『日本』令和8年9月号

九月号巻頭言 史 可法「摂政王に復す」解説

支那の長い興亡の歴史の中でも、我々の心を惹(ひ)かれて已(や) まぬのが、国祚(こくそ) まさに尽きんとする際の忠臣義士の事 蹟である。殊に宋末、そして明末の史書を繙(ひもと)く時その感 を深くせざるを得ないが、宋末における文天祥(ぶんてんしょう)に比す べき人物を明末において求めんとするならば、史可法(しかほう) (一六〇二―一六四五年)を措(お)いて他にあるまい。

崇禎(すうてい)十七年(一六四四)、逆賊李自成(りじせい) により北京が陥(お) ち皇帝が自殺すると、南京兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)の職にあつた彼は他 の遺臣たちと共に南京において弘光帝を擁立、明朝の再 興を図るも君側の奸臣(かんしん)のため、都を去り最前線の揚州城 を孤守するに至る。

その人となりや短躯(たんく)精悍(せいかん)、面黒く、眼光炯々(けいけい)。揚州で は救国の策を講じつつも率先して士卒と労苦を分かち合 ふ。やがて弘光元年(一六四五)四月、華北を占拠した 清朝の大軍が来襲すると寡兵(かへい) よく抗したが時に利あら ず、城陥るや捕らへらるるも屈せず、つひに斬られた。 享年四十四。

巻頭言は殉国に先立つ崇禎十七年九月、投降を促す清 の摂政王ドルゴンの書簡に対する可法の返信の末節であ る。ここで可法は一身を以もって君国に報いんとする至忠の 思ひを吐露して居るのである。『明史』には母親が彼を 身籠(みごも)つた時、文天祥が家に入つて来る夢を見たと記され て居るが、彼の事蹟もまた天祥と同じく後世、殊に我が 幕末の志士に深い感銘を与へたことはいふまでもない。

(横久保 義洋)