『日本』令和8年8月号
物語水戸学・続編
― 『大日本史』とは何か② ―
梶山孝夫/水戸史学研究会代表理事 博士(文学)
列 伝
続いて列伝についてお話ししましょう。列伝は『大日本史』の巻七十四から巻二百四十三に及んでいますが、その内訳は后妃(こうひ)・皇子(おうじ)・皇女(おうじよ)・諸臣・将軍・将軍家臣・文学・歌人・孝子(こうし)・義烈(ぎれつ)・列女・隠逸(いんいつ)・方技(ほうき)・蕃臣(はんしん)・逆臣・諸叛(しょばん)(諸蕃は外国のことですが、今日のほぼ東アジアの諸国)です。一般には伝の文字を付して后妃伝とか将軍伝とか呼んでいます。ただ、諸臣として可美真手命(うましまてのみこと)以下、藤原経顕まで五百五十六名が収録されておりますが、「諸臣」という項目は実際にはありません。仮に呼称したものです。仮にといいましても、当時の史臣やこれまでの多くの研究者が、諸臣と仮称してきたのをここでも使わせていただくのです。隠逸は世間から逃れ隠れて住んでいる人、すなわち出家者のこと、方技は技術者や医者のことです。諸蕃(江戸期では外国と表記)では、朝鮮・蝦夷(えぞ)(北海道や北方領土)・南西諸島・漢土(今の中国)等とわが国との関係を中心に叙述しています。
巻数は全部合わせて百七十巻に及んでいますが、列伝の構成を考える時は部分(ぶわ)けに留意する必要があります。部分けとは立伝した人物をどの巻に収録するかという分類のことですが、それは人物の歴史的評価に直結するものだからです。とりわけ「諸臣伝」に注目する必要があります。それはどのような人物が立伝されて収録されたのかが重要だ、ということを意味しています。部分けについてはその他の問題とともに次回に述べることとして、ここでは列伝の具体例を紹介しましょう。
僧某の伝
列伝の孝子伝に次のような逸話が収められています。「名前が分からない僧のことです。その僧はよく親に孝行を尽くしていましたが、とても貧乏でした。母は魚が好きで魚が無ければ食が進まないほどでした。そこで僧は魚を求めましたが、当時は殺生(せつしよう)が禁止されており、魚が手に入りません。母は日に日に衰えてきましたので、僧は桂川で二匹の魚を捕らえて母に与えようとしました。しかし、役人に見つかり罪を得ることになったのです。役人の取り調べで、僧は母のために僧であるにも拘(かか)わらず、魚を捕ったことを正直に述べました。役人はこれに感動し報告しますと、上皇は褒美を与えて僧を釈放しました」。
この話の根拠として『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』と『十訓抄(じっきんしょう)』(ともに鎌倉時代の成立)が注記されています。この話は『沙石集(しゃせきしゅう)』(先の二著より少し後ですが鎌倉時代の成立)にもみえていますが、まずは成立の年代に注目してみますと、最初が『十訓抄』で建長四年(一二五二)、次が『古今著聞集』で建長六年(一二五四)、最後が『沙石集』で弘安六年(一二八三)となります。『古今著聞集』は成立以後も『十訓抄』から追記増補した部分がみられますから、両書は密接な関係にあります。
典拠となった両書はほとんど同じですから、『古今著聞集』は『十訓抄』によった文章ということになります。桂川は『十訓抄』によったのですが、これらの文章を基として漢訳したものが伝の本文となっているのです。殺生を禁じたことは『百錬抄(ひゃくれん)』(鎌倉時代末期の成立)にみえており、『大日本史』の崇徳(すとく)天皇の本紀でも確認できます。ともかくも、同一の話が収録されたことは、注目すべき逸話であった証拠ということになるでしょう。
光圀公の遺志
『大日本史』列伝の、いわゆる諸臣伝の中で姓と名がともに記されていない人物の伝は「僧某(ぼう)の伝」のみです。これをどのように考えればよいのでしょうか。およそ、伝記を書くためには姓名が分からないのではどうしようもありません。水戸の錚々(そうそう)たる史臣がそれを見過ごしたと思えません。史臣はそのことをどう考えていたのでしょうか。次にそれを探ってみることとしましょう。
孝子伝をみていきますと、「僧某の伝」の直前に「下毛野公助(しもつけぬのきんすけ)」という伝が収められています。「僧某の伝」の半分程度の短い伝記なのですが、姓名の注記に「公助が姓は、今昔物語に拠(よ)る」とあります。公助のことは『古今著聞集』と『十訓抄』にともにみえており、「僧某の伝」の直後に収められています。しかも、ともに姓は記されていないのです。ですから『今昔物語』に拠ると注記し、姓を補ったわけです。そうしますと、史臣が不明の姓名を探索しなかったはずはないと思われます。ですから探索したけれども、判明しなかったと考えざるをえないのです。
それでは、姓名の分からない人物の伝記を作成したのは何故でしょうか。いうまでもありませんが、姓名が分からないのですから正確な年代も分りません。そこで思い起こしますのは光圀公の孝子観についてです。光圀公に仕え、国学者として知られる安藤年山の『年山紀聞(ねんざんきぶん)』に「孝子弥作(こうしやさく)」という一文が収められています。
弥作は領内玉造村(たまつくりむら)の民です。寒い夜でも衣や布団がありませんでしたので、母の寒さをしのぐために自分の衣を脱いで母にかけてあげるほど孝養を尽くしていました。母もまた弥作の寒さを気遣う母子の間柄でした。外出する時には近所に見舞いを頼み、病気の時は労(いたわ)り、飲食や信仰もともにしました。このような孝養は四十歳まで続き、里人の情けを誘いました。このことは郡奉行(こおりぶぎよう)までにも伝え聞こえたというのです。
光圀公は領内視察で現地を訪れた時、弥作の孝養を愛(め)でて田畑を賜わりました。また弥作の伝を記した史臣もいました。このような事情をふまえますと、光圀公は名も無き貧しい僧であるにもかかわらず、その孝養に感じ入り、「僧某」の立伝を示唆したとしても不思議はないように思われます。
川部酒麻呂
次に川部酒麻呂(かわべのさかまろ)を取り上げてみましょう。酒麻呂は肥前国(ひぜんのくに)(今の長崎県)松浦郡で漁業に従事していましたが、遣唐使船の柁師(かじし)に選ばれました。天平勝宝(てんぴようしようほう)四年(七五二)のことです。この時の遣唐大使は大伴古麻呂(おおとものこまろ)でしたが、帰国の際に酒麻呂が乗船していた第四船で火災が発生したのです。船尾は炎につつまれて人々は慌ててなすすべを失ってしまいました。その時、酒麻呂は柁を廻していましたが、火はすぐ傍で吹き出ており、そのために手は焼け爛(ただ)れてしまいました。それにもかかわらず、酒麻呂は柁を握って動かなかったのです。勇敢なその姿を見て、人々は落ち着きをとりもどし、ついに火をたたき消し、人や荷物を護ることができたというのです。この功績により、酒麻呂は郡の役人に取り立てられて、五位の位階を授けられたのです。これは当時の規定からみても破格の待遇です。
この酒麻呂のことは『続日本紀(しょくにほんぎ)』にみえていますが、水戸の史臣はこの記事に注目しました。それは責任感ある仕事ぶりだったからでしょう。酒麻呂のことは大伴古麻呂伝の中にみえています。古麻呂は気骨ある外交官で、新羅(しらぎ)との席次争いや帰国に際して鑑真(がんじん)唐の高僧で戒律を伝え、唐招提寺を建立)をひそかに乗船させたことなどが知られています。
酒麻呂の記述は古麻呂伝中ですから、独立の伝ではありません。しかしながら、『大日本史』が取り上げたことは破格のことといってよいでしょう。ちなみに古麻呂伝は諸臣伝に収められています。
ここに紹介しましたのは一例にすぎませんけれども、『大日本史』の性格の一端をうかがうことができるように思われます。それは『大日本史』が史書というにとどまらず、倫理や道徳の書としての役割を合わせ持つということです。『十訓抄』『古今著聞集』『沙石集』と採録されてきた「僧某」の孝養、そして『続日本紀』の片隅に記録された酒麻呂の実直な仕事ぶりは、『大日本史』という後世の書物に注目されて一層の輝きを放ったということができるでしょうし、またそこには、『大日本史』の役割の一端をみることができるように思われます。



