『日本』令和8年9月号
黒木博司少佐に学ぶ〝日本の心〟
橋本秀雄 /回天楠公社奉賛会
昭和十九年(一九四四)十一月八日、山口県大津島から「回天特別攻撃隊菊水隊」が出撃した。南太 平洋のウルシー泊地を目指した伊四十七号潜水艦は、十一月二十日、仁科関夫中尉(戦死後に少佐)の 乗る回天一号艇を先頭に四隻の回天を発進させ、複数の敵艦を撃沈・大破させてゐる。以来、回天は百 回を越える攻撃を行ひ、終戦まで戦ひ続けた。
「回天」は、艇の先端に一・五トンの爆薬をつめた一人乗りの潜水艇で、乗員の操縦により敵艦へ体当 たりをする必死必殺の〝人間魚雷〟であつた。その威力は空母一隻を撃沈するほどであり、敵兵をして 海上では安心して眠ることができないと恐怖に陥れてゐた。米軍は日本占領に当たつて、海軍に対して 回天は今何隻出撃してゐるかと問い合はせてをり、直ちに帰投させるようにと命じたほどであつた。
大東亜戦争(太平洋戦争)の終結に当たり、日本は無条件降伏をしたとされてゐるが、米軍は回天特 攻や沖縄戦などを体験し、日本を無事に占領するためには、天皇の力を利用したはうが得策と考へ、日 本側がポツダム宣言受諾の条件とした「国体」(天皇をいただく国柄)護持を考慮せざるを得なかつた のである。今日、日本国憲法によつて天皇は象徴と定められ、辛うじて国体が護持されたのは、日本を 命懸けで守らうとした将兵や国民の精神と努力によるといつてよい。
その代表的な一人が、回天を創案し、実戦にこぎ着けた黒木博司少佐(殉職時は大尉)である。
黒木少佐は、大正十年九月十一日、岐阜県益田郡下呂村(現下呂市)に町医者の父弥一と母わきの次男として誕生した。父は厳しくも医は仁術を地で行く町の有力者であり、母は心やさしく芯のしつかり した女性であつた。わきは「百人の人に笑はれても一人の正しい人に誉められるやう、百人の人に誉め られても一人の正しい人に笑はれないやう、正直で曲がつたことはしない」と教へた。また、紀元節や 天長節には、赤飯を炊いて祝ひ、心の美しい人になることを願つた。かうした家庭で育つた少佐は心や さしくも正義感の強い青年となつていつた。
昭和九年、下呂小学校から岐阜中学に進み、昭和十三年、海軍機関学校(機校と略す)を受験した。 少佐は合格した日の感慨を「天皇ノ股肱(ここう)タランコトヲ志」し、その「発令ニ接ス 嗚呼男児ノ本懐之ニ 過グルナシ」と大書し、決意を固めた。少佐は機校で訓練や学業に人一倍励み、生涯の師と仰ぐ平泉澄 博士に出会つてゐる。昭和十五年の夏、一人で博士のお宅を訪れ、入門を許可されると、その感激を後 日、「今夏完全に不動不抜聊(いささ)かも揺がぬものとなすことを得、之以上何も考へ或は疑ふこともなく、胸 中晴々として只管(ひたすら)勉強の一途です」と父母に報告してゐる。また、機校に博士を仰ぐ同志を得て、厳し く切磋し合ひ、軍人としても、また人間としても格段の成長を遂げていつた。
昭和十六年十一月、少佐は機校を卒業し、同時に戦艦「山城」へ分隊士として着任した。そこでの一 年間、少佐は学んだ力をいかんなく発揮した。新兵たちに率先垂範で当たり、弟に接するかのやうに親 身に教へ、兵たちが「分隊士となら死んでもよい」とまで言つて少佐を信頼し、皆立派な兵に育つてい つた。少佐はその様子を家に報告して、「吉田松陰先生の松下村塾に聊か似たる生活に心奥よりうれしく」 と報告してゐる。少佐は平泉博士の導きにより、吉田松陰など先哲の教へに接し、父母への手紙に、「私 の最も崇仰してやまないのは大楠公と松陰先生です。…私もきつと先輩の忠臣義士に劣らぬだけの忠勤 を致して以て御父母の御恩愛に応へ奉る決心であります」と書いてゐる。
「山城」に着任して間もなく、大東亜戦争が始まつた。少佐は陛下の宣戦詔書を拝して、自分が働くべき秋(とき) が来たと確信し、真珠湾攻撃で活躍した特殊潜航艇への道を歩むことを決意した。
昭和十七年七月、戦艦「山城」を降り、大竹の潜水学校へ入つた。一ヶ月ほどの課程を終へると、特 殊潜航艇講習員を志願した。しかし、そこは海軍兵学校の生徒は入れても、機校の生徒は入れなかつた。 少佐は血書嘆願を繰り返し、三ヶ月後、その熱意に関係者も動いて、念願を叶へてゐる。
特殊潜航艇の訓練は呉の倉橋島にあるP基地で始まつた。そこで出会つたのが仁科関夫中尉(当時は 少尉)である。同室となつた二人は、当時の戦局の悪化に対し、それをどう挽回するか、毎晩のやうに 話し合つた。黒木少佐は着任以来、特殊潜航艇の改良に当たつてゐたが、それでは到底国難は救へない と考へてゐた。二人の結論は、九三式酸素魚雷を改造した一人乗りの潜水艇であつた。その設計図と兵 器採用の嘆願書を携へて東京の海軍本部に出向いて申請をしたが、不採用であつた。海軍の伝統で決死 の作戦はあつても必死は認められなかつたのである。
しかし、少佐の決意は固く、昭和十九年五月八日、艦政本部へ「急務所見」を送つた。それは幅七十 センチメートル、長さ五メートル四十センチメートルもの巻紙に全文血で打開策が書かれてゐた。その 冒頭部分は「大日本ハ神国ナリ」で始まり、今は「危急言フベカラズ明日ノ変転察スベカラズ、未ダ 聖慮ヲ安ジ奉ルコトヲ得ザル、嗚呼臣ガ罪誅ニ当ル、臣既ニ死スベシ」として、その第一は「死ノ戦法 ニ徹底スベキ事」を挙げ、「吾ガ国ノ外国ト異ナル所以ノ大義ヲ明カニシ臣ハ君ノ為ニ死シ子ハ父ノ為 ニ死スルノ志確乎タラバ何ゾ諸蛮ヲ恐レンヤ」と吉田松陰の言葉を引いて説き、「人間魚雷ヲ完成採用 スベキ事」などの具体策を述べてゐた。
海軍は戦局の悪化に対応出来てをらず、この具申は上層部を動かし、昭和十九年六月に回天の建造許 可となり、八月には正式に兵器として採用された。
九月一日、山口県大津島に回天基地が開設され、訓練二日目の六日、少佐は樋口孝大尉の回天に同乗指導に当たつた。しかし、悪天候もあつて海底に突入し、翌日、二人は殉職してしまふ。その間、少佐 は事故の原因を手帳に記し、陛下へのお詫び、恩師や先輩への感謝、仁科中尉へ後事の依頼を添へた。 また「男子やも我が事ならず朽ちぬとも留め置かまし大和魂」「国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が友々 よびつ死してゆくらん」と辞世を遺した。二人の見事な最期の姿に、隊員たちは感動し、〝黒木に続け〟 と猛訓練を行ひ、仁科中尉は少佐の遺骨を抱いて菊水隊を率ゐ、出撃して行つたのである。
少佐が子孫の為として実家に送つた品に、血書の「士規七則」がある。少佐の最も尊敬した松陰先生が、 甥の加冠に当たつて、立派な武士になる要件を示したものである。それは、「一、人の最も大切な徳は 忠孝である」 「二、日本に生まれた者は皇国の尊さを知るべき」 「三、武士は義と勇が大切」 「四、武 士は公明正大に行動すべき」 「五、歴史を知り、先哲に学ぶこと」 「六、師につき友を得ること」 「七、 死して後已むの精神で物事に当たる」の七箇条である。少佐はこれらを目標としただけでなく、すべて 実行をしてきたのである。
吉田松陰は「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」「七たびも生きかへりつつ 夷(えびす)をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや」と辞世を詠んでをり、「士規七則」で目指したものは大和魂だと言 つてよい。
少佐は皇國護持といふ大義のために死ぬことは自分の使命だと考へてゐた。そして、その行為は必ず や後世の日本人に受け継がれると確信してゐた。なぜなら大楠公の忠義や誠意は、吉田松陰のやうな幕 末の志士たちの感激を生み、それが黒木少佐や多くの若者たちに蘇つたからである。
日本といふ美しい国は、黒木少佐のやうな先輩たちが受け継いできた〝日本の心〟によつて守られ築 かれてきたのである。今を生きる私共は、その心に学び、次代に繋いでいく責務がある。



