自衛の権利なのかの議論はあるようである。いずれにしても、武器を保持するということは、正当防衛であるとはいえ、他者をあやめる可能性を受け入れることであり、相当の覚悟を求められるということである。当然、保持しないという考えの人もあるであろう。その場合は、銃社会で自らの抵抗手段を持たず、犠牲になる可能性をある程度甘受する覚悟がいる。いずれの選択にも、米国人の「個の強さ」を感じるが、このような銃社会に生きることは、今の私たち日本人の個人にはおそらく耐えがたいものではあろう。銃を保持するか、保持しないか、いずれにしても覚悟が求められる社会ということである。
国際情勢は、第一次大戦前のように、各国が秩序維持のため力による均衡により、国益を守る時代を迎えているといえる。米国の銃規制とは国内問題と国際関係の違いはもちろんあるが、国家の存立と繁栄、国民の生命等の国益を守るために、国家と国民の覚悟が求められることは当然であろう。わが国に、欠けており、また一番求められていることは、その覚悟ではないであろうか。覚悟を決めてはじめて、厳しい現実をしっかり見つめ、困難を克服して、常日頃からなすべきことを冷静着実になしておく勇気が生まれるのではなかろうか。



