9- 一般財団法人 日本学協会
                       

『日本』令和8年8月号

真の日本人、三島由紀夫氏の遺したもの(四=完)
― 日本精神を現代人の心に打ち込む ―

小松宏起  /民間会社元米国駐在員


信じて古を好む

前回まで「大東亜戦争の敗因は明治文明開化にある」といふ三島由紀夫氏の言葉の真意を確かめるために、日露戦争以降の支那大陸における日本の行動を振り返つてきた。そこから明らかになつたことは、橋本景岳が明治文明開化の直前に「器械芸術、彼に取り、仁義忠孝、我に存す」と警鐘を鳴らしたにも拘はらず、日本精神(士道)を捨てて西洋精神を取り入れた結果が、大東亜戦争の敗因となってしまつたことである。

戦後のアメリカ民主主義、物質文明の中で生きる我々現代人にとつて、その日本精神とは一体何であつたのか、想像することさへ難しくなつてしまつた。一つ確実に言へることは、三島氏、石原莞爾中将(最終階級)、そして板垣征四郎大将(同)に共通することであるが、幼少期に武士の教育を受けたことによつて、文武両道の精神を、その身に体現してゐたことである。

この文武の融合を、人が目指すべき理想としたことの例を挙げれば枚挙にいとまない。例へば古くは飛鳥時代の大津皇子が万葉集に名歌を残し、日本で最初に漢詩を作つた詩人であると同時に、一軍を率ゐる将軍として人望もあつたこと、また近くでは松下村塾の俊英高杉晋作が、柳生新陰流の免許皆伝の剣術使ひであり、奇兵隊を統率できる軍人としても抜群の能力を持つてゐたことでも知ることができる。

また、文武両道の伝統は、西洋でも騎士道精神が健在であつた中世において連綿と生き続けた。さらにそれ以前では英雄アレクサンドロスは言ふまでもなく、プラトンがレスリングの強者であつたこと、また古代ローマの軍事の天才カエサルは稀代の名文家であつた こと等が、すぐその例として頭に浮かぶ。

では、一体なぜ人間にとつて、「文」と「武」の融合が大切なのか、三島氏を例に考へてみたい。

まづ、三島氏の文の鍛錬について述べる。それは当然ながら読書と思索と執筆であることは言ふまでもない。三島氏は「小説を書くことは、古典を学ぶことと同じである」と後に述べてゐるが、その読書範囲は洋の東西の古典を中心に、近現代の文学、哲学、歴史、宗教、等々実に幅広い分野にわたつてゐる。三島氏は少年のころから、あたかも、夏の草木が慈雨を得て急速に成長するやうに知識を吸収して行つたに違ひないのである。

後に三島氏は、

東西の古典を渉猟(しょうりょう)すれば、人間の問題はそこに全部既に語り尽くされてゐるのを知るだらう。へなへなしたモダンな思ひつきの独創性なんか、この鉄壁によつてはね返されてしまふのを知るだらう。(「小説家志望の少年に」)
と語つてゐるが、古典に沈潜したのは、単に知的興味からだけのことでないことは明白であり、「見ぬ世の人を友とする」(兼好法師)、そして師とすることで、人間とは、そしてこの世とは何かを学んで行つたに相違ないのである。

そして、古典の中で出会ふ賢人たちもまた、より昔の賢人から学び続けてゐたことは、あの孔子でさへも、

述べて作らず。信じて古を好む。(『論語』述而篇)
と独創性を否定してゐることでもそれはわかる。

ちなみに三島氏は洋の東西の古典の中から思想を学び、日本の古典の言葉から感性を磨いた。言葉から感性を磨くとはどういふことか。その具体例をあげる。少年のころに読んだ『大鏡』の中にある記述、「月があまり顕証(けしょう)なれば、いかがすべからむ」。花山天皇が月があざやか過ぎて出家を思ひとどまつた情景が肚の底に落ち込み、爾来(じらい)、鮮やかな月の情景を目にするたびに「顕証」といふ言葉が、「新鮮な、ヴィヴィトなイメージ」を伴つて浮かんでくるといふ。

三島氏はこの言葉が表現されてゐる『大鏡』の行間を読み、現代人には失はれてしまつた、鮮やかな月を観て、深く感応する心を感得したのである。そして、自然だけではなく、人間に対しても、現代では失はれてしまつた豊かな情感を古典から読み取り、それを以て人間性の崇高さ、複雑さ、奥深さを作品の登場人物に反映したのである。

ところで、三島氏は日本の古典文学の現代語訳を意味がないとして否定したが、それは何故かと言へば、例へば『源氏物語』に描かれた「もののあはれ」といふ含蓄のある言葉に含まれる情趣や情感を下る世にあつて人間の感性が貧弱になり、研究者や文学者であつ も読み取ることができなくなってしまつたことによる。


尚武のこころから生まれる自己責任の考へ

三島氏は古典に沈潜することで、思想を深め、感性を研ぎ澄まして行くが、やがて「言葉だけの空虚さ」を実感するやうになる。つまり、行動に結びつかない知識を、「知ツテ行ハザルハ未ダコレ知ラザルナリ」といふ陽明学の思想に共鳴して行くのである。

三島氏が思想と行動の一致といふ「知行合一(ちごうごういつ)」を志向し、そのレベルに至るには、肉体の鍛錬が不可欠であることを発見したのは、自身に巣くふシニシズムを克服するために太陽の下で身体を動かしたことがきつかけであつた。そのことに気づいた三島氏は、二十五歳を過ぎたころからボディビル、ボクシング、剣道などによる本格的な肉体鍛錬を始めるが、最初は苦痛でしかなかつたがよく耐へて、やがて剛毅な「勇のこころ」が身体中に漲つてくるのを感じるやうになる。そしてそれが「充溢した力や生の絶頂の花々しさや戦ひの意志」(『太陽と鐵』)に繋がつて来たのである。これに伴ひ三島は、

剣を失へば詩は詩でなくなり、詩を失へば剣は剣 でなくなる(「一貫不惑」)
と、文と武が融合し高度にバランスを保つことで「知行合一」のレベルに至る確信を得て、ますます激しい心身の鍛錬にのめり込んで行く。その激しさには純度の高い刀づくりを想起させるものがある。

執行草舟氏が館長として運営されてゐる美術館が発行する冊子に、真に純度の高い刀づくりに関する文章がある。それには、

刀というものは、原料の玉鋼のほとんどが火花となって散り、永遠とも思える鍛錬を繰り返して出来上がるのだと知った。    下鍛え、上鍛えと行程を経るごとに小さな火花を咲かせては散り、鋼の目方の九割は消し飛んでいく。真に純度の高い刀を作るには、大部分を殺さねばならないのだ。鉄を打つ行為は、一寸の隙もゆるさず、一投のすべてを捧げることで全うされる。(『ARTIS,32』戸嶋靖昌記念館、安倍三﨑主席学芸員)
とある。この「真に純度の高い刀」とは正に三島氏のことに他ならないのではないか。

三島氏は、

ある思想なりイデオロギーなりが、僕の前にやってくる。僕はそれを、これは自分が有利だから、ちょっと信じてみようとか、これがちょとはやっているから信じてみようとか、ということは少しもない。(『対話・日本人論』)
と述べてゐるが、毎日、今日を最後と思つて続けた文武の鍛錬は、三島氏をして何物にも依 拠しないがゆゑに、何物をも怖れることのない「絶対精神」の境地へと押し上げて行く。

この三島氏が到達した「絶対精神」のことを自分では、「自然で、好きなことをやるだ け」と述べてゐる。つまり三島氏の「絶対精神」は剛毅であると同時に、孔子の言葉、

七十にして心の欲するところに從へども、矩を踰(こ)えず。(『論語』為政篇)
に通じる自由で自然な精神だつたのである。

以上見て来たやうに、三島氏は驚異的な克己心で以て文武両道の鍛錬を行なひ、その到 達点は想像を絶するほどの高みに到達した。それゆゑ平和ボケした現代人にとつては、そ の高さがわからないがゆゑに、自分には遠い世界のことと思つてしまふ。特に武の鍛錬と その結果として得られる「尚武のこころ」のことは分「かりにくいが、そのことにつき三 島氏は、

(自衛隊にお世話になつたのは)万一の場合、自分をいさぎよくするには、武の道に学ぶほかはないと考へたからであつた。武の心持がなければ、人間はいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も自己弁護することができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り最終的には身の安全は保証されよう。(「美しい死」)
と、「尚武の心」が失はれてしまへば、個人でも国家でも「自立」と「自己責任」の考へ が消失してしまふと述べてゐるのである。

敗戦とGHQの占領政策の影響を受けた我々日本人が気がつかないうちに、自立心が希 薄になつてしまつたが、では一体、GHQの占領統治とは何か、そして戦後、日本人がど のやうに変はつてしまつたのかを振り返つてみたい。


マッカーサーの巧妙な占領政策

アメリカは先の対日戦で、特に沖縄戦、硫黄島の戦ひ、そして特攻攻撃を古代ローマ軍 の再来かと見まがふばかりの激しい抵抗に身もすくむばかりの恐怖を覚えた経験から、二 度と自分たちの脅威にならぬやう、日本人の自己犠牲の精神と勇気の源泉はどこに由来す るのか様々の分野の専門家に研究させた。

その結果、神道、皇室、教育(特に歴史、古典)等にその由来があると結論づけ、それ らを徹底して変革して日本人を骨抜きにしようとしたのである。

そしてマッカーサーの巧妙さは、アメリカが仕掛けた戦争であることはおくびにも出さ ずに、解放者として自らを位置づけ、自分たちの「自由、平等、基本的人権の尊重」といふ価値観を押し付けることで日本人から愛国心と尚武のこころ、すなわち戦ふ勇気を除去 しようとしたのである。これはアメリカの常套手段であるが、徹底的に相手を叩きのめした後、一転して手厚い手当をして自分の陣営に引き込む巧妙なやり方である。

このGHQに押し付けられた「アメリカ民主主義」の本質を、一言で言へば、自己に最高価値を置く思想 だと言つて良い。

これは、フランスの哲学者アランの、

魂とは肉体を拒絶するなにかである。(『定義集』神谷幹夫訳、岩波文庫)
といふ言葉の意味を考察すれば分かり易い。

つまり、アランは人間はもともと生まれながらの本能としての「肉の欲求」を持つと同時に、「霊的なものを希求する」存在でもあると言ふ。ところが人間が霊的な行ひをしようとする時、「肉の欲求」の激しい抵抗に遇ふことは、例へば、自決を目前にした三島氏 が「命の惜しくない人間はこの世にはゐない」(「三島由紀夫最後の言葉」)と述べたことでもわかるが、霊肉は相反するものなのである。

これを別言すれば、自分に最高価値を置くとは「霊的なもの」を希求せず、「肉の欲求」のままに生きる自分を是認することである。つまり、健康で長生きすることが最高の価値となり、人々は国や他人から何かをしてもらふことを期待するやうになる。そして何か悪いことが起きれば、人のせゐにし、愚痴多き人生となる。つまり「自立」と「自己責任」の考へは消え失せて、際限のない肉の欲求に従つて、常に欲求不満で汲々としながら毎日を過ごすことになるのである。

さらに、自分に最高価値を置く考へは、自分は何物にも束縛されない「自由」な存在だといふ考へに行き着く。例へば日本古来から存在する「忠孝」を始めとした道徳や、その他の伝統的な社会的通念や慣習は、人間にとつての「制約」に違ひないが、明治文明開化 以前の日本人は、それを天賦のものとして受け入れ、その制約下で誠実に生きる人が多かつたが、現代人はそれから逃れることが真の「自由」だと錯覚してしまふ。

三島氏が「人間にとつて自由といふものがいかに逆説的なものであり、人は自由を与へられるととたんに自由に飽きる」(『葉隠入門』)と言ふやうに、戦後、多くの日本人が「自由」の意味を履き違へてしまつた。真の「自由」とは、三島氏が心身の鍛錬を経て到達した「絶対精神」で得た「自由」のことなのである。


日本のエリートへの激しい怒り

七年間の日本の占領統治を終へて、マッカーサーは帰国するが、その時の様子を徳富蘇峰翁は、

日本人は皆涙を流して彼(マッカーサー)を送つた。而して彼は日本人の歓送と花とに囲繞(いじょう)せられて、ほとんど動くこともならざるほどであつた。(『勝者の悲哀』、毎日ワンズ社)
と述べてゐるが、スペインの社会学者オルテガが考察した「大衆」は、いつの時代でも、どこでも存在する。

だが、聞き捨てならないのは、マッカーサーが帰国後、上院で行なつた次の議会証言の内容である。すなはち、

日本人は他のすべての東洋人と同じく、勝者にへつらい、敗者を侮蔑する傾向がある(中略)アングロサクソンが四十五歳の壮年に達したとすれば、日本人はまだ生徒の時代でまず十二歳の少年であろう。(同書)

このマッカーサーの日本人を見下した発言は、占領政策を進める上で付き合つた当時の日本人、特に政治家や知識人のエリートに対するものと考へるのが自然である。

同様に、三島氏の晩年の「激しい怒り」の言葉の数々、「その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身振ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言」(『蓮田善明とその死』)もまた、戦後のエリートに向けられたものである。

実は、「三島事件」の前年に日米間で行なはれた沖縄の本土返還交渉に携はつた当事者の中に、三島氏と同様の怒りと失望の思ひを佐藤栄作総理大臣⦅当時⦆に対して抱いてゐた人物がゐた。

それは当時、佐藤総理の密使としてアメリカ側と千辛万苦の交渉の末、一度戦争で失つた領土を交渉で取り戻すといふ、歴史上かつてない偉業を成し遂げたことに多大な貢献のあつた若泉敬氏(一九三〇~一九九六年)のことである。

この沖縄返還交渉の過程と結果をみれば、三島氏が戦後のエリートに対して向けた憤怒の本質が明らかになるが、当時、三十代半ばの若泉氏がこの大任を引き受けたのには理

由があつた。それは沖縄の本土並み復帰が実現した暁には、戦後一貫してアメリカに頼つて ゐた国防を日本人のもとに取り戻して真の独立を果たし、日米の外交関係もそれまでの歪(いびつ)なものから対等なものにするための大きな一歩を踏み出すことを夢見てのことであつた。

だが、返還後二十年以上経つても一向に真の独立の機運が高まることのない現実を見た若泉氏は「歴史に対して負つてゐる重い結果責任」をとつて自裁する。そもそも「密使」といふ補助的な役割を担つただけの若泉氏が、なぜ結果責任を負はなければならないのだ らうか。

それを知るためには若泉氏がこの沖縄返還交渉で目指したものを考察しなければならないが、それは沖縄返還交渉の前年に米誌「フォーリン・アフェアーズ」に掲載された若泉氏の記事の中に見ることができる。つまり、

(沖縄問題の重要性は)本質的には日本人自身が解決すべき事柄であるという自覚である。日本人自身、そして日本人のみが、自らの運命を決定することができる。日本人が、何を、いかなる理由で欲し、その目標を達成しようとするのか。これは本質的には国家の自己定義の問題なのである。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』若泉敬氏著、文藝春秋社)
とあるやうに、七年間のGHQの占領統治によつて国も個人も明確に自己定義ができないまでに自立性が失はれてしまつた。すなはち、これは個人からも国家からも「自己責任」の考へが消失してしまつたことに他ならず、若泉氏は沖縄返還の実現を契機にそれらを取 り戻す機運が高まることを期待したに相違ないのである。

ではその若泉氏が目標達成までに描いたシナリオとは、どんなものだつたかを推測してみたい。

それはまづ、沖縄返還を契機にGHQによつて押し付けられた現行憲法の改正を行ふ。それによつて国軍の保有を可能にして、違憲の自衛隊で国を守るといふ大矛盾を解消する。そして国民が平和主義に徹すれば、国の安全保障は確保されるといふ安易な考へを払 拭し、米国に一方的に頼つてゐた片務的な日米安保条約を双務的なものに変へる。

かくして国の大本である国防を本来の姿に正すことが出来れば、日本人に「国を守る」気概と独立心が生まれて来る。さうなれば、核の扱ひと米軍基地の在り方を含めた沖縄問題の解決は、自づと日本人の主体性が発揮できるやうになると若泉氏は考へたのである。

若泉氏はこの長期目標達成のために佐藤首相と話し合ふ機会を見つけては日本の目指すべき国家観、日本の存在理由=国家理性など多くの提言を行つてきた。しかし佐藤首相の心を動かすには至らなかったことは『佐藤日記』の記述をみれば明白である。

この佐藤首相の「目先の効」にしか関心のないことを察知した若泉氏は大きな失望感と激しい怒りを抱いたに違ひないが、その内心とは別に佐藤首相を表立つて非難するやうなことはなかつた。むしろ正しい方向に導けなかつた自分の力不足を愧ぢてゐる若泉氏もま た、「自己責任」の思想が貫徹してゐる真の日本人に違ひない。一方、三島氏は沖縄返還交渉の「偽善」を見抜いて、

沖縄返還とはなにか?本土の防衛責任とはなにか?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土をまもることを悦ばないのは自明である。(中略)自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。(「檄」)
と述べ、日本の安全保障をアメリカに委ねたままでは、日本はあらゆることに対米従属となつてしまふ。むしろそのやうな日米関係を米国は望んでゐることを、三島氏は見抜いてゐたのである。また、
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んで行くのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善のみに捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆(けが)してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。(同)
としてゐる。三島氏の「人の将に死なんとするときは、其の言ふや善し」(『論語』泰伯篇)のこれらの言葉が、自分に向けられたものであることを知つてか知らずか、事件後、佐藤首相は三島氏のことに対し「全く気が狂つてゐるとしか思へない」といふコメントを 遺してゐる。

佐藤首相が成し遂げた沖縄返還は、紛れもなく世界史上の偉業である。しかし、その偉業を成すために、昭和二十年三月十日の東京大空襲を立案、指揮し、世界史上初めての無差別爆撃を行つて、一晩で十万人の日本人を死に至らしめ、アメリカ人の間でも悪魔と呼 ばれた将軍ルメイに、こともあらうに昭和三十九年、勲一等旭日大綬章を与へた。この勝者にへつらふ日本政府の姿は、日本民族としてのプライドを失つた国として、人々の記憶に残ることになつた。


浮草のやうに漂ふ日本と日本人

日米間で沖縄返還合意がなされた翌年、三島氏は沖縄返還を見ずして世を去る。それから半世紀以上の年月が流れた現在のわが国の姿を「無機的なからつぽな、ニュートラルな、中間色の富裕な、抜け目がない、或る経済的大国」と、驚くほど正確に予言してゐる。

かくして三島氏は「明治の文明開化以降の日本は西欧に対して戦ふときに何をもとにして戦ふかを、ついに知らなかつた」と述べ、

西欧化に対する最後の抵抗をこころみるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである(「革命哲学としての陽明学」)。
と、今後日本の進むべき方向性を示してくれてゐる。

三島氏はこの西欧に対すべき「日本精神」の中身を、生涯をかけてあらゆる角度から考察し、それを描いた膨大な量の作品群を遺してくれた。そして、その文章は「日本精神」そのままの格式と品格を備へたものであることは当然ながら、言葉だけではなく、想像を絶する修練によつて自らその「日本精神」を体現し、かつ自らの生命を投げ出すことで浮草の如く漂ふ現代人一人ひとりに、それを永遠の記憶として打ち込んだのである。


昭和四十五年十一月二十五日。あの日、錦秋の東京は空気も澄んで雲一つない美しい日であつた。三島氏は日本と日本人が甦ることを念じつつ、蒼空めがけて雄々しく飛翔して行つたに違ひない。